「ゲルハルト・リヒター」の検索結果

『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』コリーナ・ベルツ(監督)
『来訪(VISIT)』ジャ・ジャンクー(監督)

パンデミックの中の、幸せ。

3月13日から臨時休館しているNYのメトロポリタン美術館が、ゲルハルト・リヒターの回顧展をオンラインで公開している。この回顧展は3月4日に始まったというから、現地ではまだ9日間しかリアル公開されていないことになる。再開の時期も未定であることからオンライン公開に踏み切ったのだろう。豊かなそのコンテンツの中に、3年以上の密着により作品制作のプロセスやプライベートな心情に迫った97分のドキュメンタリー映画『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』(2010)があった。

リヒターの抽象画が36億円で落札されて話題になったのは2014年。この映画は、一連の抽象画シリーズが、こんな場所でこんなふうにつくられているのだという事実を、もったいぶらずに堂々と明かしている。こんな取材を許可したリヒターの人柄に加え、こんな面白い映画を世界中に無料公開してしまう美術館のサービスぶりに驚く。「アーティストとアトリエと作品は似ている」というのが個人的な感想で、それはすごく幸せなことのように思えた。

興奮が醒めない中、今度はジャ・ジャンクー監督が新作の短編『来訪(VISIT)』のオンライン無料公開を始めた。この作品は、ギリシャのテッサロニキ国際映画祭の短編映画プロジェクトとして制作された15本(8人のギリシャ人監督と7人の外国人監督が参加)のうちの1本で、このプロジェクトは、フランスの作家ジョルジュ・ペレックのエッセイ『さまざまな空間(Espèces d’espaces)』に触発され、自宅での撮影を条件としたものだ。

ジャ・ジャンクー監督の『来訪(VISIT)』は、現在進行形のCOVID-19 パンデミック下の世界を描いた4分間のフィクションで、スマホを使って1日で撮影されたという。登場人物は、監督、男性、アシスタント女性の3人。男性が監督の家にやって来て打ち合わせをする話だ。入口をノックした彼を、女性が赤外線体温計で検温し、監督は彼が握手のために差し出した手を避ける。打ち合わせに入った監督と男性は、パソコンに触る前に手の消毒をし、指を使って画像を閲覧した後は、石けんで手を洗う。映像は終始モノクロだが、洗面所に生けられた花と、監督が見上げる窓の外の風景だけがカラーになり、ほっとするような生命の息吹を伝える。

試写室で映画を見る二人が、お茶を飲むときだけマスクを外す所作は生々しく、彼らが見ている過去の映像は、不気味なほどの迫力だった。目下、人々がおかれている状況が異常なのか、過去のほうが異常だったのか、わからなくなってくる。監督の家には『山河ノスタルジア』(2015)『帰れない二人』(2018)のポスターが飾られていたが、たった4分の短編の中にも、これらの長編のエッセンスを感じることができた。

この映画、数か月前ならシュールなSFに見えたと思うし、今だってそう見える。だが、全体を貫くトーンは、既にどこかノスタルジックなのだ。そう、打ち合わせをすることも、お茶を飲むことも、映画を見ることも……。くらくらするような試写室の光の中で、私は考える。私たちはこれから、進化していくのだろうか、退化していくのだろうか、それとも、何も変わらないのだろうか。そうしてようやく、これはパンデミックにおける滑稽な日常、つまり、小さな幸せの瞬間をとらえた映画なのだと気がついた。

2020-4-29

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『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館 / 

顔のないポートレート。

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館のイメージ、ビール

オープンカーの屋根を開け、千葉県佐倉の川村記念美術館へ行った。東京から2時間かけて、ドイツの代表的な現代美術に会いにいくなんて、わくわくするようなシチュエーションだ。散策路に続く水辺のレストランではドイツフェアを開催中。クルマとワインは何といってもイタリアだけど、現代美術とビールはドイツかも!

