「ストローブ=ユイレ」の検索結果

『ヨーロッパ2005年、10月27日』ストローブ=ユイレ(監督)

世界の終わりへの旅は、終わらない   2

ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレは、ストローブ=ユイレの名で映画を制作している夫婦。フランス国籍を持ち、ドイツで暮らした後、イタリアに移住した。カフカの未完の長編「失踪者」(旧題「アメリカ」)を映画化した『アメリカ(階級関係)』(1983-4)は、ドイツ人少年カール・ロスマンが故郷を追われ、船で単身ニューヨークへ渡る物語だ。世間知らずで誇り高い彼は、理不尽な階級社会にぶつかっていく。

ロビンソンという男は、そんな旅の途中で出会う因縁のアイルランド人。最悪のタイミングで再び現れ、カール・ロスマンにまとわりつき、金をせびり、大暴れする。カール・ロスマンはロビンソンの面倒を見たせいで、エレベーター・ボーイの職を失うことになる。パトリック・キーラー監督が『ロビンソン三部作』で引用したのは、ヒーローのチャンスを奪う厄介な男の名前だったのだ。

カール・ロスマンは、やがてオクラホマ劇場の裏方の仕事を見つけるが、輝かしい未来が待っているかどうかはわからない。しかし、これだけはいえる。私たちの人生において重要なのは、旅の途中で出会ってしまったロビンソンのような人物の言動を、少なくとも無視しないことではないだろうか。

カール・ロスマンは、オクラホマ行きの列車に乗る。延々と続くラストシーンに、映画の魅力が炸裂する。ミズーリ河沿いを走る車窓風景を2分間以上映し続け、さらに音だけを2分。「世界の終わりへの旅」は、ここにもあった。未完の小説の主人公、カール・ロスマンはどこへも辿り着かない。だが、車窓風景は変化し続ける。私たちは、変化を見つめることをやめてはいけない。

ストローブ=ユイレは『あの彼らの出会い』という作品で、2006年9月、ヴェネチア映画祭の特別賞を受賞した。妻のユイレが癌で亡くなる直前のことだ。「映画の言葉の革新」(l’innovazione del linguaggio cinematografico)に対して賞が贈られたという。

この作品は、パヴェーゼの詩『レウコ(白い女神)との対話』の映画化で、古代ギリシャの神々と人間の対話が、オリュンポスのような山中で演じられる。素人俳優が2人1組で本読みをしているだけのように見えるけれど、この映画における俳優は、いわば「詩の奏者」。バッハの二重奏をオリジナル・スコアに忠実に演奏するように、パヴェーゼの対話詩をオリジナル・テキストに忠実に発声しているのである。とんでもなくアグレッシブな試みだ。

夫のストローブは、ヴェネチア映画祭への欠席の手紙にこう書いた。「警察や私立警官たちがテロリストを探し回っている祝祭で、お祝い気分に浸ることはできそうにない。テロリストは私なのだ。わかりやすくフランコ・フォルティーニの言葉を引用しよう:“アメリカ帝国主義的資本主義が存在する限り、世界には決して充分な数のテロリストがいるとはいえない”」(D’altronde non potrei festeggiare in un festival dove c’è tanta polizia pubblica e privata alla ricerca di un terrorista – il terroristasono io, e vi dico, parafrasando Franco Fortini: finché ci sarà il capitalismo imperialista americano, non ci saranno mai abbastanza terroristi nel mondo.)

その後、パリ郊外で2005年10月27日に起きた事件の現場を記録したビデオ作品「EUROPA 2005 – 27 OCTOBRE」(12分)が公開された。ストローブ=ユイレが2006年春、イタリア国営放送の依頼で撮ったという。10代の移民労働者による暴動のさなか、2人の少年が警官に追い詰められた末、感電死した変電所の入り口付近が映っている。晴れた午後の風景はのどかだが、「止まれ!命を危険にさらすな」というフランス語の看板と、最後に映像と重なる「ガス室」「電気イス」というフランス語の文字がまがまがしい。桜の花が風に揺れ、犬の吠える声が聞こえる。ほぼ同じテイクが5回、繰り返される。

2015-10-27

『あの彼らの出会い』 ストローブ=ユイレ(監督) /

突き抜けた映画から、力の抜けた映画へ。

まだ暗い早朝、都内の最も美しい交差点のひとつを右折したら、目の前のクルマから火が出ているのが見えた。携帯を手にした男が駆け寄ってきて言った。「消火器、積んでませんか?」
消火器ならある。しかも、キャブからの火を消し止めたことだって。でも、パッケージを破って顔を上げると炎は増えており、小さな消火器で太刀打ちできないことは火を見るより明らかだった。流れてくる煙の匂いが、これ以上近寄るなと言っていた。ときどき爆発音がして、炎は街路樹よりも高く、サグラダ・ファミリアみたいな形になった。到着した消防車は、まぶしい光をいつまでも消しとめることができなかった。
私が映画監督だったら、これを撮っただろうか? ハリウッドの炎上シーンにはない「もうひとつの炎上シーン」を。

