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『 FATBOY SLIM LIVE : from the big beach boutique』
ファットボーイ・スリム

8年後、真夏のリベンジ。

ロンドンからクルマで南へ1〜2時間。ビーチ・リゾートとして有名な観光都市ブライトンがある。6月にここで開催され4万人を動員したファットボーイ・スリム(=ノーマン・クック)のライブが、8月末日、世界30か国で同時上映された。一夜限りのワールド・シネマ・ダンスパーティである。

日本では15か所の映画館で上映されたようだが「世界一のパーティDJ」なんて言われ、ロンドン・オリンピックの閉会式でもオリジナル2曲を演奏し喝采を浴びたファットボーイ・スリムであるからして、その熱狂は素晴らしかった。2002年にはブライトン・ビーチで25万人を集めたが、死亡事故が起きたため同様のライブはしばらく中止されたのだという。

私は六本木ヒルズの映画館で見た。昨年秋「ゲット・ラウド」「パール・ジャム トゥエンティ」「ジョージ・ハリスン living in the material world」といったマニアックな音楽映画が立て続けに上映され、音的にはかなり満たされていたが、そろそろ「次」を期待していたところだ。最初は、映画としてゆっくり鑑賞するつもりだった。しかしアロハに短パン、裸足の本人が登場し、DJセットの前であぐらをかいただけで歓声は最高潮に。IT技術をわかりやすく説明するパフォーマーのことをエヴァンジェリストというらしいが、まさにそんな感じ? いや全然違うか!

盛り上がっているのはスクリーンに映っているブライトン・ビーチの観客だけじゃない。スクリーンのこちら側も最初から騒ぎっぱなし、立ちっぱなし、踊りっぱなしなのだった。夏フェスの臨場感が得られ、ビールも売れまくり。スペースに余裕があるからモッシュ状態にはならないものの、なんかいろいろ後ろから飛んでくるし、意外と危険。ゆえに警備員も登場。しかしフェス行くよりはずっと涼しくて快適だし、すわって見れちゃうし、DJもVJもファットボーイ・スリムもブライトン・ビーチのおしゃれな人々も超絶よく見えちゃうし、帰りの混雑ないし、ここは天国か。スクリーン側の客は4万人だが、こちらはわずか150人なのだ。

とにかく1人で4万150人を盛り上げちゃう彼はすごい。仕込みもすごいしパフォーマンスもすごいのだろうが、なんといってもオリジナルの楽曲が素晴らしいんだと思う。ビートだけじゃないメロディの美しさは、まぶしいほどポジティブで古びない。ここはディズニーランドか。しかしVJには挑発的なコトバや、ゲリラアーティスト的に動く本人の映像も。トレードマークでもあるスマイリーな悪魔メイクで変装した彼がShepard Faireyによる怪しげな「AMEX」ステッカー(ライブ会場となったアメックス・スタジアムのこと)を、自ら街に貼りまくるのである。そのすべてが何というか、ハッピーでピースフルな感じなのだけど。

2004年9月に目黒でおこなわれたファットボーイ・スリムのアルバムリリースパーティについて「音楽的衝撃(=演奏しないで帰っちゃった)」と書いたことを思い出した。
https://www.lyricnet.jp/kurushiihodosuki/2004/09/27/906/

あれから8年、ようやくリベンジを果たした気がした。ナマで見たわけじゃないけど。 

2012-09-04

amazon(cd)

『Isole(群島)』 アントニオ・タブッキ / Universale Economica

タブッキの海。

長かった梅雨が明け、小舟という名のオープンカーで海辺の町へ行った。
夏の陽射しは、サプリメントからは摂取できないヴィヴィッドな栄養素をチャージしてくれる。
ほてった肌をテラスで落ち着かせ、ジャコメッティの彫刻を思わせる細いグラスにビールを注ぐと、水平線の近くにキラキラと輝く島が見えた、ような気がした。
タブッキの短編をつれて行くだけで、そこはティレニア海になる。

「Isole」の主人公は、トスカーナの島で刑務所の看守をしている。その日は、年金生活前の最後の仕事の日。手術が必要な男の囚人を、本土の病院に連れていくのが彼の任務だ。彼にとっても囚人にとっても、別の意味で、これが最後の旅となるだろう。船の時間はゆっくりと流れ、彼はオレンジの皮をむく。北に住む娘に宛てて、心の中で手紙を書くのだった。

