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『アンジェリカの微笑み』マノエル・ド・オリヴェイラ(監督)

愛が恋に変わるとき。

今年惜しくも106歳で亡くなったオリヴェイラ監督が、2010年、101歳のときにカンヌ国際映画祭<ある視点>部門のオープニングを飾った『アンジェリカの微笑み(The Strange Case of Angelica)』が、ようやく日本で公開された。監督は1952年、この脚本の第一稿を書いたという。どんな時代に見ても変わらないであろうシンプルな強度をもった作品で、世界はいつだって、まっさらな気持ちで撮り直すことができるのだと思った。舞台は、世界遺産に登録されている歴史あるポートワインの産地だ。 

死を扱いながら、これほど嬉しくて楽しくて美しい映画があるだろうか。繋がりたくないものとばかり繋がってしまいがちな現代において、どこにも繋がらずに繋がりたいものと繋がれるこの映画はユートピア。死んでいるはずのアンジェリカの表情は笑っちゃうほど魅力的だし、死者を死者らしくない真逆のベクトルで描いてしまうオリヴェイラは、やっぱり天才。

アンジェリカは、結婚したばかりで亡くなった名家の娘。彼女の母は、娘の最後の姿を写真に残したいと望む。撮影依頼のため、執事が夜遅く写真店に行くが、店主はポルトへ出かけて留守だった。最近この町にやって来た写真好きな青年がいるよという通りすがりの男の一言で、イザクの下宿のドアがノックされることになる。

時代設定は現代だが、電話もスマホもデジカメも使わない。イザクは双眼鏡で外を眺め、鍬でぶどう畑を耕す農夫を見つけると、朝食も食べずに写真を撮りに行くような男だ。撮影に使うのはもちろんフィルム。下宿の女主人は、謎めいたイザクを気にかけているが、トラクターの時代に鍬の作業を撮るなんてと、半ば呆れている。

アンジェリカと対峙したイザクは、時代遅れの農夫たちにカメラを向けるのと同じ気持ちで、彼女を撮ったのだろうか。彼が撮影すると、アンジェリカは目を開けて微笑む。彼の「愛」は通じたということだ。だが、死者に微笑まれるという究極の不意討ちをくらった彼は混乱し、結果的に、本気で「恋」に落ちてしまうのだ。

撮影の前、カトリックの修道女であるアンジェリカの妹が、明らかにユダヤ人の名前とわかるイザクに不安を抱くシーンが心に残る。イザクは、信仰の違いなど気にしないと言い、妹を安心させるのだ。アンジェリカの写真は、親族とのそんなささやかな交流の末に撮られたものであり、このとき既に、イザクはアンジェリカを微笑ませていたのかもしれない。

愛しい娘を失った母は彼女の写真を求め、憔悴した夫は彼女の墓を離れない。故人の何に執着するかは人それぞれだ。写真を撮ったイザクは、やがて彼女の生身を求め始める。イザクとアンジェリカは、シャガールの「街の上で」という絵みたいに、夢の中で抱き合って浮遊する。

物語の鍵となる小鳥の死をきっかけに、イザクが走り出すシーンは斬新だ。地上に目的などないはずだから、彼は目的なく走っている。おかしくなっちゃったのね、と言われながら美しいレグアの町を一途に走る滑稽さが、胸を突く。

「アンジェーリカー!」(ジェにアクセント)と叫ぶイザクの声が耳から離れない。愛しい人の名を呼ぶのはコミュニケーションの基本だから、彼はおかしくなったわけじゃないし、願いはちゃんと叶う。私たちは過去や死者、既に終わってしまったように見える考えにとりつかれ、夢中になることもできるのだ。なんて美しいんだろう。そして、何もこわいものはない。

2015-12-12

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『家族の灯り』マノエル・ド・オリヴェイラ(監督)

男のウソがとりあえず輝くとき。

贅沢にしてシンプル、この上なく洗練された映画ばかり撮り続けている105歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、なぜ貧困についての映画を撮らないのかと問われ、ポルトガルの作家による戯曲「ジェボと影」を思い出し、映画化を決めたという。「家族の灯り」という日本語タイトルのコンサバ度合いとは真逆の、アグレッシブな作品である。

印象的な港のシーンから始まるが、ほとんどの舞台はテーブルのある部屋とそこから見える路地のみ。バロック絵画のような計算された絵づくりと、そこで繰り広げられるシーンの緻密さから目が離せない。8年前に失踪した息子ジョアンの帰りを待つ会計士の父ジェボ、母ドロテイア、息子の妻ソフィア。父と息子の妻はジョアンが泥棒であることを知っているが、息子を溺愛する母には隠している。母は、息子の消息について曖昧なことしか言わない父にうんざりし、息子の妻にも、あんたのせいで息子は…とつらく当たる。息子を愛しているのは自分だけという思いを深めていくのだ。

