2013年 の投稿一覧

『三姉妹 雲南の子』 ワン・ビン(監督)

ドラマは、撮影対象の中にある。

さまざまな映画祭で大賞やグランプリをとり、国際的に高い評価を得ているワン・ビン監督。特集上映でドキュメンタリー作品3本を見た。中国からすごい人が現れたなと思う。

さびれた工場地帯を結ぶ鉄道と、その周辺に生きる人々を撮った「鉄路」(2003)は、9時間に及ぶ3部作「鉄西区」のPart3。きれいな暮らしではないが、食事時には湯気が満ちるアジアの原風景から目が離せない。監督は撮影対象の環境を尊重し、話しかけたり空気を乱したり都合よく切り取ったりしない。適切な距離を保ち、息を潜めるように撮ることで、撮られる側にも見る側にも安心感が生まれ、自由に解釈できる特別な世界が生まれるようだ。父親の拘留にショックを受けた息子が、長い沈黙の後、写真の束を取り出し訥々と話し始める時に、「ちょっといいですか?」とそれを奪い取って1枚1枚別カットで撮り直したりしないのである。ナイーブさの塊であるような息子が大切にしているものは何なのかが、そのままの形で伝わってくる。

「鳳鳴(フォンミン)— 中国の記憶」(2007)は、元新聞記者の74歳の女性が自宅で半生を語る約3時間の作品。彼女の体験のひとつひとつが、空や星の輝きまで伴って見えるよう。監督が控えめに声をかけるのは、暗くなり過ぎた部屋に電気をつけてもらう時のみ。ドラマチックに盛り上げる演出は必要ない。ドラマは彼女の中にあるからだ。家路を行く彼女の後ろ姿から始まり、執筆する後ろ姿で終わる構成も冴えている。

「三姉妹〜雲南の子」(2012)は、雲南省の高地の村で撮影された約2時間半の作品。ジャガイモを育て、わずかな家畜とともに人々が暮らす、中国で最も貧しい地域のひとつだ。
10才、6才、4才の三姉妹の母親は家を出て行き、出稼ぎ中の父親も、たまにしか帰らない。妹たちの面倒をみる長女は、学校に通うのも難しいが、ここに映っているのは圧倒的な貧しさだろうか。そうは思えない。貧しさとは比較であり、監督は豊かさと比べて同情するためでなく、理解するために三姉妹を撮っているからだ。父親と次女、三女がバスで町へ行くシーンで、初めて村の人以外のスタイルや持ち物が映り、現代の映画であることを思い出す。「鉄路」では、鉄道が道路を横切るとき、町の人々やクルマが映っていた。だけど、カメラはそっちを追わない。何かを撮ることは、何かを撮らないことであるという事実を刻み込むのみだ。

ワン・ビン監督の映画に登場する女性は、困難な状況においても別の星に住んでいるような強さを携えている。たとえば「三姉妹」の長女は、10才にして周囲への甘えや期待が希薄に見え、湿った家の中よりも、高地の開かれた風景が似合う。下界を眺める切れ長の視線とありあわせの服のリアリティは、どんなファッション写真もかなわない。父親にも次女にも三女にも似ていない彼女は、家を出た母親のDNA を受け継いでいるに違いない。

長女は男友達に「あんたの家に遊びにいっていい?」と聞く。「なんで?」とそっけない反応をする彼は、彼女と似た境遇にあり、女性に何かを与えようという余裕は感じられない。生きることに必死である父親と祖父だって似たようなもの。彼女はそろそろ村を出るべきなのだろう。チャンスが早く訪れることを願うばかりだ。

長女はぼろぼろの靴を脱ぎ、火で乾かしながら、病的な足のふやけ度を自分と比べたがる次女に言う。「そんなことを競っても、意味ないよ」。本当にそうだと思う。競うべきは足の速さや美しさであり、知識の豊かさだ。彼女は、これからの人生で直面することになる、さらに過酷な世界を予感しており、そこに踏み込んでいく覚悟を決めているのだろう。

2013-07-02

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『リアル 完全なる首長竜の日』 黒沢清(監督)