仕事とプライベート、過去と未来、現実と空想が自在に入り混じって、オレンジの皮とともに海面へ消えてゆく。娘のマリア・アッスンタとその夫ジャンアンドレアのこと、彼らのもとへ行くつもりはないこと、これまでの自分の人生のこと、亡くなった妻のこと、明日からの年金生活のこと、そして、目の前の囚人のこと。

彼の想像は具体的だ。チンチラウサギを飼う計画については、飼育方法にまで話が及ぶし、これから食べるランチについては、カッチュッコ(リヴォルノ地方の魚介スープ)から始まり、メバル、ズッキーニのフリット、マチェドニア、チェリー、コーヒーまでテーブルに並ぶ。

正午前に着いた港では、犬がけだるくしっぽを振り、Tシャツを着た4人の若者がジュークボックスのそばでふざけている。ラモーナという懐かしい歌がリバイバルし、トラットリアはまだ閉まっている。彼は、赤いニスが剥げかかったポストに、囚人から託された手紙を投函する。手紙の宛名はリーザとあるが、彼は囚人の名をおぼえていない。

それらすべてが、小さな点のような群島のイメージに結晶する。
強い陽射しが水平線をきらめかせ、島が見えなくなるとき、彼の孤独はくっきりとするのだ。
タブッキの真骨頂は、海の描写だと思う。
手紙、音楽、そして、おいしそうな食べものも欠かせない。

*Piccoli equivoci senza importanza (1985)に収録

2006-08-02

amazon(イタリア語版) amazon

『MOOG(モーグ)』 ハンス・フェルスタッド(監督) /

ピュアな冒険家 ― モーグ博士とフラハティと中村史郎。

電子楽器の神様、ロバート・モーグ博士は、物理学と電子工学が専門。
1964年に初のシンセサイザー「モーグ」を世に送り出した人だ。

モーグを愛するミュージシャンへのインタビューやライブが楽しめる映画。ビースティ・ボーイズの1月来日公演にも同行したマニー・マーク、ラウンジ系モンドミュージックをファッションにしたステレオ・ラブ、プログレで名高い元イエスのリック・ウェイクマン、ファンクな下ネタ連発のバニー・ウォレルなど、モーグをマジで叩きまくるパワフルな旧世代から、ゆるゆるのレトロ感覚で取り込む最近の世代までバラエティに富んでいる。

モーグの魅力を100%引き出すことに成功しているのが、エド・ケイルホフというシンセプレイヤーによるシェイファービールのCF。1969年ごろNYで撮影されたらしいが、「男は黙ってシェイファービール」というコピーに驚いた。このコピーはサッポロビールのオリジナルかと…。

シンセサイザーの電子音というのは、もはや癒し系の音なのだと気付く。そう、初期のシンセは、コンピュータを使わないアナログな機械。「素晴らしい楽器をありがとう」とモーグをリスペクトする人たちが博士と会話する様子はハッピーそのものだ。

サビついたトヨタ・ターセルに乗るモーグ博士は、シンセの電子回路を「感じる」ことができる。新しいアイディアも、自分のものではなく、どこからかやってくるのだという。博士はそれを感じとり、次のプロセスにつなげるだけなのだ。

「ある映画作家の旅-ロバート・フラハティ物語」(みすず書房)の中の「先入観なしに」という言葉を思い出した。ドキュメンタリーの父、ロバート・フラハティがエスキモーの生活に密着した代表作「極北のナヌーク」(1922)を見て衝撃を受けた私だが、このひとことで映画の謎がすべて解明されたような気がしたのだった。モーグ博士の生き方も、まさにこれだと思う。何かを見つけるために勇んで冒険するのではなく、自然に外へ出て自然に帰ってくるような趣味的な冒険家。

エスキモーの子供が、複雑なシャッター機構をもつカメラを、その目的も知らないまま監督に代わって組み立ててくれたというエピソードも印象的だ。「極北のナヌーク」の上映会では全員がスクリーンに突進したというほどイノセントなエスキモーの人々が、カメラという機械に対する天性のセンスを持ち合わせているというのだから目からウロコ。エスキモー語には、「作る」「創造する」という言葉がないというが、ロバート・フラハティも、そんな彼らを映画として撮る前に、先入観や目的なしに「感じた」のだと思う。

