『ゆっくり歩け、空を見ろ』 そのまんま東 / 新潮社

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子供は、誰に殴られるべき?

別冊宝島「腐っても『文学』!?」に、そのまんま東のインタビュー(by大月隆寛)が載っていた。坪内逍遥や五木寛之が好きで、現在、早稲田大学第二文学部で文芸を専攻する彼は、父親に一度も殴られたことがないことを引け目に感じており、殴ってもらうために「たけし軍団」に入ったそう。

「男の子は、母への恋慕から、心の中で父を殺し、父を超えた時、真の『男』になるらしい。エディプスコンプレックスというやつである。僕は、そういう大切な作業を省略して今日まで生きてきた」。
謹慎の憂き目にあった98年の「淫行騒動」で、彼がもっとも迷惑をかけたのは8歳の息子。奇しくも、彼が実の父親と別れたのも8歳の時だった。「あの時、父は僕に悪いと思ったのか」という問いが彼の中でふくらみ、かくして父親探しの旅がはじまる。

文体といい、テーマといい、純文学とはこういうものだ、というような紋切り型の表現は新鮮なほど。何かに似ていると思ったら、たけしの映画だ。彼は、実の父親「北村」と、師匠「北野」の血を両方受け継いでいるのだろう。

地元の名士であり不動産業を営む酒乱の父を「気絶するくらい臭い」「ぶざま」と罵倒しながらも、彼は父に関する豊かな思い出やドラマチックなエピソードを得々と語る。サーカスを呼んで自宅で乱痴気騒ぎをしたり、妾である彼の母親と気が触れたようにセックスしたり。妾の子である彼とは微妙な距離感があるものの、「やはり僕の中には、北村のどうしようもない淫蕩の血が流れているのだ」という言葉すらも自慢に聞こえるほど。

一方、北村と別れたあとに母が再婚した「北村や僕とは全く真反対の性質」の新しい父に対してはどうだろう。
「人の人生が一本の映画というなら、とても映画にはなりそうに無かった。始めから終わりまで全て同じシーンの繰り返しなのだ。ただ歩いているだけの映画。科白もない。そんな映画誰も観ないだろうし、もし観たとしても退屈で眠ってしまうに違いない。退屈な平行線。平行線的恋愛。スポンサーだってつかない。スポンサーのつかない人生。しかし彼にはスポンサーなんかいらないのだ。というのも、彼自身は退屈していないし、眠りもしない。ただひたすら平板的に歩き続けるのだ。山も登らないし、谷も下らない。勿論振り返りもしない。たとえ振り返っても全部同じシーンなのだから。きっと彼は我慢していたのだ。様々な感情や出来事の量を、人が生きるのに必要最小限以下の量にセーブしていたのだ。それでよく今日まで生きてこれたものだ。もっと感服するのは彼はそのことに今でも大方満足しているということだった。全く信じられない。とうてい僕のような人間には出来そうもない。だからいつも彼に敬意を抱いている」。

ここまで畳み掛けるように「普通の人」を悪く書いた文を、私は読んだことがない。この父は、母親をようやく幸せにしてくれた男であるというのに。「敬意」と書かれているが、これは明らかに「敵意」だろう。この男を見ていると、彼は自分の中に流れる「北村の血」を強烈に意識せざるを得ないのだ。

だが、妾をつくり、その妾からも愛想をつかされた北村に比べると、彼自身はどこか中途半端。彼の妻は「風俗店に出入りした事実より、このような騒ぎになったことで子供達に及ぶ影響を懸念し、僕に対する怒りを顕わにした」というが、淫行とは、妻に女としてちゃんと怒ってもらえない程度の些細な不祥事なのである。単に運が悪かった芸人である彼もまた、息子を殴れないのだろうか。芸人の徒弟制度も崩壊しているらしいし、これからの男の子は、一体誰に殴られればいいの?

2001-07-13

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