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『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文學界8月号

W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな”国”があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don’t cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」

2002-07-09

『人のセックスを笑うな』 山崎ナオコーラ / 河出書房新社

田中康夫を嫉妬させ、高橋源一郎を楽しませた文藝賞受賞作。

「ユリは睫毛のかわいい女だ。それから目じりのシワもかわいい。なにせオレより二十歳年上なので、シワなんてものもあったのだ。あの、笑ったときにできるシワはかわいかったな。手を伸ばして触ると、指先に楽しさが移るようだった」

「恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ」

一見美しくないものが、本当は美しかったりする ― というようなことは、恋愛をしてみなければわからないことだ。そう。どんな恋愛も美しくなんてない。不器用で見るに耐えない感じ。だけど、そのことを神の視点から「笑うな」とクギをさした小説があっただろうか。ひたすら長く続いた「(笑)」の時代がようやく終わり、「(笑うな)」の時代がやってきたのかもしれない。

女は、ある程度美しくなければ恋愛できないかのように思われているふしがあるが、実際に縁遠いのは、賢くてセンスのいい女に決まってる。

だって賢かったら、恋愛なんて怒りの連続だろうし、センスが研ぎ澄まされていたら、ふさわしい相手なんて見つからないだろう。だから女は、あか抜けない原石のうちに恋をするべきなのだ。

美術教師のユリは、いい年なのにトウがたっていない。「ほとんどの絵を褒めて、厳しい批評はしない。的確なアドバイスもしない」わけだし、肌の手入れもしないわけだし、家も散らかっているわけだし、自己中心的なわけだし。こういう女は、料理上手な夫を持ちながら、20歳も年下の「オレ」と恋におちる。いくつになっても少女のような恋愛ができてしまうのだ。

なのに、そんなユリがオレから離れていく。彼女もしたたかなのだ、という空気が悲しい。ユリのような女も、洗練されたり、向上したりしてしまうのだろうか。

一方の「オレ」は、誰のことも憎んだりしない。ユリの夫にも、友達の彼女にも、好意を抱く。つまり、あやふやなのだ。そして、そのあやふやな優しさゆえに、どんな女も受け入れ、愛することができるのだ。もしかすると、すべての男は「オレ」みたいな感じなんじゃないだろうか? この小説は、男を癒す小説だと思う。山崎ナオコーラは、わかっているのだ。女の残酷さと男の優しさという美しい構図が、世界を支配していることを。

ふざけたタイトルやペンネームとは裏腹の、生真面目な手ざわり。誰も憎まれず、誰もダメにはならないこの小説は、ただひたすら、微妙な痛みに貫かれている。つまりそれは、幸福な人生なのだと思う。

この手ざわりは、忘れられない。

2004-12-09

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『別れの夏(離婚独占手記)』 室井佑月 / 婦人公論No.1093(10/7号)

恋愛と戦争。

「4年周期説」で恋愛を分析したのは、ヘレン・E・フィッシャーだ。(「愛はなぜ終わるのか」草思社)

室井佑月高橋源一郎の場合、同棲・結婚生活は3年で終わった。この手記を読む限りでは、室井は「大変だったのね」と共感されるだろうし、高橋は「そのくらい破綻してなきゃね」と納得されるだろう。事の顛末はこんな感じ。
・息子の病気で出張先に連絡しようとしたら、領収書や女のスリーサイズが書かれた紙が出てきた。
・某ホテルにいた彼は「よかった、バレて」といった。
・複数の女がいて、英国旅行をしたり高級温泉旅館で豪遊していた。
・月に三百万円ほど稼ぐ彼は、月末ごとに百万円近くを彼女に無心し、息子の定期預金まで解約した。
・息子の緊急入院の件で連絡したら「自分もピンチなのに、人のことかまってられるか」と電話を切った。
・離婚調停で「息子と会えなくてもいい」と言った。

一時は彼に殺意を抱くものの「あたしの人生のテーマは『永遠の愛探し』」というオチ。彼女はまた同じことを繰り返すのか?

もともと、彼の結婚が4度めで、子供も2人いることを承知の上での結婚だ。永遠の愛を手に入れるには、永遠の愛を志向する男を好きになるべきだと思うが、彼が「浮気」をやめられないように、彼女が「浮気系の男を好きになること」をやめるのも難しいだろう。

「永遠の愛がほしい」「浮気系の男が好き」、この矛盾するふたつの概念を揚棄(アウフヘーベン)するためには、浮気系の男の中にも必ずある「永遠の要素」について、ほかの誰よりも理解し、愛していればいいのではないか。そうすれば、永遠の愛という概念を捨象する必要もない。

一方、「60年周期説」で今回の戦争を予言したのは、柄谷行人だ。

「これは予言ではない」(web critique 9/16)という一文で「私は世界経済・政治の構造論的反復性について語ったにすぎない」と断った上で、柄谷行人はこう続ける。