ジョアンは笑っちゃうほど唐突に帰ってきて、そんな家族をかき乱す。父と母が友人を招きコーヒーを飲みながら繰り返すおしゃべりに呆れ、挑発するのである。「父さんのような人間は、生まれた時から負け犬だ」「あんたらは全員、生き埋めにされた状態にいるんだ」と貧しさへの諦念をなじり「魂をもった犯罪者もいれば、もたない善人もいる」と志ある悪の世界を肯定する。ジョアンを演じているのはオリヴェイラ監督の孫。これは監督から孫への、負け犬になるなよというメッセージであるにちがいない。

何にせよ、撮影監督レナート・ベルタがとらえる貧困生活の陰影は美しすぎる。母を演じたイタリアの大女優クラウディア・カルディナーレや、母の友人を演じたフランスの大女優ジャンヌ・モローらが繰り広げるおしゃべりなんて、華やかさ以外の何物でもないわけだし!とはいえ一見優雅な老人たちの停滞が、過去の遺産にすがるしかないヨーロッパの成熟という病の正体であることも確かだろう。オリヴェイラ監督は、そのことを孫世代に鋭く糾弾させるのだ。ジョアンは父が取引先から預かっていた金を盗み、再び逃亡する。一緒に逃げようと妻を誘うが拒否される。妻はジョアンではなく、ジョアンの父を選ぶのである。ジョアンに追いつけないとわかり、引き返す時の彼女の表情は見逃せない。

ジョアンが金を盗んだことは、またもや母だけが知らないことになっているが、母親というものは、息子の犯罪を知ったとしても否定してかばうもの。彼女は気付かないふりをしているだけだろう。要するにジョアンは家族の期待の星。彼が金を持って逃げたことは、何も持たないで逃げるよりもましかもしれない。彼らは悪党に、社会と闘う資金を提供したようなものだ。こんな息子、こんな夫を心の中にもつスリルの共有は、貧しく単調な日々における生き甲斐でもあろう。不安を抱きつつ、彼の革命に期待しているのだ。

盗まれた金はどうするか? 取引先は裕福だから許してもらえるのではとジョアンの妻は言うが、父は否定する。誠実に生きてきたふりをしてきたが、同情で雇われている屈辱的な人生だったことを息子の妻に打ち明けるのだ。男がここまで弱みを見せるのは愛の告白と同じ。ふたりの共犯関係は妖しすぎるけれど、情けなかった父はなんだか急に生き生きしてきて、オレに全部任せろなんて言い始めるではないか。

警察がやってきて、暗かった部屋にさっと光がさす。自分が盗んだと嘘をつくことで、父の立ち位置は、光に満ちた場所になるのである。
 
だがその姿はどこか滑稽で、カラヴァッジョの絵みたいなリアリズム的ストップモーションで映画は終わる。何も知らないことになっている母の驚きの顔。それは自分のために事実を隠し通し、息子の罪をかぶった夫への、はじめての称賛のまなざしかもしれない。

2014-2-24

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『ゴダール・ソシアリスム』 ジャン=リュック・ゴダール(監督)

BE動詞を使いたくないゴダール。

今年80歳になるゴダールの6年ぶりの長編劇映画。だけどこれ、カンヌ映画祭で上映され話題になったというのに「合衆国はいうまでもなく、ヨーロッパの国々でさえほとんど一般公開されるあてのない作品」(by 蓮實重彦)というから驚く。つまり、日本は世界でも有数の「ゴダール大好き国」なのだ。
ゴダールもまた日本が好きなはず。だって今回も日本車(SUZUKI)がメインに登場するし、「カミカゼは日本語で神の風という意味だ」「知ってる」なんていう祖父と孫娘の会話もある。いつもお洒落にキメてくれるラストも楽しみのひとつだが、この映画の最後の言葉は、日本の政治家からの引用ではないかと思うくらい。

映画の冒頭では、書籍、映画、音楽の膨大な引用元がクレジットとして表示される。元ネタは何か?ということばかりがマニアックに議論されるのは、もううんざりなんだろうな。これこそが、古今東西の表現を共有財産にしようというゴダールのソシアリスム(社会主義)なのか。予告編もすごい。1分半くらいで全編を超高速で見せちゃうんだから、これまでにない開き直りというかサービス精神だ。
前作「アワーミュージック」と同様のわかりやすい3部構成。第1部はエジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリを経由しバルセロナへと向かう豪華客船が舞台。第3部もまた、同じ順に人類の歴史をたどる。「ヨーロッパはどこへ行くのか?」という強烈なメッセージが全編を貫いているのだが、ソシアリスムよりもキャピタリズムというタイトルにしたほうが観客は増えただろう。

