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『悪の恋愛術』 福田和也 / 講談社現代新書

清原くんから妻へのプレゼント。

「物事を単純に見るということは、同時に自分をも単純にしてしまうこと」と著者はいう。出会い系サイトで出会う男女にとって、互いは性と好奇心の対象でしかない。

「他者を徹底して性欲の対象として見るということは、自分もまた性欲の対象としてのみ存在しているということです。ドルバック云うところの『粘膜』でしかない、と自分を既定してしまうことにほかなりません。『粘膜』として生きることは、愉しいのでしょうか」

粘膜として生きるのも悪くないぜという極右派もいそうだが、結局のところ私たちは人間だ。不倫や浮気の類語として「割り切り」という言葉があるようだが、本来は割り切れない関係だからこそ逆説的な言葉が使われるのだろう。

「恋愛は厄介で愉しい贅沢品」と考える著者は、ワインを飲む際、「話し好きな人にはこのワイン、気難しい人はこれというふうに、だいたいのチャートをつくっていて、そのチャートをつくるのがまた愉しい」という。「ただし、どんなワインにも反応を示さない相手は、願い下げです」だってさ。これ、ちょっと神経質すぎない? 馬鹿のひとつ覚えみたいにドン・ペリを開ける粘膜男のほうが好感もてるかも。というのは冗談だが、ワイン通の男というのは、概して階級にナーバスで、うんちくを傾ける割にケチだったりする場合も多いので要注意である。「こういうワインを勧める男はこんなヤツ」という逆チャートをつくっておくと楽しいかも。

著者はなぜ階級にナーバスなのか? 自身の過去の告白は切なくて、女性なら「わかった。これからは自慢話でも何でも聞いてあげる」って思うんじゃないだろうか。慶応の付属に通いはじめ、遊び人たちとの階級差を意識せざるを得なかった高校時代。最初につきあった彼女が下町に住んでいることで、仲間に負い目を感じ、自分も下町の人間であることすら告白できず、自ら彼女との関係を断ち切ってしまったという。

その後、著者が結婚した女性は、生粋の良家のお嬢様。彼女は彼の書くものに興味をもったそうだが、失業中だった彼との結婚は、父親に大反対されたという。「現在でも認められているとは云いがたい」そうだが、著者はひとまず、知性(悪の恋愛術!)で階級を克服したのである。

ところで、悪の恋愛術のポイントは、相手に変化をもたらす「贈与」であり、ここが策略の見せどころなのだが、私は一昨日、「清原和博がFAを語る」という番組で、策略もお金もいらない贈与の例を見てしまった。

清原は、妻の誕生日に「ホームランを打ってやる」と出かけたが2打席とも三振。皮肉のひとつも言われるかと落ち込んでいたら、さよならのチャンスがまわってきて、完璧なホームランを決める。彼はそのとき、「自分の誕生日に夫にホームランを打たせてしまう彼女の運の強さを感じた」というのだ。彼女の手柄にしてしまう気前のよさ!「半分は僕の実力で、半分は彼女のおかげですね」などとケチなことは言わないのである。野球選手の妻として何点?という質問に対しては「500点」とさらっと言ってのけた。ケチな男は、こういうところで90点とか言って自分が優位に立とうとしたりするものだが、清原は違う。こんなプレゼントをもらった妻は、今後もさらなる強運を彼にもたらすだろう。

別のスポーツ選手が、以前、妻の料理をけなしていたことを思い出した。彼女はマスコミに激しくバッシングされている存在だったから、「お前が率先して彼女を悪く言ってどうする?」と私は耳を疑った。その後、芳しくない成績のまま彼が引退することになったのは、身内の力を借りることができなかったせいなのかも、と哀しくなった。

2001-12-16

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『西洋骨董洋菓子店(1・2)』 よしながふみ / 新書館

禁断の深夜ケーキの快楽。

『西洋骨董洋菓子店(1・2)』 よしながふみのイメージ、スイーツ

午前2時まで営業している恵比寿のカフェ「Rue Favart (リュ・ファバー)」は、屋根裏部屋っぽい3階が落ち着ける。カップルがソファでまったりし、芸能人が夜食を食べ、ハイテンションなグループが携帯を鳴らし合うここは、隠れ家などでは決してなく、ガーデンプレイス脇という超メジャーなロケーション。たっぷりのグラスに注がれるアイスティーや、キャラメル・オレ、ホットワイン、ホットバタードラムと共に過ごす至福の時間・・・。

だが、この店の本質はそんなことではない。友人に誘われるまま、なにげにケーキを注文して驚いた。激しく美味なのだ。私は、深夜ケーキの快楽について考える。そんなことをつい考えてしまうほど、それは旨かった。