「イスラム原理主義は、資本と国家を『否定』する革命運動であって、現在の世界資本主義の中から、そして、それに対抗する運動の無能さ・愚劣さから生まれてきたものだ。それは、第三世界の『絶望』の産物である。このような運動によって、資本と国家を揚棄することはできないことは自明である。しかし、いかに空しいものであれ、これを滅ぼすことはできない。これを生み出す現実を『揚棄』しない限りは。アメリカは最も恐るべき相手と『戦争』- 戦争は国家と国家の間において存在するのだから、これは戦争ではない – を始めるのだ。当然、この『戦争』に勝者はない。国家と資本は自ら墓穴を掘るだけである」

湾岸戦争後、柄谷行人は「戦前の思考」(文芸春秋社1994)の中で、ものを考えるためには極端なケースから出発しなければならないと述べている。実際に戦争があろうとあるまいと、自分を「戦前」において考えること。経済学を恐慌から考え、心理学を精神病から考え、法や国家を戦争から考えることで、ノーマルな状態の曖昧さや脆弱さがわかるのだ。どんな解決も欺瞞でしかありえないことを示した彼は「私は悲観論者ではない、ただ、認識すること以外にオプティミズムはありえないと考えている」という。

「戦前の思考」は、まさに今読まれるにふさわしい本だが、既に当人は1999年より「戦後の思想」について考えている。われわれは、第二次大戦の、あの愚劣な「戦後」をこそ反復してはならないのであると。国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめ、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを、彼は私たちに勧めたいという。

2001-09-27

『ラブ ゴーゴー』 室井佑月 / 文春ネスコ

可愛い女は、ゲームの途中。

室井佑月。ミスコン荒らしとして知られ、レースクイーン、売れないタレント、銀座ホステス等を経て、現在は小説家。高橋源一郎と不倫の末、彼の4番目の妻になった女。愛嬌のある美人で、胸には200ccくらいの生理食塩水が入っている・・・

作家である前に女であり、文才よりも前にキャラがきわだつノリノリエッセイ集。客を自分のファンにすべく奮闘したホステス時代の話や、陰毛で始まり陰毛に終わったというレースクイーン時代の話、二人目の子づくりのためにどんなふうにセックスしているのかという現在進行形の話まで、まさに、あけっぴろげのネタ人生。不倫からスタートし、「妻」となり「作家」となり「母」となった女の、絵に描いたような一発逆転劇だが、彼女はそれらの肩書きに安住していない。見栄や妥協を指向しない彼女にとって、人生は、いつまでもゲームの途中。女を売りにしているというよりは、天真爛漫な性格がむきだしになっているというニュアンスが強く、何を書いても嫌味がない。

たとえば男の浮気に対して、彼女はたいそう厳しい。「あたしとセックスしてそのことを『浮気』という言葉で片づける男がいたら、あたしはその男を殺す」とタンカを切り、「浮気を悟ったら、やっぱり別れる。女を磨いて出直す方が早いもの」と潔い。腹いせに別の男と遊んだりしてますますドツボにはまってしまうようなナイーブな女たちは、「室井流恋愛指南」を読んで元気を出すべきだろう。彼女は決して二股をかけたりしない。好きな男がいれば、そいつを完璧に振り向かせるために捨て身でがんばり、だめなら次へいく。実にシンプルで正しい。

コンプレックス抜きに、女の舞台裏をあっけらかんと語れる才能は、デフレの世の中に活力と希望をもたらすにちがいない(ほんとか?)。陰鬱な読み物が面白くないという意味では全くないけれど、現実の女として魅力的なのは、やっぱりこういうヤツなんだろうなーって、おやじみたいな感想をつぶやいてしまうわけです。

最後のエッセイ(「婦人公論」掲載)は、かなりマジ入ってる。出産した彼女は、田舎にいる母と行方不明だった父を自宅に呼び寄せ、笑いいっぱいの5人家族となる。赤ん坊のおかげで両親まで幸せになっちゃうのだ。しかし、この幸せは、不倫からはじまり、たくさんの人に迷惑をかけた結果であることを彼女は忘れない。だからこそ、馬鹿みたいに明るい家庭が必要なのだという。何人も子供をつくって、もっと笑いたいという。結婚前は、互いの寂しさを埋めるためのセックスだったのが、今は毎日をもっと楽しくするためのセックスなのだという。

ものすごく健全だ。いい話だ。よかったじゃないか。でも、そこまでにしておいて。結論は出さないで。お願い! 彼女には、いつまでも、ラブゴーゴーな可愛い女でいてほしいから。説教くさいおばさんにだけは、なってほしくないと思うから。

2001-04-20

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