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『ハルフウェイ』 北川悦吏子(監督) /

私と東京、どっちが大切?

恋愛の神様といわれるTVドラマ脚本家、北川悦吏子の初監督作品を試写で見た。

高校生カップルが織りなすストーリーはたわいないが、たわいないお話を最後まで引っ張っていく自然なセリフの絡みはさすが。会話のロードムービーといいたいくらいのヌーヴェルヴァーグぶりだ。高校時代を思い出して身につまされる人も多いと思う。映画で重要なのはストーリーじゃない。どんなストーリーでも、たとえストーリーがなくても、輝く映画は輝く。2人が自転車で通学する北海道の土手の風景はあまりに美しいし、カメラワークや音楽には、プロデューサー2人(岩井俊二&小林武史)の力量が感じられる。

地元志望のヒロ(北乃きい)と早稲田大学を志望するシュウ(岡田将生)。だが、北海道と東京は遠い。「思ってるより人生って長いよ」という担任教師(成宮寛貴)に対して「でも、今も大事なんで」と答えるシュウがすてき。はたしてこの言葉の意味は? 彼らは結局どうなる? 「東京を目指すのは彼で、地元に残るのは彼女」という古典的な設定から始めるのが北川悦吏子らしさだと思う。彼女が徹底的に描くステレオタイプなら、じっくりつきあってみたいという気持ちになる。

私自身は東京の高校に通っており、上京物語については無知だったし、東京の大学へのファンタジーもなかった。早稲田のイメージはひたすら「バンカラ」で、高3の夏、お茶の水の予備校の夏期講習で知り合ったT君と私は、そのバンカラな大学へ「一緒に行こう」と約束した。歴史を感じるお茶の水の町並みは、この映画に匹敵する魅力的な舞台だったと思う。美しい町での美しい約束! だが結局、私だけが受かるという美しくない結末になってしまった。親に勧められたいくつかの上品な大学には受からず、早稲田へ行くしかない状況になったのは、私にはバンカラが似合っていたということなのだろう。そして、T君はバンカラではなかったということだ。実際、T君は繊細かつ懐が深く誠実な人で、この映画のシュウに近いものがあった。「こんなカッコいい高校生いないよ!」と突っ込みながら映画を見ていた私だが、実はT君のことを思い出していた。

試写の後、アンケートに答えた。「この映画にサブタイトルをつけるとしたら?」という質問に本気で答えてしまったのは、明らかにこの映画のピュアエナジー効果。「ハルフウェイ―世界を知った上で私を愛して!」と私は書いてみた。あまりにベタすぎる。やわらかな高校生の世界観が台無しだ。だけど、これが共感ポイントであることは確か。女は結局のところ「最初の女」でなく「最後の女」になりたいのだから。男はいつだって「最初の男」になりたがるみたいだけど。

*2009年2月より全国ロードショー。

2008-11-05

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『テストトーン VOL.35』 さまざまなジャンルのアーティスト / 西麻布スーパーデラックス

先端は、無料です。

値上げの話題が多い中、心あるブランドは、無料の価値を知っている。

銀座メゾンエルメス10階のル・ステュディオでは、毎週土曜日に映画が上映され、予約さえすれば無料で見ることができる。現在の上映作品はロッセリーニの「インディア」(1959)で、イタリア語ではなくフランス語バージョンというのが残念だけど、お洒落して行く価値のあるプライベートシアターだ。

シャネルの「モバイルアート展」は、香港、東京が終わり、今後はNY、ロンドン、モスクワ、パリへとパビリオン(byザハ ハディド)が移動するが、シャネルバッグをテーマに20組のアーティスト(ブルー ノージズ、ダニエル ビュレン、デヴィット レヴィンソール、ファブリス イベール、レアンドロ エルリッヒ、イ ブル、ロリス チェッキーニ、マイケル リン、荒木経惟、ピエール&ジル、ソフィ カル、田尾創樹、スティーブン ショア、スボード グプタ、シルヴィ フルーリ、束芋、ヴィム デルヴォワイエ、楊 福東、オノ ヨーコ、Y.Z.カミ)が構築したインスタレーションツアーもまた無料。各自がヘッドフォンとMP3プレーヤーを装着し、ナレーションの指示と音楽に身を任せながら回遊するサウンドウォーク(byステファン クラスニャンスキ)は快適だけど、日本語のナレーションはやや鬱陶しかった。ただし、フランス語か英語を選べばジャンヌ・モローの声だったんだって! 彼女が終始耳もとでナビしてくれるのであれば、シャネルのバッグ1個くらい買ってもいい。