今年9月のヴェネチア映画祭で特別賞を受賞したストローブ=ユイレの新作「あの彼らの出会い」を思い出した。ユイレ(妻)が10月に亡くなったため、二人の新作は遺作となり、日本最終上映の日には、浅田彰氏の追悼講演と、パリ郊外で2005年10月27日に起きた事件(警察から身分証明書の提示を求められた移民の3少年が、追い詰められた末に変電所で感電死し、若者の暴動のきっかけとなった)の現場を二人が記録した12分のビデオ「EUROPA 2005 – 27 OCTOBRE」の特別上映が加わった。

ストローブ(夫)は「私はテロリストだ」と宣言した上で「アメリカの帝国主義的資本主義が存在する限り、世界のテロリストの数は十分ではない」というフォルティーニの言葉を引用した手紙をヴェネチア映画祭に託したという。

「あの彼らの出会い」は、パヴェーゼの対話詩を、素人っぽい俳優が2人ずつ忠実に再現(発声)するだけという、退屈きわまりない映画。だけど、ほかにはない「突き抜け感」のかっこよさに痺れる人は多いだろう。
「権力の神VS暴力の神」「酒の神VS穀物の神」「木の神VS森の神」「文芸の神VS古代ギリシャの詩人」「現代の狩人VS現代の狩人」の5つの対話を通じて、神々が人間との交流を始めた時代の話から、現代の人間がそのこと(=あの彼らの出会い)を思い出す話までが描かれているのだと推測するが、そんなことはどうでもいいかも。

しかるべき場所と人が選ばれ、ほとんど動きのないまま、しかるべき正確さで読まれるテキストは、あまりにもライブな自然という装置に囲まれて、ものすごくミニマルで、圧倒的にマキシマムな世界へとつながっていくのだ。

「昔の人は、ここではない場所で、パンでも喜びでも健康でもない、別のものを見つけた。海や畑に住む私たちは、パンや喜びや健康の代わりに、大切なものを失ってしまったのだ」

かつてヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したミケランジェロ・アントニオーニ「女ともだち」(1955)の原作もパヴェーゼだが、こちらは、女の人生がテーマのお洒落な映画。男のせいで自殺する女がいれば、男を捨てて仕事を選ぶ女もいる。パヴェーゼは、たぶん、すごいのだ。アントニオーニが映画化すれば、お洒落にかっこいいし、ストローブ=ユイレが映画化すれば、正しくかっこいい。

だけど、正しい映画は、退屈すぎて眠くなる。まじめで正しい妻ユイレがいなくなり、これからは、夫のストローブ一人で、力の抜けた映画をつくってくれるかも。
妻亡きあとの、夫の脱力に期待だ。

2006-12-27

amazon

『アメリカ(階級関係)』 ストローブ=ユイレ(監督) /

上着を捨てても、誇りは捨てない。

hotel bed

カフカの未完の長編「失踪者」(旧題「アメリカ」)を映画化した作品。
ドイツ人青年カール・ロスマンは、故郷を追われ、船で単身ニューヨークへ渡る。世間知らずで誇り高い彼が、理不尽な階級社会にぶつかっていく物語だ。

彼が最初に出会うのは、船での待遇に不満を持つ火夫。デッキから聞こえるアメリカ国家に耳を傾ける姿が印象的だ。火夫は演奏が終わるまで全く動かないし、一言もしゃべらないから、カール・ロスマンも私たちも、船室でこの曲を最初から最後まで一緒に聴いているしかない。デッキの様子は見えないのに、船旅をしている気分になる。

カール・ロスマンは「いいとこのお坊ちゃん」である。身なりがよく、外見と主張が一致している当初は何の問題もないが、次第に不当な扱いを受けるようになる。金持ちの叔父のもとを去った後も、ホテルの料理長の女に見初められエレベーターボーイの職を得るものの、道中に知り合った2人の貧しい悪友に足を引っ張られ、首になってしまう。そこからの転落は早い。いったん職と上着を失ったら、それを取り戻すのは大変なのだ。

だが、彼は誇りを失わない。自由になれば、外に出れば、何とかなると信じている。そして、そのことは圧倒的に正しい。人間は、誇りさえ失わなければ、たぶん何を失ったって大丈夫なのだから。

