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『母は松田聖子、私は女優14歳』 SAYAKA / 文芸春秋10月号

14歳の文章に学ぶ。

日曜の深夜、セブンイレブンで月曜売りの文芸春秋を見つけた。 コンビニに文芸春秋? なんか、似合わない感じ。目次を見ると、松田聖子の一人娘、SAYAKAの文章が掲載されていた。

彼女が主演し、カンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞した「BEAN CAKE(おはぎ)」のこと、ロスの日本人学校のこと、オーディションを受けた理由、撮影中のエピソード、CMデビューの話などが7ページにわたって綴られる。母親については、超素敵で超カッコいい、何でも話せてわかりあえる親友のようなママであると大絶賛。オーディションの際も、親身に協力してくれた母だが、演技指導は一言もなかったという。

「私が松田聖子の娘として生きているぶん、母が作りあげた”SAYAKA”にしたくなかったのではないかと思う」
「母をただ外から眺めているだけでも、芸能界で仕事をしていくことの大変さが伝わってくる。外側から見える華やかさ、そして内側に秘めている地道に続けて来た数々の努力、沢山のつらいこと。何か少しでも動けば、それが全国の人に知れ渡ってしまうプライバシーのなさ」
「おそらく母は、芸能界に入って、普通に暮らしていればしなくても良い苦労や痛みを私に経験させたくなかったんだと思う。デビューした今、母に守られていると実感する」

この文が、純粋に彼女によって書かれたものであるなら、彼女は母親以上に周囲に気を遣い、愛想をふりまくことのできる天性の「ぶりっこ」なのかもしれない。文末にしばしば使われる(←笑)という記号にも、それが現れていると思った。 私は、メールなどで(笑)を使わないで済ませる方法をいつも考えているのだが、うまくいかない。代案として(←笑)はちょっと新鮮だ。矢印を入れることで、文章と距離ができるような気がする。しばらく(←笑)を使ってみようかな。そうすれば、(笑)もそのうち自然にやめられるかもしれない。

中学生の女の子が発する生の言葉といえば、「ラヴ&ファイト」(新潮社)だろう。雑誌「ニコラ」の読者ページに寄せられた手紙を編集した本で、「我マンしちゃ×だよ!!がんばれ→」というような勢いのある文章が並び、彼女たちの悩みの純粋さと、それに対する励ましの一途さが、ダイレクトに胸を打つ。

たとえば、クラスの男の子に更衣室で乱暴され、それを訴えた友人達にも裏切られ、親にもいえず、先生も聞いてくれないという14歳の「HELP ME」さんの悲痛な叫び。そして、それにこたえるいくつもの手紙がある。そのひとつである14歳の「ドラえもん」さんの言葉。

「ひどい!ひどすぎるよ。それにクラスの人もひどい事言うんですね!キズついたのは『HELP ME』さんでしょ?だったらなぐさめたり、もし知ってても知らないフリをしてあげるべきだと思います。でも、死んじゃだめ!私も昔何度も思った。でも悪いのは、あなたじゃない!E君でしょ!!だからだめ!それからその学校の先生!相談に乗ってあげてよ!なんで聞いてあげないの?それでも先生なんですか?もうこうなったらきちんと親に話して、校長先生やPTAの人などにうったえて、なんとかしてもらおう!このままじゃなにも変わらないと思うよ!Fight!!」

SAYAKAに学び、ドラえもんに励まされる。いろんな14歳がいるなと思う。

2001-09-11

『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

②使わないという選択肢。

(つづき)

インターネットは「すごく便利」だと思うが「すごくいい」と思ったことは、まだない。すごくいいものは現実の世界にある。私たちは、携帯やパソコンなしで十分に楽しく生きていけるのだ。私はインターネットのおかげで本屋に行く回数が減り、ある友達とは会わなくなった。これは便利だが豊かだろうか。NTTの知人は大量に届く社内メールを通勤電車内で閲覧せねばならず、本が全く読めなくなったという。(本書を見せたら「買う!」とメモしていたけど読む時間があるのかな?)

この本は理想論だと思う。参加型社会とそれをサポートする企業。いい面に光をあてたインターネット社会とは、確かにこのようなものかもしれない。著者はロッキングオンにライターの連絡先を公開するような仕組みをつくり、最初の単行本から自分の連絡先を入れているという。70年代から既に同じことをやっていたのだ。地位や名声やお金がモチベーションの人はころころ変わるが、著者のモチベーションは「好きだから」なのだろう。愛の人はずっと愛なのだ。