深夜に酒を飲むのは普通の行為だが、甘いものを食べるのは禁断の行為に近い。と私が感じるのは、アルコールは体に必要だけど砂糖はイケナイものと考えているせいだろうか。ふだん、変動の激しい外食産業界において確実な成長を遂げてきた株式会社グローバルダイニングの戦略に乗せられるまま、朝5時までやっている青山や代官山や西麻布のモンスーンカフェですみずみまで教育の行き届いたスタッフの愛想のよさに感嘆しつつ、絶妙な味わいの海老トーストや生春巻を食するついでにマンゴープリンやミルクレープにまで手を出したりもしている私なのだが、やはり、モンスーンカフェは一企業の戦略的なチェーン店にすぎない。

インターネットやコンビニデザートでは癒しようもない深夜の寂しさを埋めてくれるのは、ビジネスの香りから遠くはなれた「本物の愛」ではないだろうか。と信じたい。

先週からドラマ(月曜9時フジTV)もスタートしたこのマンガの舞台である西洋骨董洋菓子店「Antique(アンティーク)」の一体どこが魅力的なのか。住宅地にありイートインができて午前2時オーダーストップのこの店は、橘圭一郎(椎名桔平)が経営し、天才パティシエ小野裕介(藤木直人)が洋菓子を焼く。ここにジャニーズ系の元ボクサー神田エイジ(滝沢秀明)が見習いとして入ることから、禁断の甘さと禁断の男の世界が奇妙に交錯し、わけありの人間模様が醸し出される。

エイジがケーキをほおばり、うめえ・・・っ!!っと全身をのけぞらせる。ただこれだけのことが、どうしてこんなに新鮮なのか。その鍵は、この店でつくられる洋菓子の健全さにある。プロの手であらゆる工夫を施され、美しく仕上げられた菓子たちは、新鮮なうちに多様な客に求められる。一方、残った菓子は、エイジに手づかみされ、崩され、頬張られ、うめえ・・・っ!!と叫ばせる。そこには絶対的な愛があるのだ。洋菓子への愛。店への愛。客への愛。そして、この作品の重要なモチーフである男同士の愛。つまり、そこに表現されているのは、男女の愛や酒がらみでは表現しようのない純度の高い世界なのである。

先日の新聞に、店頭公開したネットコンテンツビジネス会社の記事があった。その会社は出会い系サイトを2つ抱えており、そこから多大な収入を得ているそうなのだが、何か問題があってからでは遅いので、近いうちにその2つは譲渡したいと社長はいう。良質のコンテンツをつくりたいということらしいが、そんな安直なポリシーでいいのか、と驚いた。ビジネスという概念は、かくも味気ない。金銭への愛に比べて、肝心の製品やサービスへの愛がなおざりにされすぎている。

出会い系サイトがうさんくさいのは、やってる人がうさんくさいからなのである。うさんくさい場所に、甘美な出会いは生まれない。西洋骨董洋菓子店のまっとうさを見よ。禁断の甘さは、健全な精神に宿るのだ。

2001-10-15

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『トランスクリティーク』 柄谷行人 / 批評空間

1961年のボルドーワイン。

淡いベージュと白のグラニット調のカバーに「Transcritique」という赤いロゴ。ボルドー1級のラベルを思わせるお洒落な装丁の「トランスクリティーク」は、まさに心地よい厚さと重みをもつフルボディワインだ。柄谷行人は、この本を執筆することによって40年前から取り組んできた問題に決着をつけることができたという。40年前といえば1961年。ボルドーにおいては1945年、1990年と並ぶグレートヴィンテージじゃないか。

・・・1961年に収穫されたブドウでつくられ、40年に及ぶゆるやかな熟成を経てこの秋蔵出しされた「トランスクリティーク」は、1本3200円。カーブ・タイユバンで1本39万円で売られている1961年の「シャトー・ムートン・ロートシルト」と比べるまでもなく、1999年の「クローズ・エルミタージュ」と同じ価格で購入できてしまう「トランスクリティーク」は、まさしくお買い得ワインといえるだろう。

私は、10月3日に紀伊國屋新宿本店で開かれた「『トランスクリティーク』をめぐって」という試飲会に参加した。ソムリエの黒崎政男、西部忠、そしてネゴシエイターの浅田彰が、偉大な醸造家である柄谷行人と彼のワインを囲み、和やかなひとときを過ごした。

「トランスクリティーク」の主要ブドウ品種はカベルネ(別名カント)とメルロー(別名マルクス)であり、両品種のよさを最大限に引き出しているのが特長だ。カベルネ種の醸造哲学にくわしい黒崎氏とメルロー種の熟成経済学を専門とする西部氏がシビアなテイスティング・コメントを述ベ、柄谷氏とともに国産ワイン「批評空間」を季節ごとに世に送り出している浅田氏が、専門用語を一般の顧客にわかりやすい言葉に翻訳し、時間内にセンスよくまとめていく・・・