リヒターといえば「ベティ」を思い出す。彼の娘ベティ・リヒターのポートレートだが、後方を振り返る彼女の顔は見えず、おまけにちょっとピンボケ。その上、よく見ると写真ではなく絵画なのだ。まさに何重にも人をくったような作品である。後ろ姿でピンボケの写真絵画が、どんなポートレートにも負けない魅力をたたえているのはなぜだろう。

今回の展示のメインは、655枚のパネル上に構成された4500点もの写真やスケッチの集合体である「ATLAS」。リヒターの創作の原点(モトネタ)であると同時に、これ自体がライフワークというべき膨大な作品群だ。新聞の切り抜き、家族のスナップ、強制収容所の死体、ポルノ、風景、カラーチャート、ロウソクの炎、精密なスケッチ、絵の具のうねり…そのすべてに番号がふられ、几帳面に整理されている。

「ベティ」のもとになったスナップ写真を探すのは簡単なことだった。モトネタと作品はそっくりなのだから。だが、絵画のほうが明らかに普遍的な美しさを獲得している。「後ろ姿のスナップ写真」というだけでも十分に普遍的(没個性)だが、リヒターはそれをもう一度描き直し、さらにピンボケにすることによって、「ベティ」を比類ないポートレートに仕立てたのである。

「ATLAS」の中には、病気のベティを撮った写真などもあり、リヒターには、娘の元気な笑顔を正面からばっちりピンを合わせてとろうなどという凡庸な意志がないことがわかる。いや、「ピンのあった正面笑顔写真」こそが特殊なのだろう。リヒターの作品は、それほどまでに自然で、目立つことや意表をつくことを目的としていない。対象の個性を削ぎ落とし、普遍化させてゆくプロセスは、まるで自らの固定観念や虚栄を脱ぎ捨てる作業のようだ。彼は、人物の顔をちゃんと描かないことで、逆に、その人物の「純粋な印象や気配」を描くことに成功している。

会場には、「ATLAS」をもとにした10点の作品も展示されていた。「48の肖像」は、百科辞典に登場する偉人たちの写真を肖像画に仕立て、もう一度写真に撮ったもの。写真、絵画、写真というプロセスを経た48人分のポートレートは、最初の百科辞典の切り抜きと比べると、権威や時代性が排除され、全員が同じスタジオで均一に撮影されたように見える。

これらをまた絵画にし、写真に撮り…と繰り返していくと、どうなるのだろう。偉人であれ凡人であれ、皆、同じ顔になってしまうのか。最後には顔ですらなくなり、つるつるのグレーのボードになるのかな。「鏡(グレー)」というガラス板にグレーのシートを貼っただけの作品を見て、そう思った。この鏡には、すべてのものがうっすらと、灰色に映り込む。これこそが、リヒターの究極の美のイメージかもしれない。

「ATLAS」の中から、彼に選ばれた幸福な断片のみが、美しい抽象化への道を歩みはじめる。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」とリヒターは言っている。「見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです」

*川村記念美術館で5月27日まで開催中

2001-04-17

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『私が描いた人は』いとうせいこう

愛する。憎む。絵を描く。

家族の写真を年賀状にするのはどうかと話題になった時代があるけれど、今は毎日それがある。インターネット上は、幸せ自慢大会で大盛況。だけど私たちは、いつだって何かを探しているから、どんなに傷ついても人とのつながりをやめない。

ゲルハルト・リヒターは言う。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」

六本木のWAKO WARKS OF ARTでリヒターの最新作「strip paintings 2012」を見た。多色の細いホリゾンタルストライプが美しい目眩を起こさせる作品群で、絵画を複雑にデジタル加工しプリントしたものという。もとの絵はリヒターが描いたのだからものすごく上手で美しい絵だったことは間違いない。それを複雑にデジタル化すると、非人間的な美しいストライプになるというわけだ。つまり美しいものは徹底的に解体しても別の意味で美しい。なんて希望的なんだ。これは、デジタルワールドのなれの果ての夢かもしれない。

人の話を聞いているのは楽しいけれど、自分の話をしているとどんどんつまらなくなっていく。その理由が昨日わかった。自分の話は知っていることばかりだから。そんな大事なことを教えてくれた人は22才。たわいない話を未知の勘でしゃべる人だった。自由なんだと思った。他人に無理に合わせようとせず、ごく自然に言葉を発し、人と会うことを楽しみながら生きている。大きな会社にこういう人はいない。いられない。健康診断を受けないと給料が下がる会社があるんだって。そういう会社のサービスってどんなものなのか。粒ぞろいで均一な笑顔が心地よいサービス?