7月8日、西麻布のスーパーデラックスで「test tone vol.35―Festival of Alternate Tunings」というイベントが開かれた。これもまた無料。エルメスやシャネルのような予約も不要。ノーチケットで気まぐれに行けるライブっていい。飲み物は好きなだけ買えるわけだし。さまざまなアーティストが演奏する中、私はすごいバンドを見てしまった。いや、バンドじゃなくて、一夜限りのコラボレーション。

●山本達久 ・・・ノイズドラム
●L?K?O ・・・ターンテーブル
●大谷能生 ・・・サックス
●Cal Lyall ・・・ギター
●onnacodomo ・・・VJ

漢字と英語と記号とローマ字が混在する字面からして、全然バンドじゃないし、まとまってない。さて、この中で外国人は誰でしょう? 女性は誰でしょう? 電気系の楽器はいくつ? ドラムだけ「ノイズ」をつけてしまったけど、ほかのパートにも形容詞をつけたほうがいいかもしれない。音楽の最前線は、言葉が定まってなくて刺激的だ。

セッションは即興的だが緻密であり、調和していないが引きこもってもいなかった。楽器としてのパワーを感じるターンテーブルには新しい時代を確信したし、ドラムの爆発ぶりにもぶっとんだ。繊細にして大胆不敵なサックスは、アナログという言葉の語源が「自由」であることを思い出させた。と、思わずでたらめを書いてしまいたくなるほどだが、これらの音に一層ミスマッチなギターが加わり、奇跡的ともいえるキャッチーなノリの中に荒涼としたダイナミズムが生まれていたのである。いろんな素材が料理され、3面の壁いっぱいに映し出されるビジュアルパフォーマンスにもダイレクトなライブ感があり、風景が映るわけでもないのにロードムービーみたいだわと感動しているうちに演奏は終わってしまった。このセッションにはタイトルがなく、二度と聴くこともできない。書いておかないと忘れちゃうじゃん。

旅とロートレアモンの詩とサックスと物理学が荒削りにミックスされたジム・ジャームッシュの処女作「パーマネントバケーション」(1980)が最初に上映されたときも、こんな感じだったのだろうか?

2008-07-13

『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』 マーティン・スコセッシ(監督) /

帰るための旅や、目的地をめざす旅は、つまらない。

ボブ・ディランの映画なんていっぱいあるのに、なんで今さら? しかも3時間半!
だが、ちらっと目にしたモノクロのスチール写真は、公開中のほかの映画と比べると素晴らしすぎて、劇場に足を運ばずに済ますわけにはいかなかった。

現在のボブ・ディランの語りをベースに、アメリカとボブ・ディランの60年代くらいまでを検証するこの映画は、回顧的ではなく現在進行形。音楽がどうやって受け継がれていくかに焦点をあてたものだった。彼はフォークやロックの創始者というわけじゃなく、継承者の一人に過ぎない。それは、ごく普通の若者の軌跡のように見えた。ロックとは素直さ。かっこよさとは純度。そう断言したくなる理由は、彼の原点がバンドではなくソロだからだ。

昔の映像はもちろん、現在のボブ・ディランのかっこよさといったらどうよ? 彼は今もノー・ディレクション・ホーム、道の途中なのだ。「たいした野心があったわけじゃないが、自分のホームを見つけたかった」というような、みずみずしい言葉にあふれた10時間におよぶインタビューは、長年の友人が撮ったものという。D.A.ペネベイカーの「ドント・ルック・バック」(1967)のほか、アンディ・ウォーホルジョナス・メカスによる映像も登場し、イタリア系アメリカ人監督、マーティン・スコセッシのセンスが光る。