ものを考えることの根底には、実践がなければ意味がないと断言する柄谷氏は、2000年よりNAM(New Associationist Movement)という倫理的―経済的な社会運動を主催している。

資本と国家に対抗する運動は、それらを超える原理をみずから実現しているべきとの考えに基くNAMは、ツリー型組織ではなく、個人のジェンダーやセクシュアリティ、エスニック、階級、地域、さまざまな関心の次元が入り組みあったセミラティス(小格子)型システム。「中心があると同時に中心がないような組織」を実現するために、くじ引きを導入した代表選出をおこない、資本に転化しない無利子の貨幣「LETS」(地域交換取引制度)を提唱している。

浅田氏は、本書の刊行を21世紀の歴史的事件であるとしめくくった。しかし、その事件がアクチュアルな展開の可能性を見せるのは、これからなのだ。 「トランスクリティーク」は英語圏での出版も予定されているという。飲み頃を迎えるのは、まだ数年先かもしれない。

2001-10-09

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『婉という女・正妻』 大原富枝 / 講談社文庫

作家は顔で選べ!

CDをジャケ買いしたり、ワインをラベル買いしたり、外見で人を好きになったりといった行為を、私は正しいと思う。ひとめ見て好きだと思えた人やモノは、ずっと好きでいられるような気がする。

だが、ひとめ見て「いい顔だな」と思える大人の女性は少ない。若いうちは皆きれいだけど、年齢を重ねるほどに外見がよくなっていく女なんて皆無といっていい。歳をとるのが楽しみになるような、お手本的な女性はどこかにいないものだろうかとため息をついていたら、吉本隆明「僕ならこう考える」(青春出版社)の中でこんなことを書いていた。

「女流の文学者で、この人はいい顔してるなあっていうのは、たった一人、その作家は好きですけど、大原富枝さん。ちっとも美人でもなんでもないんです。ただのおばさんていえばただのおばさんていう顔で、そのとおりなんだけど、なんともいえない、ただのおばさんの顔に一種なんか味みたいのがあって、この人はなかなかいい顔だって思います。魅力的だと思う」

この一文で私は大原富枝に興味をもち、「息にわがする」という魅惑的なタイトルの随筆集を読んでみたのだが、文章といい感性といい実に素晴らしく、いきなりファンになってしまった。吉本隆明も指摘しているように、彼女のルックスは、いかにも女史といった偉そうな顔つきとは異なり、力みやストレスが感じられず幸せそうだ。(ここだけの話だけど…吉本隆明に似ている!)

彼女の代表作は、1960年に発表された「婉という女」。父の失脚のため、母や兄弟たちと共に40年間の幽閉生活を強いられた土佐藩の家老の娘、野中婉の生涯を描いた小説だ。40年間、身内以外の他者と出会うことがなかった婉が突然赦免され、自由の身になるという設定には本当にワクワクしてしまう。43になっても男を知らず、眉を剃らず、歯を染めず、娘時代のままの振袖姿でいる婉は、見世物の女を見るような残酷な視線を浴びるのだが、生きたい、恋したいという心身の叫びは切実である。

「四十年の幽獄に耐えた代償にそれがゆるされるなら、わたくしは先生の剛毅な精神と弾七の若く逞しい肉体を欲しい、といおう。二つながらに欲しい、といおう。男たちが幾人もの妻妾をもつように、わたくしも二人の男が欲しいと―」
幽閉生活の中、文通をとおして長年思いを寄せていた先生には、実は妻子があり、歳をとっており、肉体は小柄で貧弱だったのである。若い百姓である弾七の肉体に興味をもつのも無理はない。

私が最も心を打たれたのは、結婚して子を産む機会を与えようという政治的な情けを、婉が拒否するくだりだ。いわば女としての最後のチャンスを自ら封じるのである。精神は先生を愛し、肉体は弾七にひかれ、しかし現実にはどちらと結ばれることもなく、だからといって精神も肉体もなんのゆかりもない旧家臣の男との結婚に甘んじたりしない・・・・・このまっとうさ! 現代の小説にはなかなか見出せない潔さだ。

婉は、肉体の現実より精神の自由を選ぶのである。身内が次々と亡くなり、時代が変わり、61になっても婉は生きてゆく。先生の死後は、何事にも心動くことはないけれど、それでも婉は生きてゆく。表面的には何も起こらないからこそ、内面の強靭さが浮かびあがってくる。

この小説には、18歳で結核にかかり10年近い闘病生活を余儀なくされた大原富枝自身の人生が投影されている。大原富枝は87歳まで生き、昨年亡くなった。人生のある期間の輝きが失われようとも十分に取り戻せるのだと、彼女は身をもって教えてくれる。女が美しく生きてゆくために必要なのは、不屈の精神をもち続けることなのだ。

2001-08-03

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『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。

成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中

2001-06-19

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