彼の周囲は、壁のように見える。彼を認める人、認めない人、見捨てる人、たかる人、すがる人、巻き込む人・・・すべてが類型的な役割を演じているようにしか見えない。塗りこめられた壁のような状況の中で、彼だけが人間らしく生き、あがいている。

深夜、殴られてバルコニーに閉じ込められた彼は、別のバルコニーでコーヒーを飲みながら勉強する男を見る。昼間はデパートで働いているというその男も現状に不満を抱いているが、そこに就職するだけでも大変なのだとカール・ロスマンに話す。バルコニーとバルコニーの距離は、遠くもないが、近くもない。

カール・ロスマンは少しずつ汚れていく。彼に蓄積する汚れ。それは階級社会を生き抜くための賢さにつながっていくのだろうか。賢くなるとは、汚れることなのだろうか。若さと誇りだけではだめなのか。汚れないで、と思う。

そんな時、彼は1枚の張り紙と出会い、オクラホマへ向かう。列車の移動シーンで映画は終わるが、ああそうか、彼には旅が足りなかったのだと納得できるくらい延々と車窓風景が続く。この風景の美しさといったら。

エンドロールの後も、まだ続く。このままずっと見ていたい。ずっと移動していたい。振り返らずに、ずっとどこかを目指していたい。
すべての映画が、こんなふうに終わればいいのに。すべての人生が、こんなふうに続けばいいのに。

*1983-84 西ドイツ=フランス合作
*「ストローブ=ユイレの軌跡1962-2000」アテネ・フランセ文化センターで開催中

2002-12-04

amazon

『ロビンソン三部作』パトリック・キーラー(監督)

世界の終わりへの旅は、終わらない   1

アテネフランセ文化センターで、パトリック・キーラー監督の『ロンドン』(1994)、『空間のロビンソン』(1997)、『廃墟のロビンソン』(2010)の3本を見た。いずれの主人公もロビンソンという男だ。

初めて『ロンドン』を見たのは、かつて四谷三丁目にあった旧イメージフォーラムだったと思う。橋桁が開いたタワー・ブリッジを豪華客船がゆっくりと通過する長いファーストシーンから始まり、最後まで語り手の「僕」も主役のロビンソンもスクリーンには登場しない82分の風景映画。クールすぎる映像の記憶は鮮烈だったが日本語字幕はなく「It is the journey to the end of the world.(これは世界の終わりへの旅である)」という冒頭のナレーションだけを覚えている。こんなに素晴らしい映画がそんなにネガティブな言葉で始まるのなら、この旅を永遠に続ければいいのではないかと思った。水面を打つ雨のシーンが忘れられず、『ロンドン』は最も美しいドキュメンタリー映画として心に刻まれた。

今回、字幕付きで見て、普通のドキュメンタリー映画ではないことがわかった。語り手の「僕」は豪華客船で写真を撮っていたが、以前一緒に暮らしていたロビンソンから連絡を受け、ロンドンに戻ったという設定だ。ロビンソンは大学の非常勤講師をしながらロンドン問題を研究している風変わりなシュルレアリスト。二人はロンドンにゆかりのある芸術家や思想家をたどり、社会問題に切り込むが話は飛ぶ。「僕」は自分よりもロビンソンのことをメインに語るため、主語のほとんどがロビンソンだ。よっぽど彼を愛しているのだろう。ロビンソンは、パブは怖いからあまり行かないらしく、イケアのレストランに失望したりもする。

『空間のロビンソン』は、ロンドンから約60km西のレディングに移ったロビンソンから久しぶりに連絡が入ったという設定。大学の非常勤講師の職は失ったが、広告会社からイングランド問題についての調査を依頼されたらしい。ロビンソンのエキセントリックな魅力は増し、産業構造と労働、経済格差の問題を探りつつ、出会った男と遊び翌日まで帰ってこなかったり、軍用機の部品を盗み広告会社との契約を打ち切られたり。この辺りからロビンソンについては怪しいなと思い始めた。主役不在の映像は、常に上品かつエッジィで紙芝居のように淡々と提示されるのだが。

『廃墟のロビンソン』では、レディングから約40km北西のオックスフォード近郊に放置されたトレーラーから19本のフィルム缶とノートが発見され、そのフィルムが今、上映されているという設定。撮影者は、人間という種の生き残りの可能性を調査すべく、周辺地域の風景を記録し始めたロビンソンだった。語り手は「ロビンソンの友達の愛人」であるところの女性。「ロビンソンと呼ばれる男が刑務所から出てきた」というような感じで始まり、ロビンソンは現在、行方不明らしい。