監督はインタビューの中で「今、世の中で起きているあまりにもたくさんのことによって自分自身を吸い取られるな」「ただ人が話をしているだけで、すばらしいロードムービーになりえるんだ」と言っていたが、ボブ・ディランが普通に話しているだけで、観客は心洗われてしまうのだから参っちゃう。人はこんなふうにしゃべればいいし、こんなふうに生きればいい。でも、それが難しいから、彼の発言のひとつひとつにクギづけになる。私たちの体はふだん、紋切り型のカサカサした安っぽい言葉に埋もれ、血が出そうになっているんじゃないだろうか。

ポリティカルソングの旗手として喝采を浴びたボブ・ディランがエレキギターを手にしただけで、ライブはブーイングの嵐。「商業的なポップミュージックじゃなくてフォークを聴きにきたんだ」と怒るファン。「この曲はどういう意味なのか?」と迫るマスメディア。しかし、今となってはジャンルなんてどうでもいいし、彼の詩に「意味」なんてない。ビート詩人アレン・ギンズバーグが「激しい雨」を聴いて自分もずぶ濡れになったと語るシーンや「ライク・ア・ローリング・ストーン」は50番まで歌詞があったという事実にこそ意味がある。ボブ・ディランは7年連続でノーベル文学賞候補になっているらしいけど、その理由がわかる気がした。

ファンは勝手だとか、マスコミは馬鹿だとかそういうことじゃなくて、通りすぎる景色というのは、自分とは関係ないことがあまりにも多い。困惑しながらも、そんな状況に対処するボブ・ディランの姿にはしびれてしまうけれど、心奪われるものだけに影響を受けていれば前を見失うことはない。インチキなものに取り囲まれていても、取り込まれないで生きることは可能なのだと、彼は、全力で示した。

How does it feel どんな気分?
To be on your own ひとりぼっちで
With no direction home 帰る場所もなく
Like a complete unknown だれにも知られず
Like a rolling stone? 転がる石のように生きるのは

*シアター・イメージフォーラム、シアターN渋谷、吉祥寺バウスシアターで上映中

2006-01-26

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『逃亡くそたわけ』 絲山秋子 / 中央公論新社

夏の旅のすべて。

「あたしは冷静ではあったけれど、決してまともなわけではなかった。それを自覚していた」(本文より)

マルクスの資本論の一節が幻聴としてきこえる「花ちゃん」。
「人間の精神は言語によって規定される」(byヴィトゲンシュタイン)ゆえに、名古屋弁をしゃべらない「なごやん」。
ふたりは病院を抜け出し、お金とクスリが少々たりない状態で、九州を縦断する。
クルマは名古屋ナンバーの「ルーチェ」、BGMは「THEピーズ」。
おなかがすいたら土地の名物を食べ、畑の野菜を盗む。
病院に連れ戻されるのはイヤだから、他人のポルシェにぶつければ逃げるのみ。
しかも、花ちゃんは無免許だ。
車中泊に疲れれば温泉に泊まり、街に出ればホテルヘ。
宮崎では化粧をし、鹿児島では「普通に動いている町」に元気をなくす。

善悪のみさかいのつかない、ナチュラルなアウトローぶりは特筆に価する。
いきあたりばったりの旅は、なんて魅力的なんだろう。
潮時がくるまで、それは、つづくのだ。
物語なんていらない。状況だけでいい。エアコンがこわれるだけでオッケー。
クルマ好きにしか書けないロードムービーだ。
メーカーに入社し、各地を赴任し、躁鬱病で入院中に小説を書き始めたという著者の体験が、美しく結晶していると思う。

「もう、いいからさ、高速乗ろうよ。捕まらないよ」
道の単調さになごやんは辟易した様子だった。
「高速は山の向こうったい」
なごやんはうんざりした顔で溜息をついた。
「マツダのディーラーないのかなあ」
「こげな道にあると思うと?」
「ないよなあ」
国道265はどんどん細くなっていった。センターラインもいつの間にか消えてしまった。(本文より)

