『父の秘密』 マイケル・フランコ(監督)

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父親はやっかいだ。

久々に胸のすくような映画をみた。カンヌの「ある視点」部門グランプリに輝き、アカデミー賞外国語映画賞メキシコ代表にも選ばれた『父の秘密』。いろんなものを見過ぎて何も見たくないって時にも、いやそんな時にこそ釘づけになってしまうストイックさ。浄化の力。
数か月前に見た『ジンジャーの朝〜さよなら、わたしが愛した世界』と共通点があった。ロンドンとメキシコシティという違いはあるが、2つの映画はどちらも、高校生の娘と父親をめぐる話なのだ。

高校時代、父親が単身赴任していたことを思い出した。近くて遠い距離。それはステキな解放感だった。私たちは文通していた。手紙上の父親は『ジンジャーの朝』の父親のように自由でかっこいい男であるかのように思えたし、『父の秘密』のアレハンドラの父親のような孤独感が垣間見られることもあった。私はジンジャーやアレハンドラと同様、父親に心配をかけたり面倒なことになったりしないよう細心の注意を払った。離れていたから、手紙にきれいごとばかり書くのは簡単だった。文通は、美しい現実逃避だ。

ジンジャーとアレハンドラは、親世代が眉をひそめる不良行為にも手を染めるが、同世代なら問題なく共感できるレベル。何よりも彼女たちは、苦境に立たされても美しく毅然としている。ただひとつ問題なのは、どちらの父親も娘の近くにいすぎるってこと。仲はいいし頼りにもなるが、はっきりいってしまえば、彼らは諸悪の根源。しかも原因はどちらも「妻の不在」。妻にコントロールされていない男は、何をしでかすかわからないのである。

ジンジャーの父親は、知的でセクシーでナイーブな自由人。しかし妻とはうまくいかず、ジンジャーの親友と関係をもってしまうのだからダメすぎる。父親というものは、男として魅力的すぎないほうがいいのだ。父親のような活動家を目指すことで、なんとかバランスを保っていたジンジャーが追い詰められて爆発するときの演技(byエル・ファニング)は驚異的。やがて彼女は、文章を書くことで世を受け入れ、他人を受け入れ、自分を受け入れる。

一方、アレハンドラの父親は、海辺の高級リゾートでシェフをやっていたが、妻を亡くし、娘と2人でメキシコシティに引っ越してくる。アレハンドラは、傷心の父親を気遣い、自分のことを心配させないように注意しているので、父親は、娘の学校での状況に気付かない。彼女が酔った勢いでボーイフレンドと関係をもったときの動画が学校中にばらまかれたことから、壮絶ないじめが始まったというのに。それは臨海学校でピークに達し、アレハンドラは海で行方不明になる。すべてを知った父親は、ある行動に出る。妻の死以来、どこか上の空だった彼が、突然生気を吹き返すのだ。それはそうだろう。妻だけでなく娘まで失うなんて、正気でいられるわけがない。

動画をばらまかれた上に、繰り返し辱めを受ける娘。それを知った父親がとる、とんでもない行動。救いなんてないし、なんて悲惨なの? でもこれは「悲惨な物語」ではないのだ。娘もボーイフレンドも父親も死ぬかもしれないが、死なないかもしれない。最悪のシーンを描いたわけじゃない。淡々と固定カメラの長回しで映し出される状況は、各自の真意を説明しない。誰がどういう意図で動画をばらまいたのか。ボーイフレンドは彼女をどう思っていたのか。父親は娘が海でどうなったと思ったのか。映画に必要なのはハッピーエンドではなく、可能性を想像させることではないだろうか。事実とは、簡単に説明できるものでも、万人が等しく共有できるものでもないのだから。

説明よりも大事なこと。たとえばアレハンドラ(by テッサ・イア)の態度。いじめられる側が、こんなに普通にちゃんとしている映画があっただろうか。何が起こっても、品格を保って生きればいい。怖れることはない。壮絶なシーンですらそう思える。「どうしてこの映画が、そんなふうに見えるのか」を考えることには意味があるだろう。現実逃避の場があることは重要だ。ジンジャーにとっては詩や手紙だったが、アレハンドラにとっては海。近所のプールで泳いだり、それでもダメなときは生まれ育った海へ逃避行する力のある彼女は、大丈夫だって思えた。

2本の映画の後味はずいぶん違うが、父親のダメさは共通している。やさしくて柔軟な父親は壊滅的に女にだらしないし、猪突猛進型の父親は壊滅的な復讐をする。早い話が、浮気男とストーカー男。2人とも娘への配慮はない。離れて暮らすべきですね。

2013-11-15

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