広告代理店には変わった人がいる。携帯電話の広告やるのに携帯もってない人がいた。女の子のファッションの広告やるのに女の子のファッションに興味ないと言い放つ人がいた。そんなんでよく仕事できるなー、あるいみ贅沢だよなーって思いながら、私はそういう人とやった仕事が忘れられない。別にいいじゃん。興味なんかなくたって。現物なんかなくなって。愛なんかなくたって。情報を得すぎると似たようなものしかつくれないと、深澤直人も言っている。

今ってさあ、ソーシャルだしオープンだしフリーだし、イベントの参加もメンションでっていう時代。ていうかメンションって何。なんで宣伝しなくちゃいけないの。行けば写真もアップされちゃう。写真だめな人は前もっていっといてとかアレルギー対応みたい。私と一緒に遊んでいる人は、GPSで居場所を発信し続けている。どこで何食べてどうしたかを素敵な写真と文章とともに。その器用さはどこにつながっていくのだろう。だけど、これだけオープンな時代なのに意外な部分で閉鎖的。閉め出された人はきついんじゃないかと思う。ちっとも温かい時代じゃない。

私だってクルマに乗るとスマホをオンにする。音声付きのカーナビをスタートする。とっても便利。GPSをオンにしたまま写真を撮る。不安になる。この写真はいずれどこかで世界とつながっちゃうのかなって。

コミュニケーションがうまくできない場合は、絵が描けるといい。愛でもなく憎しみでもなく、描きたくなるような絵ってどんな絵だろう。そうやってもう、ずっと考えている小説がある。短い小説だ。「文藝2012年夏号」と「文芸ブルータス」に掲載された、いとうせいこうの『私が描いた人は』という作品。

「文藝2013年春号」のいとうせいこう特集には『想像ラジオ』という作品が掲載されていたけれど、想像にしては具体的すぎて、想像力がかきたてられない点が残念だった。みんなとつながりたい人には『想像ラジオ』がおすすめだけど、勝手に静かに想像したい人には『私が描いた人は』がおすすめだ。そろそろファッション界に戻ってくるんじゃないかと噂されているジョン・ガリアーノのように、いとうせいこうは文学の世界を賛否両論の渦でかきまぜてくれるだろう。

『私が描いた人は』は、日曜画家の「私」が「PQ」という友人の絵を7枚の連作として描く。「私」は「PQ」の何に惹かれたのか。尊敬していたのか。面白がっていたのか。男同士の友情か。よくわからない。「私」はあいまいなのだ。しかし「私」はとにかく堕天使のようなPQの思い出を宗教画のような絵画として定着させた。あいまいな人が、あいまいな思いで描きたくなる絵とはどういうものなのか。それがこの小説だ。

心が通じ合っている関係とはいえないけれど、通じ合った瞬間はあったかもしれなくて、一度は再会する。でも、もう会えないかもしれなくて、記憶だけが残る。こういう関係の決着のつけ方として、7枚の絵はちょうどいいのかもしれない。絵は、ゆるやかであいまいなモードになじむ。絵を描くとは、愛と執着のはざまの、時を隔てた遠く静かな空白地帯をうめていくような行為だと思う。相手が生きていても死んでいても、人と人は、そうやってずっとコミュニケーションできるのだろう。

物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
(ジム・ジャームッシュ「パーマネント・バケーション」)

2013-01-31

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『ジグマー・ポルケ展 ― 不思議の国のアリス』 上野の森美術館 /

みずみずしい毒。

ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファーらとともに現代ドイツを代表する画家、ジグマー・ポルケ。日本での個展は今回が初めてだ。「日本におけるドイツ年」ということでようやく実現したわけだが、お金を出したのは日本側。ドイツのいかなる公的機関の助成も受けていないという。「ゲルハルト・リヒター展」(川村記念美術館11/3~)は、デュッセルドルフの州がバックアップしているというのに!

だから、今回のポルケ展は「すべてをカバーできていません。ドイツ人たちがまったく協力的でなかった点は強調しておいてください。オープニングなどになればどうせ彼らはやって来て、自分の手柄のように振る舞うでしょう」(美術手帖11月号インタビューより)ということなのだ。

「不思議の国のアリス」は1971年の作品タイトルで、既成のプリント生地を悪趣味に組み合わせ(2種類の水玉+サッカーのイラストプリント!)、その上にアリスと芋虫と毒キノコ、そしてアリスとは何の関係もないバレーボール選手が落書きのように描かれている。たちの悪い冗談のようだが、いつまでも見ていたい絵だ。なぜ、この作品がポルケ展のサブタイトルに?と考える間もなく、私は既に、自分がアリスの視点でポルケ展を見ていたことに気付く。

