『GO』 金城一紀(原作)/行定勲(監督) / 講談社

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たたかうベッドシーン。

ロミオとジュリエットから始まり、クリスマスで終わる小説。

民族学校から日本の高校へ進んだ著者を救ったのは、難解な思想書ではなくエンターテインメントだったそう。クリスマスのシーンで終わる在日文学なんて前代未聞だから、どうしてもやりたかったんだってさ。それは、苛酷な現実に立脚したぎりぎりの「だささ」であり「かっこよさ」であり「面白さ」でもある。ここまでエンターテインメントの意味を突き詰めた作品は、純文学と呼ぶべきかも。

映画化された「GO」にも、そんなぎりぎりのバランスが貫かれている。在日韓国人の抱える問題を扱いながらもディープになりすぎず、30代のスタッフの感覚が自然に表現されていた。時間軸を再構成した脚本のセンスは素晴らしく、キャスティングも的確。窪塚洋介は、ヒネクレ者でありながらロマンチストな発展途上の男、杉原に息を吹き込んだ。スタッフもキャストも皆、原作に惚れているのだとわかる。

男の子がまともな反抗期すらもてなくなっている今、山崎努が熱演する最強の父親像は魅力的だし、きちんと人と向き合い、距離を測り、自己紹介し、それでもわかんない奴は殴るというコミュニケーションの古典的作法も新鮮。村上龍の「最後の家族」でひきこもりの長男の暴力が迫力に欠けるのは、戦う相手や打ち破るべき枠が見えにくいからだ。あの家族が現代の主流だとすれば、マイノリティを描いた「GO」は圧倒的にかっこいい。杉原の友人のセリフは、多数派の情けなさを代弁しているといえるだろう。
「これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」

無敵の杉原も、桜井(柴咲コウ)と出会うことで何かが狂う。失いたくない女の出現によって、男は初めて臆病になるのだ。だが、全身でぶつからなければ恋愛は進まない。それは、いつもバトルなのだと私は思う。重要なのは一線を超えることではなく、ぶつかること。異質な者どうしが理解しあうには、そうするしかないわけで。

「GO」のベッドシーンは、とても美しい。杉原は、桜井と一線を超える前に国籍を打ち明けるのだ。私は、村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の最も美しいシーンを思い出した。それはキクとアネモネが初めて結ばれた後の描写。

「服を着終わったキクは、帰る、と小さな声で言った。アネモネは喉が引きつった。どうしたらいいのかわからなかったが嘘だけはつくまいと決めた。行っちゃだめ、キク、ここにいて、行っちゃだめ。キクは立ったまま、俺は、と言って言葉を呑み込んだ。深呼吸をしながら窓際まで歩いた。『俺は、』カーテンを開けてもう一度言った。(中略)俺は、コインロッカーで生まれたんだよ、でも、俺は、お前が好きだ、お前みたいなきれいな女は―、アネモネはキクの唇を指で塞いだ。何も言わなくていい、と囁いた。肩に手をかけて背伸びし頬を合わせる。濡れたアネモネの髪の先から水の粒が落ちて鳥肌の立った背中で割れた」

「コインロッカー・ベイビーズ」も「GO」も、システムへの憎悪と破壊へのエネルギーをもてあます男の子の成長物語だが、2つの作品の間には20年の隔たりがある。キク(肉体性)とハシ(精神性)の両方を備えた現代のヒーローである杉原は、だから、彼女を手に入れる前に国籍を告白し、こう言われてしまう。

「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない(中略)ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて」

女の子の、切実な気持ちが現れたセリフだと思う。
でも、2人は終わらない。本戦はクリスマスに始まるのだ。

2001-11-14

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