先日、日常のものをプロがデザインしなおすというコンセプトの番組「ニューデザインパラダイス」の総集編を見た。面白いものがないなと感じる中、ひとつだけすごいものがあった。日産のデザイン本部長、中村史郎がつくったクリスマスケーキである。クリスマスに家路へ向かう雪道を表現したという高さのある白いケーキ。これには驚いた。だって、ケーキである前に、道なんだもん。クルマや道路のことばかり考えている異分野の人だからこそ、子供みたいな感覚で、どこにもないものがつくれるのだろう。

チョコレートについての雑誌のインタビューでも、結局は日産のマーチにショコラというボディカラーがあるという話になり「あのクルマはトリュフに似てませんか?」なんて言っていた中村史郎さんは、ロバート・フラハティやモーグ博士と、どこか似ている。

*2004年アメリカ映画
*シブヤ・シネマ・ソサエティでレイトショー上映中

2005-04-07

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『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 / 河出書房新社

キハクさという確信犯。

「やきそばパンの逆襲」は、「パン屋再襲撃」(村上春樹/1985)の実践編である。

「パン屋再襲撃」には、こんなアイテムが登場する。缶ビール、フレンチドレッシング、バタークッキー、中古のトヨタ・カローラ、午前2時の東京(代々木、新宿、四谷、赤坂、青山、広尾、六本木、代官山、渋谷)、24時間営業のマクドナルド、30個のビッグマック、ラージカップのコーラ、ソニー・ベーター・ハイファイの巨大な広告塔…。

あらすじはこんな感じ。学生時代、ぱっとしないパン屋を襲撃したところ、労働の代わりにワーグナーのLPを聴くという条件でパン屋の主人からパンを得てしまった主人公は、結婚して間もなく、原因不明の異常な空腹に襲われ、深夜、妻と一緒に再びパン屋を襲撃する。再襲撃先としてマクドナルドを選んだ理由は、ほかに開いているパン屋がなかったからだが、これは偶然ではなく必然。2人はクルマの中でビッグマックを腹いっぱい食べる…。

一方、「やきそばパンの逆襲」には、こんなくだりがある。
「おまえの親父は、『ハンバーガーみたいなジャンクフードは食べるな』と言うんだよな。でもオレはそうじゃないと思う…オレは時代のど真ん中に食らいついてやると思ってる…戦えよ、アキ、時代と向かい合うことを、サボったりしちゃダメだぞ! 鈍感な奴は、知らないうちに時代に流されてしまうんだからな」

広告代理店を経営する満(48歳)が、部下の明彦(25歳)にハッパをかける場面だ。ハンバーガーを食べることは時代と向き合うこと。つまり本書のメッセージは「マクドナルドを再襲撃せよ」ということなのだ。「パン屋再襲撃」の主人公がマクドナルド襲撃後に見たものは、ソニーの巨大な広告塔で、それが1980年代の真実であった。2004年の本書でははたして何が見えたか…?
やきそばパンである。

やきそばパンは、やきそばでもなくパンでもない。コンビニで両方を買い、ばくぜんと交互に食べているだけでは到達できない新しい概念だ。そんな概念に出会うために、著者はあらゆる既成概念の間を身軽にすり抜ける。本書を貫くトーンは「キハクさ」だが、流されないためのキハクさは確信犯。「この本は中身が薄い」と著者が宣伝していた意味が、読んでみてようやくわかった。それは、本書のもっとも売りの部分だったのだ。

とりわけキハクさが際立つのが男女の描き方で、それらは、村上春樹が描写した暴力的な空腹感やソニーの広告塔と同じくらいリアルに切なく美しく、涙を誘う。

「今は、やりたいことが見えてきたから、男はいらない」「ふーん、男は、やりたいことがない時のもんなのか」
「セックスはお互いを知り合うための有効な手段だとは思うが、お互いが知り合ったあとでは、セックスする意味が半減するような気がした」
「複数の女との共同生活は、ハーレムではないが、新鮮な喜びと充実感があった」
「すぐ隣の部屋にいるのに、メールでの交信は直接会うのとは違う器官でコミュニケーションするような新鮮さがあった。まるでベッドで腕枕をしながら、おしゃべりしているような感覚であった」
「3人の他人が集う食卓は、どこの家庭よりも家庭的であり、幼友だちのような懐かしい信頼感が漂っていた」…

現代の恋愛は、おそらく何かと何かの間をすり抜けているのだと思う。だからきっと、正面から傷つくことも、思い切り笑いとばすこともできないのだ。

2004-04-16

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『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文學界8月号

W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな”国”があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don’t cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」

2002-07-09