「アカデミー賞」の検索結果

『D.I.』 エリア・スレイマン(監督) /

わからない。わらえない。ありえない。

「パレスチナをD.I.で初めて体験するのは、生まれて初めてふぐを食べるような体験に似ているかもしれません。パレスチナには、やさしい景観があり、ちっぽけな魂があり、ほとんど透明で、見ればひと目で見渡せてしまいます。そこで生きようと思えば生きることもできるし、生きれば愛おしくもなります。そうしたいと思われる方は、ぜひどうぞ。ただし、毒にはあたらないように、お気をつけて・・・」

監督の日本へのメッセージだ。カンヌでの記者会見では、パレスチナで全部撮影できたのかと聞かれ「シューティング(撮影)は全部はできなかった。イスラエル軍がシュート(銃撃)していたからね」と答えたそう。

監督演じる男はイスラエル占領下の東エルサレムに住み、彼が愛する女はパレスチナ自治区のラマラに住む。イスラエルとラマラの間にはイスラエル軍の検問所があり、女はエルサレムに入れない。そんな2人は、検問所の駐車場の一角でデートを重ねる・・・

単純なストーリーだが、こういう状況にリアリティを感じるのは無理だ。ラマラってどこよ?検問所って何よ?っていうか、誰がパレスチナ人で誰がイスラエル人なわけ?

映画で描かれるパレスチナの日常は、同じことの不毛な繰り返しだ。穴を掘ったり、壁をこわしたり、ゴミを他人の家に捨てたり、ひたすら掃除したり。サッカー少年の蹴るボールはズダズタにして返され、それを無表情で見守る人がいる。こわれればつくり直し、やられたらやり返し、家に火をつけられれば淡々と消火作業をする。主役の男女は、最後までひとこともしゃべらない。

こんな調子だから、悩殺美女やアラファト議長の顔が描かれた風船が検問をあっさり突破するシーンは爽快だし、パレスチナの女忍者がイスラエルの兵士たちと戦うスペクタルシーンには大爆笑!とまとめたいところではある。実際、パレスチナでの上映では大受けだったそうだし。だけど、これらのユーモアはあまりにも正当派すぎて、平和な国の成熟した(弛緩した)ギャグに慣れてしまった部外者の私には笑えない。

男がアンズをかじり、種をクルマから捨てると路肩の戦車が爆発するが、種を捨てた本人はポーカーフェイスのまま。暴力に対抗する武器は、ポーカーフェイスでありアンズの種であり、風船や悩殺美女や女忍者なのだ。圧倒的に正しく懐かしいファンタジー!

私が唯一笑えたのは、夜の検問所でやりたい放題の検問をする将校の演技。イスラエルの有名タレントが演じているらしいが、支配者と被支配者の構図を骨抜きにする傑出したキャラクターだ。

「D.I.」の意味はDIVINE INTERVENTION(神の介在)。自由になるためのイマジネーションを意味するという。イマジネーションさえあれば、愛はどんな困難な壁も通過するのだろう。アカデミー賞の外国語部門は、パレスチナは国として認められないという理由で、この映画をノミネートから排除したそうだけど。

選曲のセンスのよさは驚きで、世界的なトレンドの気分を反映しながらも新鮮。
美女や風船のように、音楽は国境をさらっと突破してしまうのだ。

*2002年 仏・パレスチナ合作パレスチナ映画
カンヌ映画祭審査員賞受賞
*渋谷・ユーロスペースで上映中

2003-06-02

『アマデウス ディレクターズ・カット』 ミロシュ・フォアマン(監督) /

男の嫉妬はアンビバレント。

嫉妬には2種類ある。広辞苑にはこう書かれている。
1.自分よりすぐれた者をねたみそねむこと。
2.自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。

「キミよりもAのほうが優れた人間だから」という理由で最愛のBに見捨てられてしまった場合、Aに対する嫉妬が1、Bに対する嫉妬が2ということになる。Bの愛情を取り戻すためには、Aに勝たなくてはならない。つまり1の嫉妬は「相手の才能を排除」することへ、2の嫉妬は「相手の愛情を独占」することへと向かう。シンプルだ。

だが、1と2の嫉妬が入り混じったアンビバレントなケースもある。たとえば「キミよりもAのほうが優れた人間だから」という理由で多くの人々に見捨てられたのにも関わらず、自分もAの才能を愛してしまった場合。Aをねたみつつも、その才能を排除することはできないだろう。代わりにほかの誰よりもAを理解しようとするのではないだろうか。つまり「相手の才能を独占」し、奪い取ることで、多くの人々の関心を自分のもとへ呼び戻そうとする。

相手の才能を独占し、奪い取る? そんなことができるのだろうか?
「アマデウス」は、このような凄まじい嫉妬の顛末を描いた作品だ。

禁欲的に生きる凡庸な宮廷音楽家サリエリは、天才モーツァルトの品のないキャラクターに驚きつつ、それを利用する。「才能はあるが危ない男」と周囲に吹聴しながら、自分だけが彼に近づくのだ。憧れの女を汚されるなど悔しい思いをしているのにもかかわらず「こいつの音楽を本当に理解できるのは自分だけ」というような屈折した自負心を隠し持つサリエリ。神を呪い、復讐の野望を抱く一方で、モーツァルトの才能に打ちのめされ翻弄されてゆく。

若い神父の前で、こうした感情のすべてを吐露する年老いたサリエリの演技は、何度見てもすばらしい。とりわけモーツァルトの才能と音楽を語る彼の恍惚の表情が、すべての暗い感情を一掃するとき、この映画を見てよかったなと思う。どんな嫉妬をもあっさり乗り超えてしまう才能が、あらゆる苦悩をちゃらにしてしまう音楽が、世の中には確かに存在するのだ。映画自体の設定はばりばりのフィクションでありながら、そこに流れるモーツァルトの旋律は、まぎれもないリアルとして観客の魂を揺さぶる。

今回加わった20分間の映像で印象的なのは、モーツァルトを異なるアプローチで愛する2人「モーツァルトの妻 VS サリエリ」の対決シーンだ。サリエリの前で大胆に服を脱ぎ、あとで大泣きするというシンプルな妻の行動が、サリエリの苦悩の複雑さを際立たせる。男たるサリエリは、脱ぐことも泣くこともできないのだから。まったく、男ってやつは大変だなと思うけれど、それでも私は、サリエリがモーツァルトの音楽に打ちのめされたように、男が男に抱く嫉妬のどうしようもなさと美しさに迫ったこの映画に打ちのめされてしまう。

*2002年アメリカ映画(オリジナル版:1984年 アカデミー賞8部門等受賞)
*新宿・テアトルタイムズスクエア(~11/15)、テアトル梅田(~11/8)で上映中

2002-11-08

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