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『メランコリック』田中征爾(監督)

バリアフリーの果ての幸せ?

東大を出たのに実家でニート生活を送るコミュ障気味の和彦は、ある夜たまたま行った銭湯で高校の同窓女子に遭遇し、彼女のすすめもあって「銭湯でバイト」をはじめる。恋の予感とともに始まったバイト生活は順調に思われたが、銭湯のダークな一面(夜は死体処理場として使われている!)を知ってしまった和彦は……。

設定としては、殺し屋専用のレストランを舞台にした蜷川実花の『ダイナー』のようでもあり、展開としては、強盗たちの心理戦を描いたタランティーノの『レザボア・ドッグス』のようでもある。インディーズ系の底知れぬパワーという意味では、冨田克也の『サウダーヂ』や上田慎一郎の『カメラを止めるな!』のようでもある。

だけど、この映画はとびきり新鮮で。
描いているのは、バリアフリーな現代だ。
親と子、先輩と後輩、日本人と外国人、飲める人と飲めない人、学歴がある人とない人、働いている人と無職の人、社会的な人と反社会的な人…

何気なく幸せな家族、何気なく幸せな恋愛、何気なく幸せなバイト。
そんな完全なる予定調和な日常の延長に、殺人がある。
これは、私たちの日常そのものではないか。
殺人から目をそむけさえすれば、何気ない幸せで人生を満たすことができるのだ。

俳優たちの演技の巧みさとユーモア、そして、きっちりと伏線が回収されるストーリー。
至福の釘付け体験の、あげくの果てのラストシーンとナレーションに、ふと我に返る。
これ、マジなの? ギャグなの?

和彦とともにバイトを始める松本のキャラが最高すぎる。
彼が次々と見せる意外な一面に、惚れない女子はいないだろう。

2019-8-7

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『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』モンテ・ヘルマン(監督)

どこへも行けない路は、どこにでも行ける路。

スタートすれば思いがけない形で走り出し、終わったあとは勝手に成長していく。どんな仕事もそういうものかもしれない。それこそが仕事の醍醐味なのだろう。人生は、自分の意志でコントロールできないロードムービーのようなものだ。

『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』は、映画撮影についての映画、いわゆるメタ映画だ。何をいまさら? でも、これはモンテ・ヘルマンの21年ぶりの監督作、ファン特別大サービス仕様。結果的に、使い古されたこのテーマがここまで斬新な映画として完成してしまったのだから、ひとつのことを徹底的に突きつめるというのはすごいなと思った。
映画を見ながら気づいたことは「映画は、撮っている人がいちばん楽しいんだ」ということ。監督と女優はローマで恋に落ち、撮影が始まれば他のスタッフが苦言を呈するほどの熱愛ぶりだ。キャスティングの過程で「ディカプリオでどうだろう」「スカーレット・ヨハンソンが乗り気だ」なんて皮肉なセリフも出てくるし。だけどロケの現場は幸せなことばかりじゃない。きなくさい人物も紛れ込んでいる。
人生のダークサイドを扱っているのに、楽しげでポップなノリなのは、それが映画だから。美しすぎるローマ・ロケ以外はロサンゼルスの香り満載で、タランティーノの映画を見ている気分だった。タランティーノこそが、モンテ・ヘルマンの追随者であるわけだけど。

映画監督のミッチェルは、映画『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』の製作をスタートする。ある事件を映画化するのだが、実際の事件と撮影中のシーンが入り交じり、さらに撮影現場では日々いろいろなことが起こるから、構造はマニアックで複雑怪奇。フレームの中には最後までカメラがあり、そのカメラで撮られた映像も、映画の中で使われるというわけだ。
「ROAD TO NOWHERE」と呼ばれる路はノースカロライナ州に現存する。その名の通り、どこへも行けない行き止まりのトンネルだ。墓地へ通じる路をつくるはずが途中で頓挫したのだという。映画は、この路のようにどこへも行けないまま終わり、私たちは現実にもどる。

