「ビール」の検索結果

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館 / 

顔のないポートレート。

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館のイメージ、ビール

オープンカーの屋根を開け、千葉県佐倉の川村記念美術館へ行った。東京から2時間かけて、ドイツの代表的な現代美術に会いにいくなんて、わくわくするようなシチュエーションだ。散策路に続く水辺のレストランではドイツフェアを開催中。クルマとワインは何といってもイタリアだけど、現代美術とビールはドイツかも!

リヒターといえば「ベティ」を思い出す。彼の娘ベティ・リヒターのポートレートだが、後方を振り返る彼女の顔は見えず、おまけにちょっとピンボケ。その上、よく見ると写真ではなく絵画なのだ。まさに何重にも人をくったような作品である。後ろ姿でピンボケの写真絵画が、どんなポートレートにも負けない魅力をたたえているのはなぜだろう。

今回の展示のメインは、655枚のパネル上に構成された4500点もの写真やスケッチの集合体である「ATLAS」。リヒターの創作の原点(モトネタ)であると同時に、これ自体がライフワークというべき膨大な作品群だ。新聞の切り抜き、家族のスナップ、強制収容所の死体、ポルノ、風景、カラーチャート、ロウソクの炎、精密なスケッチ、絵の具のうねり…そのすべてに番号がふられ、几帳面に整理されている。

「ベティ」のもとになったスナップ写真を探すのは簡単なことだった。モトネタと作品はそっくりなのだから。だが、絵画のほうが明らかに普遍的な美しさを獲得している。「後ろ姿のスナップ写真」というだけでも十分に普遍的(没個性)だが、リヒターはそれをもう一度描き直し、さらにピンボケにすることによって、「ベティ」を比類ないポートレートに仕立てたのである。

「ATLAS」の中には、病気のベティを撮った写真などもあり、リヒターには、娘の元気な笑顔を正面からばっちりピンを合わせてとろうなどという凡庸な意志がないことがわかる。いや、「ピンのあった正面笑顔写真」こそが特殊なのだろう。リヒターの作品は、それほどまでに自然で、目立つことや意表をつくことを目的としていない。対象の個性を削ぎ落とし、普遍化させてゆくプロセスは、まるで自らの固定観念や虚栄を脱ぎ捨てる作業のようだ。彼は、人物の顔をちゃんと描かないことで、逆に、その人物の「純粋な印象や気配」を描くことに成功している。

会場には、「ATLAS」をもとにした10点の作品も展示されていた。「48の肖像」は、百科辞典に登場する偉人たちの写真を肖像画に仕立て、もう一度写真に撮ったもの。写真、絵画、写真というプロセスを経た48人分のポートレートは、最初の百科辞典の切り抜きと比べると、権威や時代性が排除され、全員が同じスタジオで均一に撮影されたように見える。

これらをまた絵画にし、写真に撮り…と繰り返していくと、どうなるのだろう。偉人であれ凡人であれ、皆、同じ顔になってしまうのか。最後には顔ですらなくなり、つるつるのグレーのボードになるのかな。「鏡(グレー)」というガラス板にグレーのシートを貼っただけの作品を見て、そう思った。この鏡には、すべてのものがうっすらと、灰色に映り込む。これこそが、リヒターの究極の美のイメージかもしれない。

「ATLAS」の中から、彼に選ばれた幸福な断片のみが、美しい抽象化への道を歩みはじめる。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」とリヒターは言っている。「見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです」

*川村記念美術館で5月27日まで開催中

2001-04-17

amazon(ゲルハルト・リヒター ペインティング [DVD] )

『風花』 相米慎二(監督) /

湿度の高い、おとなのロードムービー。

日本製のロードムービーが2本、同時に公開されている。青山真治監督の「ユリイカ」と、相米慎二監督の「風花」である。

「ユリイカ」が「バスで4人が九州を走るモノクロな象徴ドラマ」だとすれば、「風花」は「レンタカーで2人が北海道を走るカラーな人間ドラマ」。しかも、このカラーは、桜、ビール、ピンサロ、川、温泉、残雪、雪解け水などのリリカルなアイテムに象徴される湿度の高いカラーであり、ピンサロ嬢(小泉今日子)の頬は、いつも艶やかに光っている。彼女のウエットな魅力を引き出しただけでも価値ある映画だ。そして、謹慎中の文部省エリート官僚(浅野忠信)の性格と酒癖の悪さといったら!

二人が演じる雪の中のシーンがいい。最低な男が、ある事実を前にして最低でなくなっていくプロセスには、誰もが釘づけになってしまうだろう。情けなさと真摯さと意外性という「自覚しにくい男の魅力3点セット」を浅野の演技はきっちり満たしているのだ。動揺しながらも、女に自分の服を着せ、抱きしめ、さすり、おぶり、ふらふらになって歩く男。実のところ、男というのは相当弱い存在で、ここまでして、ようやく女からの愛を獲得できるのかもなー、なんて思ったりした。このシーンの浅野は、ほんとうに愛しい。自分の弱さを絶望的に自覚し、プライドを脱ぎ捨てたとき、「最低な男」は「裸の男」になるのである。そして、女は、男が何と言おうと「裸の男」が好きなのだ。浅野は、雪の中の過酷な撮影の際、体力がどんどん消耗したと述懐している。「もう、本当に自分が情けなくて、情けなくて、そのまま演じたら、ああなってしまいました」。

先日、最終回を迎えた野島伸司のTVドラマ「SOS(ストロベリー・オンザ・ショートケーキ)」にも同様のシチュエーションがあり、タッキーがフカキョンに対して「裸の男」になったりしていた。ただ、ドラマの二人が青春まっさかりの高校生カップルであるのに対し、この映画の二人は、謹慎中に解雇通告される酒びたりでインポテンツのエリート官僚と、夫に先立たれ自分の子供に会うことすら許されないピンサロ嬢という、かなり絶望の色が濃いカップルなのである。したがって、これは死んだふりごっこなどではなく、死の影が本気でちらつく大人の映画だ。疲れた大人どうしが出会い、雪の中でああいうことになったら、もう結ばれるしかないだろうという有無をいわせぬ感動があった。子供の扱い方も自然で、私は、彼女の生き方に最初から最後まで素直に感情移入できてしまった。

それにしても、最近の邦画パワーはちょっとしたものだ。音楽もファッションもそうだけど、メイドインジャパンの文化レベルが着実に上がっている。若い監督もベテラン監督も、競うようにいいものを撮っている状況が、とりわけ嬉しい。

*ロードショー上映中

2001-03-23

amazon

『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。

「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

 「人はどの瞬間にどうやって
 人を愛するのだろうか
 どんなに論理的な理由をくっつけてみても
 メッキにしかならないのだということは
 だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

 「君と出会っていなかったら
 僕は今
 何を想い何を考えているのだろう
 未来は奇跡なのだろうか
 過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。

2002-03-09

amazon