世界を救うかもしれない現実逃避。

これのどこがリアルなの?と突っ込みどころ満載なオープニング。だが結果的に、見たことのないリアルワールドへ連れ去られた。見たことのないリアルワールド? それはゾンビあり首長竜ありの見果てぬ白日夢。ものごとに整合性なんてないという、意識下のリアルを映像化してくれた。「きみを救うため、ぼくは何度でもきみの〈頭の中〉へ入っていく」という宣伝コピーは的確。そう、この映画の要は、機械を通じて昏睡患者と意志の疎通をおこなう先端医療技術「センシング」なのだ。大真面目なのにどこかゲーム的。ひ弱な愛の冒険物語にふさわしすぎる舞台装置。

佐藤健と綾瀬はるかの天然としかいいようのないさらっとした演技を、物語の構造が100%生かし切る。最終的に真逆になってしまうアンドロジナス的展開を、トゥーマッチな熱さとは対極の爽やかさで演じられるこの2人はすごいし、こんな難題を彼らに委ねた監督もすごい。現代に救いがあるとしたら、こんな軽やかさでしょう。本質を追求しないまま、大切なことの片鱗を察知する器用さ。ふだんはゲーム的日常で体力温存しているけど、いざとなれば外で遊ぶし誰かを助けたりもするよってノリの草食獣。

「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した原作とは、エレメントの意味や役割が異なるが、空気感はきっちり共有している。まるで原作と映画が「センシング」をおこなっているかのよう。共有している空気感のひとつが明るさで、たとえば佐藤健が運転するクルマ。フロントガラスをトップまで広くとった透明カプセルのようなシトロエンC3をこの映画に使うのはなぜ? おどろおどろしい作品が生まれるデスクや、昏睡状態の患者が眠る病室のベッドにまぶしいほどの陽光が降り注いでいるのはなぜ? 普通は影になっている部分、暗くしたくなる部分がやけに明るいのだ。黒沢清監督は、陰影やかっこよさやクールさやセクシーさや難解さに反旗を翻し、白日のもとにさらして観客の目を楽しませる。

キーワードは、内面のない登場人物を意味する「フィロソフィカルゾンビ」。一体誰がフィロソフィカルゾンビなのか。過去と現在、自分と他人の境界が曖昧になる。「ミステリーズ 運命のリスボン」(byラウス・ルイス)さながらの、時間をめぐるミステリー。思い込みの強さが、記憶を新たに塗り替える。自ら封印したナイーブな真実を掘り返すことに一体どんな意味が? 意識の混濁自体は怖いけど、愛する人とともに記憶の風景を探しに行くことや、愛する人と自分の意識が混ざりあうのは、たぶん怖くない。自分と相手の区別がつかなくなるようなことが愛だし、相手の経験や痛みを自分のことみたいに感じることこそがリアルなのだから。自分より相手を信じてみたくなる甘美な愛の本質を、こんなにさりげなく描いてしまった他力本願な現実逃避映画!

ピンチのときは、きっと誰かが頭の中へ入って、助けてくれるだろう。なのに愚かな自分は、さんざん心配かけておきながら、まるで自分が誰かを助けるための困難な旅に出た気分になっているのだろう。頭の中に入らなくたって、センシングなんてしなくたって、いつだって愛はそういうものだ。どっちがどっちでどっちを助けようがどっちでもいいじゃんっていう投げやりでアバウトな思考が、大きな愛や包容力に似ているなんて、思ってもみなかった。

2013-06-16

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『黄昏流星群(第418話 一途の星①』 弘兼憲史

すてきなストーカー人生。

何度も映像化されている「黄昏流星群」だけど「ビッグコミック オリジナル」6月20日号の新章1回分を読み、心をかっさらわれた。
子供のころから容姿コンプレックスに悩まされている相良房枝(ブサ枝)。男性と付き合うことのないまま、25歳の時、夢魔(ナイトメア)が意識の中に現れるようになる。房枝は彼をインキュバス君と名づけ恋人のような関係になる。目覚めている時も突然現れ、背中を押したりよからぬことを囁く道化のようなインキュバス君は、房枝のマイナスエネルギーから出現した悪魔でありエロスの権化なのだ。