最後に「For Laurie」というメッセージが現れ、この映画が女優のローリー・バードに捧げるものであることがわかる。1970年代の最も重要なカルト映画と評されるモンテ・ヘルマンの『断絶』の主演女優だ。当時この映画は興行的に失敗し、モンテ・ヘルマンと恋に落ちたローリーも、数年後に自殺してしまう。どんな残酷なシーンも所詮、映画の中のできごとなんだという構造を示すことで、モンテ・ヘルマンは自分と彼女を救ったのかもしれない。『断絶』の撮影現場につながる世界を描くことで、彼女を生き返らせたのかもしれない。墓地へ辿り着けない路は、死者を葬らずにすむ路でもあるのだから。
徹底した愛の映画だということは、終わり方をみればわかる。今も監督は孤独な部屋にいる気分なのだろう。だからこの終わりのない、終われないはずの映画は、唯一のカットに、きちんと着地できたのだと思う。

ビクトル・エリセをはじめとする「ぐっとくる映画」のダイレクトな引用はもちろん、個々のカットがいちいち「ぐっとくる映画」の片鱗を匂わせる。それがこの映画そのものであろうが、映画の中の映画であろうが、だんだんどっちでもよくなってくる。結局のところ現実は、完成したこの新しい1本の映画なのだ。
重要人物であるヴェルマの死について、監督はこんなふうに質問に答えている。
「当初、実在のヴェルマの死の場面を見せようと考えていたことは事実だ。しかし、映画はそのシーン抜きでもすでに十分長く、そのシーンを入れることで予算超過することがわかっていたので、そのシーンを捨てることにした。君の言うとおり、この”アクシデント”がミステリアスな雰囲気をさらに高めたはずだ」

映画監督って、自分勝手で楽しそうな仕事だな。でも、興行的に失敗したら大変だろうし、女優と恋に落ちるのもラクじゃなさそう。だから。観客としては、監督よりもっともっと自由な無責任さで、映画を楽しみ尽くしてしまいたいなと思ったりする。

2012-01-17

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『SOMEWHERE』 ソフィア・コッポラ(監督)

予知夢のような映画。

米アカデミー賞で特別名誉賞を受賞した黒澤映画「夢」(1990)で、ハイビジョン合成の導入をアドバイスしたのは、フランシス・コッポラだったという。黒澤監督がみた夢をもとにした8話のオムニバス映画だが、後半の3話はつながっているようにみえる。いま思い返すと、まさに予知夢のようだ。

原発が次々と爆発し、灼熱の富士山も真っ赤に溶解。大地と海が荒れ狂う中、着色された放射性物質から逃げ惑う人々を描いた「赤富士」。核汚染後の荒廃した世界で、弱肉強食の共食いを続ける鬼たちの地獄絵図を描いた「鬼哭」。そして、近代技術を拒み、失われた自然と共に生きるユートピアのような村の葬式を描いた「水車のある村」。

黒澤監督をリスペクトするフランシス・コッポラが製作総指揮をつとめ、娘のソフィア・コッポラが監督した「SOMEWHERE」(2010)はどうだろう。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したが、その理由は、審査委員長のタランティーノがソフィア・コッポラの元恋人だったからではない。この映画もまた、監督の過去における予知夢なのだ。

映画スターの父と11歳の娘の物語だが、ひとことでいえば「フェラーリ360モデナ」によるロードムービー。ストーリーよりもひとつひとつのシーンの輝きに目をみはる。父フランシス・コッポラと過ごした監督の少女時代がリアルに、しかも淡々と描かれているからだ。ばかにするのでもなく、うらやむのでもなく、皮肉っぽくもなく、セレブな生活をありのままに描写する説明なしのセンスが上品で心地よい。ファッションや選曲の感覚も抜群だ。

まずは、父の生活の描写から始まる。砂漠のテストコースを周回するモデナ、ホテル暮らし、デリバリーガール、記者会見、パーティ、特殊メイクのための頭の型取り。何も不自由はないが、どこか少しずつずれた感じ。旅程をこなすような孤独で地に足のつかない日々の疲弊は、妻と別居していることが原因かもしれない。しかし、時々会う娘と過ごす時間は夢のようだ。娘を演じたエル・ファニングのスレンダーな少女の魅力には、誰もが釘付けになるだろう。

しばらく家を空けると言い残した母に代わり、娘をキャンプへ送っていく父。道中、彼女はモデナの中で泣く。そりゃそうだ。キャンプが終わったとき、いつ戻るかわからない母の家に戻るか、多忙なスターの父に頼るか、どうすればいいの? だが、父はキャンプに間に合わせるため、ヘリまでチャーターして娘を送り届けるのだから、彼女も泣いている場合じゃない。父に迷惑をかけることなく現実のセレブ生活をありがたく享受しなければ、これから先、生きていけないかもしれないのだから。その後、父は別居中の妻に電話をかけ、泣き言をいうのだが「ボランティアでもしたら?」と言われてしまう。彼は、住んでいるホテルをチェックアウトし、荒野の一本道でモデナをキー付きのまま乗り捨てて歩き始める。

