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『パターソン』ジム・ジャームッシュ(監督)

戦闘服をぬがせる太陽のように。

『パターソン』は、ひっそりとした物語で、主人公たちにドラマチックな緊張感らしき出来事は一切ない。物語の構造はシンプルであり、彼らの人生における7日間を追うだけだ。『パターソン』はディテールやバリエーション、日々のやりとりに内在する詩を讃美し、ダークでやたらとドラマチックな映画、あるいはアクション志向の作品に対する一種の解毒剤となることを意図している。
ジム・ジャームッシュ

監督は25年位前、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩「パターソン」に興味を持ち、ニューヨークから1時間位で行けるパターソンを訪れ、街を見て歩いた。いつかここで映画を撮りたいと思い「パターソンという男がパターソンに住んでおり、彼はバスの運転手であり詩人でもある」という設定をすぐに思いついたという。

あらすじは、詩が生まれる町における夫婦と愛犬の1週間。平和過ぎて退屈そう。もちろん小さなできごとは無数にあるけれど、この映画は、その小さなきっかけを大きな事件に広げようとせず、逆に収束させてしまうのだ。

普通の映画なら、何でもない会話はケンカになり、ケンカは決闘になる。ちょっとしたバスの故障が事故につながり、死者が出る。可愛い犬は連れ去られ、美しい詩は誰かに悪用されるはず。そうならないことのほうを「つまらないな」と感じてしまう思考習慣ってどうなのか。現実の悪い事件のほとんども、たくさんの人々の妄想が生み出しているんじゃないかとすら思う。何か悪いことが起きるかもという恐怖の想像は、何か悪いことが起きても仕方ないという諦念にとても近い。

映画上のこの街で1週間を過ごしていると、それほど悪いことは起こらないことが、だんだんわかってくる。そういう安心感をとりもどす解毒体験は貴重だし、同じような毎日の、小さな差異が見えてくるのは嬉しい。ドラマチックな日々は、人を興奮させる代わりに、細部を見えなくしてしまうから。

人々の会話からも風景からも、景気があまりよくない感じが伝わってくるけれど、とりあえず、じゃあまた明日、という日々の繰り返しが生むポジティブな力。前に進まなくても、明日になればまた、今日とは違う風景が見えてくるのだから、同じことを繰り返して生きていくって強いなと思う。パターソンが夕食後、犬の散歩の途中でビールを1杯飲むために立ち寄るバーが、見ている側にとっても、ものすごく楽しみになってくる。

もうひとつの楽しみは詩だ。パターソンは、オチもクライマックスもない日常の中で、幸せな詩を書いている。彼はそれをひけらかさないが、内面の豊かさは伝わる。この映画は、あまり外交的ではない静かで受け身な男の魅力を描くことに成功している。

エキセントリックな妻が素敵に見えるのも、パターソンが彼女を肯定しているから。いくつかのことを多少我慢しながらも、その肯定感がぶれないのは愛のせい? それとも彼女を怒らせないため? いや、実は彼女のほうこそ、彼を気遣っていることがわかる。これは、争いのない関係の成立をめぐる、とても繊細で生々しい映画なのだ。

パターソンが大切な詩のノートを損なったとき、彼の詩を読みたくてたまらない妻は心配し「復元する」とまで言った。彼女はアーティストだから、独自の方法でアレンジして、詩の言葉が断片的に読めるような白黒のアートに仕立ててしまうかもしれない。

詩が好きな人に出会うと、詩の話をするパターソン。その一人は素晴らしい詩を書く少女で、もう一人は、25年前の監督のように、ウィリアムズの詩に興味をもち、この街にやってくる日本人だ。その役を永瀬正敏が演じている。おしゃれでかっこいいアメリカの映画に、日本人が理想的な形で登場するのだから、たまりません。

2017-9-1

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『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 ジム・ジャームッシュ(監督)

世界で最も美しいユニットは、こんな二人。

アダムとイヴはヴァンパイア(吸血鬼)の夫婦。30代のトム・ヒドルストン(187㎝)と50代のティルダ・スウィントン(180㎝)が演じている。光に弱いから明るい時は寝ていて夜にしか活動しないわけだが、それだけでシンパシーを感じる。アダムは古いモノを好む神経質なタイプで、イヴは新しいものを柔軟に取り入れるタイプ。ライフスタイルも身長も年齢差も役割分担も、イマドキな感じなのだ。

彼らはゾンビ(人間)たちの世界で身をひそめ、何世紀も生きてきたが、人間を襲いダイレクトに血を吸う前世紀の野蛮さはない。不死身のヴァンパイアといえども、汚染された血液を飲めば命はないのだから。彼らのデカダンスは、ゾンビたちにはマネできないレベルで洗練されている。早朝から陽の光を浴びて運動し、元気に朝食を食べる現代の高齢者とは対照的だ。

アダムは、名前を世に出さない伝説のカリスマミュージシャン。『彼女は嘘を愛しすぎてる』で佐藤健が演じた天才サウンドクリエイターのアキのように不機嫌でかっこよく、財政破綻でゴーストタウン化したデトロイトに住んでいる。一方イヴは、さっと本をなでるだけで読書できる能力をもち、ビートニクの聖地であるモロッコのタンジールで暮らす。彼らはスカイプで会話し(イヴはiPhone、アダムは古いテレビを使って!)、サングラスをかけてリュミエール航空の深夜のファーストクラスでヨーロッパを経由し、2つの都市を行き来する。