インキュバス君が人気俳優の三田慶太郎と似ていることに気づいた房枝は、仕事の合間に三田を追いかけるようになる。ロケ地で飛ばされた帽子を拾ったことがきっかけで名前を聞かれる房枝。インキュバス君にそそのかされるまま「ブサ枝」と答えるが「キミは可愛いよ」と三田は言う。本気のはずはないが、初めてそんなことを言われた房枝は恋に落ちる。
30年後、55歳の房枝は、80代で引退した三田が住んでいるはずの武蔵野市へ引っ越す。介護士の資格をとったのも、いつか三田の介護をするという夢のためで「それが出来た時、私のストーカー人生が完結する」と思う。ある日とうとう男性に車椅子を押された三田とすれ違う房枝。自宅を突きとめるとそこには「求む介護士」の貼り紙が……。

これ、恵まれない人生についての話じゃない。ひとつの幸せな人生の形といっていい。堅実で安定しており、目標や夢があり、的確なタイミングでチャンスをつかんでもいる。何の問題もない。しかし何の問題もないのはここまで。この先、房枝の人生は激変するのだろう。

ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」みたいになるのかな。房枝が、より「自由」になってくれるといいのだけど。

https://www.lyricnet.jp/kurushiihodosuki/2002/02/28/996/

房枝=夏川結衣、インキュバス君=生田斗真、三田=佐藤浩市で映画化してほしい。

2013-06-07

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『孤独な天使たち』 ベルナルド・ベルトリッチ(監督)

たまに打ちのめされても平気。

デヴィッド・O・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』(2012)は、イカレたふたりについての映画だった。実際にそういう言葉で宣伝されていたのだ。同じような意味で、ロバート・ゼメキスの『フライト』(2012)も、イカレた2人についての映画だった。そして、ベルナルド・ベルトルッチの10年ぶりの新作『孤独な天使たち』(2012)も。いま最もリアルでクールな映画の主人公といえば、イカレたふたりなんじゃないかと思う。

ただし『孤独な天使たち』には『世界にひとつのプレイブック』や『フライト』のようなドラマチックな展開はないし、イカれた部分にレッテルを貼り治療を啓蒙することもない。人はたぶん、わかりやすい困難を乗り越えて何かを達成しなくてもいいし、風変わりな点を無理に矯正しなくても美しく生きていけるのだ。

14歳の少年ロレンツォは、親に内緒でスキー合宿への参加をやめ、1週間、地下室に引きこもることにするが、そこに異母姉のオリヴィアが乱入する。ロレンツォは少々社会性にかけるオタク少年で、オリヴィアは美しくエキセントリックなヤク中だ。別の俳優では映画は成立しなかったと断言できるくらい、2人のインパクトに圧倒される。

長年、母国イタリアに否定的な思いを抱いていたベルトリッチが、30年ぶりにイタリア語で撮った。ベルトリッチはパゾリーニロッセリーニ以外のイタリア人監督を認めていないらしく、イタリア語のクオリティには相当こだわったようだ。映画の原題は『Io e te(ぼくときみ)』。初期作品の『Partner(分身)』(1968)『Ultimo tango a Parigi(ラスト・タンゴ・イン・パリ)』(1972)とつながっており、表現はよりみずみずしく純化している。ベルトリッチは「巨匠」ではなかったのだ。

子供の世界と大人の世界が断絶している感触は、綿矢りさの「インストール」「蹴りたい背中」を思わせる。地下室での最後の晩餐のため、ロレンツォの家に侵入し、冷蔵庫の残りものとビールを盗み出すふたり。オリヴィアはロレンツォの母親の寝顔をじっと見つめる。オリヴィアにとって彼女は「母から夫を奪い母と自分の生活レベルを下げた憎い女」なのだから。

大人への恨みは晴らさなくちゃ、と思う。大人への恨みを晴らす前に、子供は大人になるべきじゃない。子供と大人の間を行き来するオリヴィアの言動は、どの瞬間も、何かの終わりを予感させる気迫と集中力に満ちていて切ない。

最初のシーンでロレンツォが聴いているのは、ザ・キュアーの「ボーイズ・ドント・クライ」。「どこまでイギリス好きな監督なんだ!」と思うが、最後の夜、2人が踊るシーンで流れるのは、デヴィッド・ボウイがイタリア語で歌う「ラガッツォ・ソロ、ラガッツァ・ソラ」(1970)だ。ベルトリッチは「イギリス人が歌うイタリア語」によって、自らの心境の変化まで語っているように思えてしまう。

オリヴィアは言う。「もう隠れるのはやめて。ちゃんと生きるの。たまに打ちのめされても平気よ」。ロレンツォへの鮮烈なメッセージとともに、デヴィッド・ボウイのボーカルが胸をえぐる。ベルトリッチも敬愛しているというイタリア人作詞家、モゴールがつむいだ言葉の響きがあまりに美しく感じられ、日本語に訳してみた。

「ロンリーボーイ、ロンリーガール」

離陸したぼくの心 たったひとつの思い
街が眠るあいだ ぼくは歩く
夜の瞳 闇を白く照らすあかり
ぼくに語りかける声 それは誰?