私たちの国も、震災前、リセットを求められていた。3月10日以前の日本は、長く続くデフレの中、バブルみたいな世界もなぜだか残っていて、なんだかよくわからないまま政治も停滞していた。希望的でも絶望的でもなく、ただただ世の中が疲弊していく感触。ゆたかさが行き詰まり、すべてが少しずつ余り、大きな志を持ちにくい中で、大地震と津波と原発の問題が起きた。かつてない悲劇に国中が包まれながらも、一挙にあらゆる需要が生まれたのだ。これを何とかいい方向に持っていくしか道はないのかなと思う。たくさんの信じられない犠牲の中で、私たちはどんな夢を見ればいいのだろう。

2011-04-11

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『ボウリング・フォー・コロンバイン』 マイケル・ムーア(監督) /

国家にもメディアにもこの映画にも洗脳されないために。

上映終了後に拍手が沸き起こった。映画祭などを除けば久々の体験だ。

1999年4月20日、コロンバイン高校の2人の生徒が図書室で銃を乱射。学生12人と教員1人の命を奪い、23人に重症を負わせた後、自殺した。2人はマリリン・マンソンに心酔し、事件当日の朝はボウリングをやっていた。

こんなアメリカに誰がした?…暴力的なテレビゲーム?アニメ?ハリウッド映画?…殺戮の歴史?貧困?不況?…家庭崩壊?マリリン・マンソン?ボウリング?

監督は、同級生や街の人々に話を聞き、事件の本質に迫ってゆく。絵にならない事件は報道できないという番組のプロデューサーや、銃社会を過激に擁護する全米ライフル協会の会長のもとに出向き、改善や謝罪を要求する。弾丸を無制限に売るKマートには被害者とともに乗り込み、具体的な成果をあげる。

米国がおこなってきた殺戮の歴史映像のバックに流れるのは、ルイ・アームストロングの「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。このミスマッチな組合せが、実はちっともミスマッチでないことに唖然とする。殺戮の歴史は、米国にとって悲劇でも怒りでもギャグでもない。マジな日常の積み重ねなのだ。

タランティーノのポップな身軽さと、原一男の執拗さを兼ね備えたパワフルで説得力のある映画。現実に鋭く切り込みながら、プロパガンダ的な押し付けがましさがなく、リベラルな視点をもっている。そして私たちはメディアの責任を実感する。日々、視聴率と時間に追われるTV報道がいかに一面的であるか。もう少し足をのばせば、もう少し調べれば、もう少し人々の声に耳を傾ければ、圧倒的に広い視野が開けるのに。

こういう映画が大ヒットするアメリカには、まだ救いがある。だが、今までどうしてなかったのか、どうして他にないのかとも思う。この映画の視点だって、ある意味で個人的な偏見に過ぎないのだから。これ1本ではダメだ。

事件によりバッシングを受けたのは、ブッシュ大統領ではなくマリリン・マンソンだった。問題は銃そのものではなく、他人に対して感じる恐怖が原因なのだと彼は静かに語る。アメリカの文化は、人々を怖がらせることによって消費をかきたてる。国家とメディアが結託して洗脳の構造をつくっているのだ。

東京も、無関係ではないなと思った。日々の恐怖や孤独とどう闘っていくか?いかにして周囲にまどわされることなく強靭な精神力を保っていくか?

人は、安心のためにさまざまなものを買い、皆がいいというものをさらに買う。高額の保険に入り、セキュリティを強化し、それでもびくびくしながらすごす。やがて武器を所持し、所持しているだけでは安心できなくなる。武器や宝物を所持することで、ますますおびえ、家の鍵を増やさなくてはならない。

銃の所持率が高く失業率も高いカナダで、なぜ殺戮事件が少ないのか。
問題解決のためのヒントが、そこにある。

*2002年 カナダ
カンヌ国際映画祭55周年記念特別賞受賞
*恵比寿ガーデンシネマ、札幌シアターキノで上映中

2003-02-04

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