ゴダールの新作に新鮮さを感じたのは久しぶりだ。全編HDカムでの撮影。しかも第1部は、豪華客船と荒れ狂う海。なんだか大規模なのである。だがその表現は、より若く、力強くなっていた。美しく撮ればオリヴェイラ「永遠の語らい」「リスボン」アモス・ギタイの「オレンジ」にそっくりな映画になってしまっただろうから、洗練とは逆のベクトルを選択したのは大正解。井上嗣也によるコムデギャルソンの仕事を思わせる、最前線のグラフィック・デザイン映画だ。
今回の表現の目玉は、圧倒的なノイズ。デッキ上の風と波の音、ダンスホールの大音響など、ひずみや割れがこれでもかと強調される。そして、失敗した写真のように焦点のあわない荒れた映像。プールもカジノもある豪華客船が、ちっとも豪華に見えないのが面白い。ギターを手にしたパティ・スミス本人(!)がアメリカ人代表のように登場し、船室内はもちろん、エレベーター・ホールを歩きながら歌っちゃってるんだから爆笑です。こんな豪華客船、乗りたくないってば。

南仏でガソリンスタンドを営む一家を描いた第2部が、最もゴダールらしくて安心する。女優、ファッション、クルマ、その辺はもう「勝手にしやがれ」の頃から変わらないセンスのよさで。給油スタンドにもたれ、サングラス+ストライプのワンピース(欲しい!)姿でバルザックの『幻滅』を読むフロリーヌなんて、VOGUEの1ページのよう。彼女の傍らにはラマがいる。動物たちの無垢な表情と「無言」も、今回の作品のポイントだ。

BE動詞を使うなというメッセージが、しつこく繰り返される。
「BE動詞を使う人と話してはダメよ」
「BE動詞は使わないで」
「ほら、BE動詞ではフランスは動かない」
「BE動詞は、現実の欠如を明らかにするだけ。たとえば、もうすぐ私たちはバルセロナに『いる』…。むしろ、バルセロナが私たちを『歓待する』の方がいい」

たしかに、状態を表すBE動詞だけでは、私たちはどこへも行けない。
ツイッターで「なう」とかつぶやいている場合じゃないかも。

2010-12-26

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『グラン・トリノ』 クリント・イーストウッド(監督) /

「不機嫌」と「やんちゃ」のあいだで。

妻を亡くしたウォルト(クリント・イーストウッド)の家の周辺は、人種のるつぼと化し、荒廃している。隣家の住人はアジア系のモン族だ。CIAは、ヴェトナム戦争でラオス高地のモン族を傭兵として雇ったが、彼らは戦後、難民として亡命。米国には現在、20数万人のモン族が暮らしているらしい。

ウォルトの頑固な不機嫌をほぐすきっかけとなるのが、隣家の姉(スー)と弟(タオ)であるという設定がすばらしい。実の子や孫にはうんざりし、モン族の年寄りとは通じ合えなくても、英語を話しジョークを解するモン族の新世代とは、新しい形の交流ができてしまうのだから。ウォルトがスーの誘いでモン族のホームパーティーに出向くシーンと、その後、意気地なしのタオに口汚い会話や男の処世術を伝授していくプロセスは、忘れられない。

人生とは、目の前の状況を何とかすることの連続なのだろう。ウォルトは、家を修理し、芝を刈り、思い出のクルマ、グラン・トリノを磨き、不良たちの目にあまる悪行に対処する。そう、それだけでこんなドラマができあがってしまうのだから面白い。

彼は何度も銃を手にする。もう、銃なんて持ちたくないのに。アメリカという国は、引退生活すら優雅に送ることのできない国なのである。血の気の多い男の怒りを誘発する材料が、日常的にあるということだ。そしてウォルトは決定的な失敗をする。老人とは思えない<やんちゃぶり>で。

しかし、悲劇と同様、救いもまた、荒廃した状況の中にある。この状況をなんとかしたいと最後まで思えること。死ぬまで後悔をかかえ、失敗をし、それでも誇りと希望を失わないこと。かっこいい人生じゃないか? 人生は、最後までうまくなんていかない。むしろ、だんだんうまくいかなくなり、死んでいくのが人生なのだ。だからせめて、自分の気持ちに、そのつど決着をつけて生きていくしかない。穏やかな日々なんて望んではいけない。洗練なんて求めてはいけない。だって、世界が穏やかになったことなど、かつて一度もないのだから。今の世の中の状況は、年長者の責任でもあるのだから。長生きした男は、早死にした仲間の分まで責任をとり、死ぬまで戦い続けなければいけないのである。

