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『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 / 河出書房新社

キハクさという確信犯。

「やきそばパンの逆襲」は、「パン屋再襲撃」(村上春樹/1985)の実践編である。

「パン屋再襲撃」には、こんなアイテムが登場する。缶ビール、フレンチドレッシング、バタークッキー、中古のトヨタ・カローラ、午前2時の東京(代々木、新宿、四谷、赤坂、青山、広尾、六本木、代官山、渋谷)、24時間営業のマクドナルド、30個のビッグマック、ラージカップのコーラ、ソニー・ベーター・ハイファイの巨大な広告塔…。

あらすじはこんな感じ。学生時代、ぱっとしないパン屋を襲撃したところ、労働の代わりにワーグナーのLPを聴くという条件でパン屋の主人からパンを得てしまった主人公は、結婚して間もなく、原因不明の異常な空腹に襲われ、深夜、妻と一緒に再びパン屋を襲撃する。再襲撃先としてマクドナルドを選んだ理由は、ほかに開いているパン屋がなかったからだが、これは偶然ではなく必然。2人はクルマの中でビッグマックを腹いっぱい食べる…。

一方、「やきそばパンの逆襲」には、こんなくだりがある。
「おまえの親父は、『ハンバーガーみたいなジャンクフードは食べるな』と言うんだよな。でもオレはそうじゃないと思う…オレは時代のど真ん中に食らいついてやると思ってる…戦えよ、アキ、時代と向かい合うことを、サボったりしちゃダメだぞ! 鈍感な奴は、知らないうちに時代に流されてしまうんだからな」

広告代理店を経営する満(48歳)が、部下の明彦(25歳)にハッパをかける場面だ。ハンバーガーを食べることは時代と向き合うこと。つまり本書のメッセージは「マクドナルドを再襲撃せよ」ということなのだ。「パン屋再襲撃」の主人公がマクドナルド襲撃後に見たものは、ソニーの巨大な広告塔で、それが1980年代の真実であった。2004年の本書でははたして何が見えたか…?
やきそばパンである。

やきそばパンは、やきそばでもなくパンでもない。コンビニで両方を買い、ばくぜんと交互に食べているだけでは到達できない新しい概念だ。そんな概念に出会うために、著者はあらゆる既成概念の間を身軽にすり抜ける。本書を貫くトーンは「キハクさ」だが、流されないためのキハクさは確信犯。「この本は中身が薄い」と著者が宣伝していた意味が、読んでみてようやくわかった。それは、本書のもっとも売りの部分だったのだ。

とりわけキハクさが際立つのが男女の描き方で、それらは、村上春樹が描写した暴力的な空腹感やソニーの広告塔と同じくらいリアルに切なく美しく、涙を誘う。

「今は、やりたいことが見えてきたから、男はいらない」「ふーん、男は、やりたいことがない時のもんなのか」
「セックスはお互いを知り合うための有効な手段だとは思うが、お互いが知り合ったあとでは、セックスする意味が半減するような気がした」
「複数の女との共同生活は、ハーレムではないが、新鮮な喜びと充実感があった」
「すぐ隣の部屋にいるのに、メールでの交信は直接会うのとは違う器官でコミュニケーションするような新鮮さがあった。まるでベッドで腕枕をしながら、おしゃべりしているような感覚であった」
「3人の他人が集う食卓は、どこの家庭よりも家庭的であり、幼友だちのような懐かしい信頼感が漂っていた」…

現代の恋愛は、おそらく何かと何かの間をすり抜けているのだと思う。だからきっと、正面から傷つくことも、思い切り笑いとばすこともできないのだ。

2004-04-16

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『イタリアンばなな』 アレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ+よしもとばなな / 生活人新書(NHK出版)

あまりに残酷な真実を暴くクリスマス。

林真理子の「20代に読みたい名作」(文藝春秋)には、古今東西54編の小説が紹介されている。
「この中の何冊を読んだ?」と20歳の女子大生A子とB子に聞いてみた。

「本はあまり読まない」というA子は、よしもとばなな「キッチン」のみ。「読書が好き」というB子は、村上龍「限りなく透明に近いブルー」村上春樹「ノルウェイの森」向田邦子の「思い出トランプ」山田詠美「放課後の音符(キイノート)」、よしもとばななの「キッチン」の5冊をあげた。ちなみに2人とも、林真理子の小説は読んだことがないという。

おそるべし、よしもとばなな!
彼女の人気は国内だけではない。イタリアでは、1991年に「キッチン」が出版されたのを皮切りに11の作品が翻訳され、約250万部が売れたそう。ばなな作品を数多く翻訳しているアレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ(以下アレちゃん)によると、本を読むというのは沈黙の中の行為であるから「僕たちイタリア人にはあまり向いていない」とのことだが、よしもとばななは、まさに日本人作家として前例のない成功をおさめたのだ。イタリアでの売れ行きに触発され、彼女の作品は今、34の国や地域で出版されている。

本書には、よしもとばななのエッセイ、アレちゃんのエッセイ、仲良しの2人の対談などが収録されている。

博士論文を再構成したアレちゃんの一文「よしもとばななの原点を読み解くキーワード『家族』『食』『身体』」は素晴らしい。ばなな作品をここまで理解し、美しい日本語にまとめることのできるイタリア人なら、彼女も安心して翻訳を任せられただろう。「つぐみ」の一部のイタリア語訳とそのポイントまで掲載されているのだから、イタリア語を勉強中の身としては、そそられる内容だ。

「イタリア語はどの国の言葉よりも、いちばんいい感じに乗る気がします。乗る可能性の高い言葉の組み合わせというか。もともと、美しさとか哲学を表現するためにラテン語から発達していった言葉だから、形容詞の数が圧倒的に違う」(byよしもとばなな)

「クリスマスの思い出」という日本初公開の彼女のエッセイも、日本語とイタリア語の両バージョンが収録されている。ここに描かれるイタリアのクリスマスの記憶は鮮烈だ。クリスマスなのに別れかよ?しかもこんなに美しく?少なくとも、日本のインチキなクリスマスにおいては、ここまで本当のことを突き詰めるシチュエーションなんて、ありえない!よしもとばなな特有の「一瞬にすべてを注ぎ込む大袈裟な感動の表現」は、イタリア語にこそふさわしいのかも。

インチキなクリスマスが終わり、凍えるような深夜、私が考えたいのは「キッチン」のことである。アレちゃんの論文では随所が引用されるが、私も、この小説の最も美しい一節を引かずにはいられない。

「ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げると、窓の外には淋しく星が光る。
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。」

2002-12-27

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