「あたしはただ、こんなに幾晩も一緒にいて、男と女なのに一度もさせてあげなかったら可哀想かな、と思っただけだった。でもなごやんはほんとのお兄ちゃんみたいに優しい声でおやすみと言った」(本文より)

資本論は、花ちゃんの失恋のキズと関係があるのだった。
精神病とわかった途端にふられた彼女を、なごやんはヘーゲルを引用しつつ、なぐさめる。人は見たいようにしか見ないんだよ、精神病くらいでいなくなる友達なんか、遅かれ早かれ分かれる運命だったんだよ、と。

そしてふたりは、ぐったりするような劇薬「テトロピン」の代わりに、ラベンダーを探しにゆくのだ。

「すてきだなあ、やさしいなあ、あるかなラベンダー」(本文より)

2005-07-26

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『対岸の彼女』 角田光代 / 文藝春秋

女の友情を描いたふりをしたホラーな純文学。

あまりにも冴えない、あまりにもぱっとしない世界。一体、何のためにこういう小説を書くのか? どこからこういうものを構築するのか? こういう小説を読む意味は何なのか?このネガティブさは、読者を危うく共感させてしまうほどだ。そこが角田光代という作家の恐ろしいところ。ネガティブなディティールの凄まじい積み重ねが、エンタテインメントにすら見えてしまう。

自分のコンプレックスを受け継ぐ娘、何で結婚したのかと突っ込みたくなるようなつまらない夫、嫌味なだけの姑、薄っぺらい友情、不器用でだらしない女社長、ジゴロみたいな醜悪な男・・・。読んでいるだけで不信感にまみれ、どっと疲れてしまう。やだなあ、こんな主婦も、こんな女社長も、こんな会社も、ここで働く女も、ジゴロみたいな男も、事業内容も、何もかも。

些細な苛立ちの集積が読者を疲れ果てさせる露悪的なフィクション。醜悪な日常が繰り返され、しかも、それは長いタームで繰り返される。気が晴れるような新しい風景はどこにも見出せず、ただ、掃除し残した場所を掃除し直すための人生。そのための再会。

この小説は一見、子持ちの主婦である小夜子と、独身の起業家である葵の対比を描いたものに見えるが、そうではない。小夜子と葵は、読んでいると混乱してくるくらい、ほとんど同じタイプの人間に見える。細密な描写と検証を重ねるほど似てくるのだ。それでは「対岸の彼女」とは誰か。

唯一、魅力的に描かれている人物に思いを馳せればわかる。ナナコである。高校時代のナナコだけが、あらゆる登場人物と異なる次元のことを言っている。彼女の立ち位置だけに、抜け感がある。謎が残されたままだからだ。

「あたし、大切じゃないものって本当にどうでもいいの。本当に大切なものは一個か二個で、あとはどうでもよくって、こわくもないし、つらくもないの」
ナナコが登場するとき、この小説はホラーになる。ぞっとするような底なしの美しさ。

「ずっと移動してるのに、どこにもいけないような気がするね」
高校時代の葵と家出し、補導される寸前の、ナナコのこのセリフは秀逸だ。どこにも行けないロードムービー。まさに、この小説のことである。ナナコだけが小説全体を俯瞰している。そして、ナナコだけが、どこかへ行ってしまうのだ。

そういう意味では、葵の父親もいい。職業はタクシーの運転手であり、どこにでも移動できる。こんな身軽で都合のいい父親、ちょっといない。そんな彼の計らいで葵とナナコが再会するシーンは、よしもとばなな「ムーンライト・シャドウ」を彷彿とさせる名場面だと思う。

著者のこの不思議なバランス感覚は面白い。リアリティを追求しないもののほうに、よりリアルな魅力があるのだ。小説とは、言葉とは、本来そういうものかもしれない。真実は、小説の中にあるのではなく、別のところに生まれる。小説を読むために小説があるのではなく、現実を生きるために小説はある。本をパタンと閉じて、外へ出るために。

2005-02-21

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