奇跡の歌声に出会うタンジールの街角や、夜のドライブで車窓に流れる廃墟寸前のデトロイトの街並みの美しさといったら。ガソリンまで手に入りにくくなった震災直後の日々、フロントガラスから目に焼き付けた、照度が落とされ閑散とした都内の光景を思い出し、泣けた。私があのとき見た非日常は、美しさでもあったのかと。

恍惚の表情で赤ワイン(上モノの血液)を味わい、レコードを聴き、チェスをし、尽きない昔話や量子力学についての議論をするふたり。ゾンビたちの中心地ロサンゼルスからやってくるイヴの妹(ミア・ワシコウスカ)の無茶ぶりが、彼らの憂鬱を際立たせる。アダムとイヴはヴァンパイアの中でも類い希な高尚さをもつマイノリティであり、汚染された世界のリトマス試験紙のようなものなのだ。血液を手に入れる闇のルートが閉ざされたとき、彼らはどうするか。絶望のはてに全財産を注ぎ込んで買うものは何か。それがラストシーンだ。生命の危機の場面で美学をどう貫くかってことだけど、貫けなければ自死せよと言わないところが圧倒的にステキ。これは優先順位の問題であり、死んでしまってはダメなのだ。

彼らにとって、最後まで守るべきは愛と音楽。私たちもゾンビになる前に、季節外れのベニテングダケが道端に生えてくる前に、ゾンビとは違うやり方で、志を同じくするヴァンパイアを見つけるべきだろう。最後に必要なものは何なのか、誰なのか。

癒しと絆にまみれた接続過剰なゾンビ的監視社会から眺めると、この映画の絶望と毒は果てしなく美しい。ヴァンパイアとは、究極のオトナの不良なのである。つまりジム・ジャームッシュ監督自身。この先何十年も、できれば転生して何世紀も、お洒落で笑える映画を撮ってほしい。それだけで世界の希望です。

2013-12-29

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『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。

これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)

*2005年アメリカ映画
カンヌ映画祭 グランプリ受賞

2006-05-12

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『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

コーヒーもシガレッツも、無意味である。

1日に何度も私をカフェに誘う人がいた。そんなに私と話がしたいのねと思っていたら、その人は単なるコーヒー&シガレッツ中毒とわかり、大笑い。

私自身はコーヒーを飲まないしシガレッツも吸わないけれど、それでも私はコーヒー&シガレッツが好きだ。コーヒー&シガレッツとともに過ごす時間の愛すべきばかばかしさや無意味さの中毒になったのかもしれない。

そしてこの映画も「映画」というよりは「中毒」とか「習慣」とかいうジャンルに分類したいような、意味のない映画である。モノクロで映されるコーヒーとシガレッツは汚くて、ちっとも美味しそうじゃないし、会話も面白くなんかないし、人間関係も当然うまくいかない。

会話なんて、もともと面白くないんだってこと。コーヒーなんて、かっこよくないんだってこと。シガレッツなんて、体に悪いだけなんだってこと。それでも人は会話したいしコーヒーを飲みたいしシガレッツを吸いたいのである。

映画のあと渋谷のワインバーに行ったら、私が手にしていたパンフレットを見てスタッフが言った。「それ、僕が明日見ようと思っている映画です」。デートですかと聞くと「こういう映画やゴダールは彼女を誘えないから必ず1人で」と笑った。圧倒的に彼は正しいと思う。そして、まさにこれは飲食店に勤める人には必見の映画。こういうニュアンスが感覚的にわかっていたら、最高のサービスができるはず。

コーヒーとシガレッツの汚さとは対照的に、ジャームッシュはモノクロ画面の中で女優の魅力を最大限に引き出す。とりわけ怪しげなニューヨーカー、ルネ・フレンチは前作「女優のブレイクタイム」におけるクロエ・セヴィニーを超える美しさだ。

ロベルト・ベニーニの演技が過剰でダサすぎると感じても、おかしな二人がトム・ウェイツとイギー・ポップだとわからなくても、ケイト・ブランシェットが一人二役だとわからなくても楽しめる。リチャード・ベリーをトリビュートしたイギー・ポップのテーマ「ルイルイ」は、秋冬コレクションでクラシック音楽にデビッド・ボウイの「ヒーローズ」を重ねたという気鋭のファッションブランド、ドレスキャンプのようではないか。

ジム・ジャームッシュ。1953年生まれ。洗練とはかけ離れた若さ。こんなつまんない映画に立ち見が出ている。

*2003年アメリカ映画
*シネセゾン渋谷で上映中

2005-04-17

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2017年洋画ベスト10

●もうひとりの男(パオロ・ソレンティーノ)*日本初上映

●希望のかなた(アキ・カウリスマキ)

●笑う故郷(マリアノ・コーン/ガストン・ドゥプラット)

●台北ストーリー(エドワード・ヤン)*日本初公開

●わたしは、幸福<フェリシテ>(アラン・ゴミス)

●立ち去った女(ラヴ・ディアス)

●パターソン(ジム・ジャームッシュ)

●たかが世界の終わり(グザヴィエ・ドラン)

●マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン)

●ノクターナル・アニマルズ(トム・フォード)

2017-12-30