ウォルトは、78歳のイーストウッド監督自身のようだ。『グラン・トリノ』は男の人生の美しい締めくくり方についての映画だが、オリヴェイラのようなヨーロッパの洗練からはほど遠いし、操上和美の『ゼラチンシルバーLOVE』とは対照的な軽さだと思う。イーストウッドの映画といえば、前作『チェンジリング』が公開されたばかりだが、次作はネルソン・マンデラについての映画だという。一体イーストウッドはどこへ行くのか? まだまだ本当の締めくくりは訪れそうにない。

スーの軟弱なボーイフレンドを演じているのが、イーストウッドの息子、スコット・リーヴスであることにも注目したい。彼はまだ、自分の息子にこんな情けない役しか与えないのである。主題歌は、別の息子でありミュージシャンのカイル・イーストウッドが担当しているが、こちらはすごくいい!

2009-04-29

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『夜顔』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

サービスの純度。

「上品」は、どこからくるのだろう。たぶん、自然に生まれるものではなくて、どこかで誰かがつくるものなのだと思う。社会性にこだわり、外出着を選び、手にとるものを選び、口にする言葉を徹底的に選ぶ。そして、そんな上品が、別の上品を呼ぶ。

この映画には、ひとつの劇場と、ひとつのバーと、ふたつのホテルが登場する。主人公(ミシェル・ピコリ)が一人で演奏会を楽しんだり、バーマンと話しながら酒を飲んだり、コンシェルジュに女(ビュル・オジエ)のゆくえを尋ねたり、ギャルソンたちのサービスを受けながら女とフルコースの食事をしたりする。これらのシーンに登場するサービススタッフの上品さは、特筆すべきものだ。

バーマンは、店の常連である2人の娼婦を「天使」といい、若くない娼婦は若い娼婦を「いい友達」といい、ギャルソンたちは、トラブルを起こした客についても、陰でネガティブなことを言う代わりに「面白い」「不思議」「変わっている」というニュアンスの言葉で尊重する。

人だけじゃない。主人公が女を追跡するパリの夜の美しさは比類ないし、グラス、シャンパン、燭台、プレゼントなどの小物をはじめ、アル中の主人公が身につけている服、かつて背徳的な人妻であった女が身につけている服、娼婦たちが身につけている服の選びぬかれた上質感。ほとんど一発撮りのようであり、しかも完璧であるとしかいいようのない70分だ。こんな緊張感あふれる映画は70分間で十分だし、物語なんてなくたっていい。これほど美しく凝縮されたリアリティのある画面を構築できるのは、今年100歳になるというオリヴェイラ監督だけではないだろうか。

この映画はルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967年)の続編といえるオマージュ作品だが、オリヴェイラ監督は言う。「ブニュエルは私的なことと映画を混同しない人だった。彼は背徳的なテーマを描いても、セックスシーンは撮らなかった。私的なことだからだ。私も彼の考えに賛同する一人だ」

人間には裏表があって実は下品なのである、という杓子定規的なトーンの映画を見ると、がっかりする。下品なのはあなただ、と監督を指さしたくなる。

オリヴェイラ監督は、相変わらず、精力的に映画を撮り続けているようだ。ひとつのことを長く続けることによって、頑固さとは別の純度を手に入れることができるのだとしたら、世の中はなんて希望に満ちているんだろう。

映画のあと、それぞれ別の知人がやっているレストランとバーへ行った。今まで深く考えたことがなかったけれど「夜顔」を見たあとでは、どちらの店のコンセプトもサービスも、驚くほどピュアであることに気がついた。なんだか映画の続きのような気分になって、ああ、私のまわりにも上品な人たちがいるんだわ、と嬉しくなった。私が映画館で買ってきた「夜顔」のポストカードを渡すと、レストランのオーナーはフランス語のタイトルについて、バーのオーナーは主演男優についてコメントしてくれた。

ネガティブなことをネガティブに考えればいろいろあるのだろうけど、とりあえず、日々、ポジティブなことだけで頭の中をいっぱいにすることができる状況は何よりも幸せで、その要には「上品でピュアな人」の存在があることを強く思う。万が一、身近にそういう人が一人もいなくなっちゃったとしても、私たちは、オリヴェイラ監督の映画を見ればいい。

*2006年/フランス+ポルトガル合作/70分
*銀座テアトルシネマで上映中

2008-01-07

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