ロンリーボーイ どこへ行くの なぜそんなに苦しむの?
大きな愛を失ったのね でも愛は街にあふれている
ロンリーガール そうじゃない これは特別なんだ
愛だけじゃない 昨夜ぼくは彼女のすべてを失った

彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない

ロンリーボーイ どこへ行こうとしているの?
夜は大きな海 泳ぐのに必要なら どうか私の手を 
ありがとう でも今夜ぼくは死にたい
だってぼくの目の中には 天使がいる
二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が

彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない

2013-05-04

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『海と大陸』エマヌエーレ・クリアレーゼ(監督)

南イタリアの島へ行きたい、と思う人々。

イタリアの新教皇フランシスコはアルゼンチン出身だが、彼の父親はイタリア出身のイタリア人。移民の家系で鉄道員だった父親は、フランシスコが生まれる8年前の1928年、21歳にしてジェノヴァ港から「幸運を求めて」大西洋を渡り、ブエノスアイレスへ向かったという。それはどんな旅だったのだろう。

人は何のために海を渡るのか考えてみる。遊ぶため? 任務を果たすため? 自分探しのため? よりよい仕事に就くため? 迫害を逃れて生きのびるため? この映画では、遊ぶための旅と生きのびるための旅が対比される。

シチリアとチュニジアの間に浮かぶ小さな島、リノーサ島。その海は美しい観光地としての海であり、難民が流れつく海でもある。映画のプロモーションに使われているのは、レジャーボートから次々と海へ飛び込む人々の歓喜のシーンだが、映画を見終わったあと、そのシーンは、難民ボートから次々と海へ飛び込む人々の必死のシーンと重なる。

父親を海で亡くした20歳のフィリッポは、祖父が細々と続ける漁師を継ぎたいけれど、島の漁業は衰退するばかり。夏のバカンスの間、フィリッポと母親は3人組の観光客に家を貸し出すことに成功するが、自分たちはその間ガレージ暮らしだ。

島の産業と難民の問題に迫るシリアスな映画。とはいえ海は美しいし、母親も美しいし、マザコンのフィリッポは可愛いってとこがイタリア的。彼がお気楽な同世代3人を連れ歩く観光ガイドっぷりは、嬉しくなるほどリアルな夏のひとこまだし。フィリッポは島や家のネガティブな状況を隠しつつ、暑いとか疲れたとかいう彼らをなだめつつ、挑発的な女の子に対してだけは何としてもカッコつけなければならないのだ。海を愛し祖父を愛しママを愛し、だけど男になりたいし外の世界も知りたいフィリッポ!

祖父が難民ボートから違法に救助し、一家がかくまう女性さえも美しい。だが、この女性を演じたのは、2009年夏、リノーサ島に近いランペドゥーサ島に漂着した本物の難民だという。ボートには80人が乗っていたが生存者は彼女を含む3人だけ。彼女は奇跡的に生きのびたイタリアの地で、女優に起用されたというわけだ。それは彼女の望む人生だったのだろうか。

シチリアの漁民一家の過酷な日々を撮ったヴィスコンティの「揺れる大地」(1948)を意識した作品であることは間違いない。「揺れる大地」=La terra tremaに対し、この映画の原題はTerrafermaつまり「揺れない大地」なのだから。ヴィスコンティは本物の漁師たちを起用し、クリアレーゼは本物の難民を起用した。

旅先における観光客の正しい態度ってどういうものだろう。ネガティブな面は見ないふりをしてお膳立てを楽しむこと? 現地の人と恋に落ちて自分の国へ連れてきたりすること?
フィリッポはどんな男になるのか考えてみる。「揺れる大地」(1948)の続編として「若者のすべて」(1960)があるように、この映画の続編を待ちたいと思う。

2013-03-25

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