ロビンソンの目は、ロンドン郊外の標識や建築や遺跡を見つめる。同時に、地球上で最も寿命が長い地衣類、野生化したオシドリ、風にゆれる花、花粉を運ぶ蜂、小麦の収穫風景なども。何かが起こるまでじっと観察し、何も起こらなくても見続ける。だが、いつだって何かは起こっているはずだ。ひとけのない廃墟も生態系も、人間の営みと関係している。蜘蛛が延々と巣を張る行為に重なるナレーションは、リーマンショックの顛末だ。

世の中の問題に肉薄するために、多くの映画監督はまず人間を撮るが、パトリック・キーラー監督は、人間の営みの「なれの果て」の末端を凝視する。悪事をダイレクトに描かず、結果としての風景から本質をクールに暴くのだ。多くの人を魅了する美しさの中に、ヤバイものがたくさん映っている。

しかし、本当にヤバイのはロビンソンだ。「この都市の表面を凝視すれば、歴史的な出来事の分子的基礎があらわになるはずだとロビンソンは信じており、この方法で未来を見通したいと思っていた」というナレーションがあった。もう騙されない。ロビンソンはパトリック・キーラー監督をパロディ化した分身だ。思いのままに生きるこの偏屈なキャラクターにより、映画は自由を獲得した。ロビンソンの名は、ストローブ=ユイレ監督が映画化したカフカの未完の長編「失踪者」(旧題「アメリカ」)の登場人物からの引用であるらしい。パトリック・キーラー監督本人が、インタビューでそう語っていた。(つづく)

2015-10-17

『ル・アーヴルの靴みがき』 アキ・カウリスマキ(監督)

笑顔がない町の、幸せとは?

アキ・カウリスマキ監督は、イタリアのジェノヴァからオランダに向かって海岸沿いをドライブしていた時、北フランスの港町ル・アーヴルに出会ったという。カルヴァドスとブルース、ソウル、ロックンロールの町。
フィンランドの監督が撮る初めてのル・アーヴルは、どこでもない町だ。すべてのカットが計算された色と光と象徴的な構図から成り立っており、エドワード・ホッパーの絵のような喪失感、浮遊感に目を見はる。小さな町の日常を撮っているように見えるが、それはむしろ旅行者の視点なのだ。
監督の5年ぶりの新作は、この町から世界につながった。<少年の放浪3部作>とでも呼びたいジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」(1980)ストローブ=ユイレの「アメリカ(階級関係)」(1984)マイケル・ウィンターボトムの「イン・ディス・ワールド」(2002)などに。 

表現をそぎおとすことで、真実が浮かび上がる。ドキュメンタリーとは逆の手法だ。この映画がそぎ落としたものは何かといえば、笑顔、会話、動き。要するに、すべての<過剰な演技>だ。この映画が明るいとするなら、その明るさは本物だ。笑顔を排除して、なお残る明るさとはどういうものか。究極の問いに迫る描写が、胸を打つ。
道徳的な善悪の価値観も、そぎ落とされたもののひとつだろう。いいか悪いかではなく、好きか嫌いか、カッコいいかカッコわるいか、面白いか面白くないかという価値観で成り立っている映画なのだ。その結果として、難民少年はこうだとか、中年女性はそうだとか、靴磨きはああだとか、病院はどうだとか、世間一般に流布しているイメージや映画的な紋切り型から逃れ、リアルな感触を獲得している。
漠然としたほのぼの感とは対局にある、遊び心のエッジが立っている。あらすじを語るのであれば、高齢、貧困、病気などのキーワードが欠かせないかもしれないが、はたしてこの映画には、ほんとうに貧困と病が描かれていたのだろうか? そんなものはどこにも映っていなかったんじゃないだろうか? 

大島依提亜さんという人がデザインしたこの映画のパンフレットは、とてもお洒落な装丁だ。分厚い表紙は難民少年が着ていたセーターの柄だし、扉に使われている紙は主人公の妻のワンピースの柄なのである。これをみて、ああこの映画はファッション映画だ、と思った。酒とたばことロックンロールにまみれたファッション映画。つまりそれは幸せってことだ。
登場人物たちは、酒とたばことロックンロールのはざまで、自分の仕事や人生にとって大切なものを言葉少なに語ったり、語らなかったりする。奇跡とは、日常の小さな信条の積み重ねなのだと確信できる。 

世界につながる、終盤の船のシーン。人は船に乗って、何を見るのだろうか。それは過去なのか未来なのか。その答えが、わずかなカットに凝縮されていて、号泣。

2012-05-09

amazon