ポルケの絵は大きい。これは想定外のことだった。本の中でしか見たことのなかった絵たちが目の前に立ちはだかった瞬間、私は毒キノコを口にしたのである。

大きさも色も、本の中の印象とはまるで違い、別の作品集を見ると、またもや違う。とりわけ紫の顔料を使った3部作「否定的価値」(1982)と、血を思わせる天然の朱砂(水銀と硫黄の化合物)を使った4部作「朱砂」(2005)については、印刷物と実物はまったくの別物!としかいいようがない。2つの作品群は驚くほどフレッシュで、ところどころが濡れたように光っている。会場の温度が上がると、どろどろに溶け出すのかも…。そう、これらは、毒をもりこむように化学変化を想定した色。魔術的な意味を画材にこめるポルケが、錬金術師とよばれる所以である。

21世紀における絵画の意義と役割について、ポルケは控え目に語る。
「絵画があるということはいいことだ、と言っておきましょう。(中略)社会は絵画を必要としていません。社会が求めているのは映像であり、それは今日では機械的に、写真の技術で、フィルムその他によって創り出すことができます。絵画にもう何も啓蒙的なものはありません」

だが、こんなセリフを真に受けてはいけない。真実はいつだって作品の中にあり、実物をみれば一目瞭然なのだから。図録にも収まらず、公的機関のサポート枠にも収まらないポルケは、これからも世の中をあざむき続けるだろう。

*上野の森美術館で開催中(10/30まで)
*国立国際美術館で巡回展(2006年4/18~6/11)

2005-10-28

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『映画瓦版(ホームページ)』 服部弘一郎 /

「映画通の友だち」のようなサイト。

「映画瓦版」は、個人のホームページというものが、ここまできちんとした形になるという見本のようなサイトだ。服部弘一朗という映画批評家が一人で運営している。

https://eigakawaraban.wordpress.com/

このホームページ自体が、彼の仕事のベースになっているらしく、執筆依頼などの多くがここを経由してくるという。映画批評のプロであることの本質は、映画への思い入れや鑑賞眼の鋭さ以上に、HP以外の執筆媒体をもち、試写状のとどく映画はほとんど見に行っているという実績にあるのだと思う。その数は年間500~600本。映画関係者の中では珍しくない数字かもしれないが、そのすべてをデータベース化し、公開しているというのがすごい。

公開されているのは、50音別、月別に整理された映画鑑賞メモ。メモといっても、趣味の領域ではないことは、作品にどんな印象をもった場合にも、その記述が一定の密度と客観性に貫かれていることでわかる。彼のデータベースは、いわばドイツの現代美術家ゲルハルト・リヒターの「アトラス」みたいなものだ。服部氏は自己紹介のページでこう書いている。

「試写室で映画を観ながらメモを取っている人も多いんですが、僕は帰宅してから資料を見ながらすぐに映画瓦版用の原稿を書いてしまいます。これが僕にとっての映画鑑賞メモがわり。映画の印象は時間が経つとどんどん変化して行くし、細かい部分は忘れてしまうので、こうして文章として残しておかないと後から思い出せなくなってしまいます。映画評の仕事が来た時点で映画瓦版を見直すと、『なるほど、こんな映画だったな』と書いていない部分まで鮮明に思い出すことができるのです」

メジャーな新作映画のほとんどを見ているようなので、近作ならだいたい検索できるし、公開前の映画も試写を見た順に続々アップされる。「日本最速の映画評ページを目指しています!」とトップに書かれているが、このスローガンに偽りはないと思う。

私は、映画を見る前後に「あの人の批評が読みたい」と思うような歯に衣着せぬ評論家が何人かいるが、私の好きな評論家がすべての映画についてどこかで書いているわけではないので、それは叶わぬ願い。また、無記名の映画紹介記事の場合は、一定の視点がなく、PRに終始している場合が多いので参考程度にしか使えない。というわけで、このサイトは「非常に使える」のである。

既に自分が見た映画をいくつか検索してみると、彼の見方と自分の見方の違いが次第にクリアになってきて、「映画通の友だち」が一人できたも同然という感じになってくる。大上段にかまえた批評ではなく、わかんないものはプロらしくちゃんと説明を試みながらも「僕にはよくわからなかった」などと書かれているあたりも友だちっぽい。「彼がこういうふうに誉めてる作品は、たぶん私は苦手だろうな」とか「彼は淡々と書いているけど、この映画はきっと私向きだ」というふうに、今ではだいぶ予測できるようになった。彼がたまたま見ていない映画があると、「えー、なんで見ないわけ?」と怒ってしまったりもするのである。

2001-06-29

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