だが、現状のインターネットは、個人の無限の自由というイメージとは程遠く、私たちは画一化されている。皆、同じような姿勢で、同じようなパソコンに向かい、同じようなOSを使い、同じようなプロバイダーを通してつながっている。携帯メールだって、決められた記号を使った8文字詰めの短文。頻繁にやりとりしてるのに彼の気持ちがわからないと友人がいう。当たり前だ。私も友人からのメールをジャンクメールと間違えて消しそうになった。外を歩けば、携帯の画面をみんなが見ている。私も見ている。ジャンクメールの受信にまで課金されているそうで、気がつけばドコモに毎月2万円以上も支払っている。小学校からパソコン教育がおこなわれ、同じような顔の子がふえている。既得権ビジネスは衰退した分野もあるが、新しく誕生した分野も多く、結局のところ、私たちはガチガチに取り込まれている。そんな中から抜け出したいという苛立ちが、暴力に結びつかないと言い切れるだろうか。

著者はいう。「研ぎ澄まされた孤高の表現よりも、とりとめのない雑談が好きだ。射貫くような理念の視線よりも、のんびりと柔らかい笑顔が好きだ。顔が見えて体温を感じられる範囲での関係を大事にしていきたい。僕のイメージする『参加型社会』というのは、そうしたミニコミ的な世界がミルクレープのように重なってできる世界である」。 私はどうだろう? とりとめのない雑談は大好きだし、体温を感じられる範囲での関係を大事にしたいと強く思う。だけど「研ぎ澄まされた孤高の表現」や「射貫くような理念の視線」も雑談や笑顔以上に愛している。「参加」という言葉に、つい拒否反応を示してしまうのは、世の中が一律になってほしくないから。インターネットという道具の使い方に関しては、使わないという選択肢も含めて自由でありたい。

1954年より、映画というジャンルを超越した独自の作品を孤高に撮り続けている「世界一ポップなアンチテーゼおやじ」ジャン=リュック・ゴダールは、今年のカンヌ映画祭でこんなことを言ったそう。
「インターネット文明なんて、全く信じていないし、僕には分からない。Eメールって、なんなのかも知らない。そんなのがどうして必要なのだろう? 暴力があふれている現代、僕は自分の映画『エロージュ・ドゥ・ラムール』の中で、こういう時代はなにかを外に向かって探しにいくより、自分の内面に問いかける方が重要なのだということを訴えたかった」
(FIGARO japan 7/5号より)

*著者からメッセージをいただきました。THANK YOU!

2001-06-25

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『ブラックボード ―背負う人―』 サミラ・マフマルバフ(監督) /

テアトル池袋は、飲食店になっちゃうのか?

黒板を背負い、イランの険しい山道を歩く教師たち。学校が爆撃されたため、彼らは生徒を求め、読み書きや算数を教えるべく教師のいない村を回っている―
宣教師のような男たちの姿が絵になりすぎており、当初はいささか鼻についた。 イランには実際にそんな教師がいるのだろうか? 生徒がたくさんいるわけでもないのに一人ずつが重い黒板を背負う必要があるだろうか? と。

教師の一人は、密輸物質を背負う「運び屋」の少年たちと出会うが(彼らの表情はとても魅力的だ)、「勉強なんて必要ない」「早く道をあけてくれ」と拒否される。一緒に歩くうちに「読み書きを教えてくれ」という少年が出てくるものの、自分の名を黒板に書けるようになった瞬間、少年は銃弾に倒れてしまう。

もう一人の教師は、イラクに帰る途中のクルド人の集団と出会う。子連れの未亡人に惹かれた教師は、路上で結婚式をあげてもらうが、彼女は勉強しようとせず、夫となった教師を無視するのである(この女性の不思議な雰囲気も妙に気になる)。国境で二人は離婚し、彼女は黒板を「物」として受け取って歩き出す。そこには、彼が伝えようとした愛のメッセージが書かれているが、彼女は永遠に読むことができないだろう。

どちらの結末も救いがない。黒板は生活の小道具、すなわち映画的な小道具として役立つばかりだ。だが、この映画は黒板という「絵になるシンボル」のあざとさによってフィクション性を強調しているのだと考えると、解釈は少し変わってくる。集団の状況を象徴するメッセージボードとしての黒板は、学ぼうとする者がいる時には意味のある文字が書かれ、そうでない時には文字は消され、非常事態には単なる板として役立つ―

読むことのできない愛のメッセージを背負う女のうしろ姿は、「学ぶことは拒否したが、気持ちは受け取った」ということなのだ。黒板を背負った時点で、彼女はその意味を背負い、多くの人がその文字を見るだろう。愛を意味する美しい文字は、そうやって広まっていく。意味がわからぬままメッセージは受け継がれていくのである。

同じことが、自分の名を書いた瞬間に死んでしまう少年にもいえる。少年の渾身の筆跡を、多くの別の少年たちが目にするだろう。

息子からの手紙を読んでくれと老人に頼まれ、教師が読んでやるシーンがある。何語かもわからないのに、教師は適当に意味を伝え、老人を安心させるのである。「ひどい」ともいえるし、「そんなもんだ」とも思えるが、老人が息子からの手紙を大事にもっているというだけで、手紙の役割は半分くらい果たされているといっていい。メッセージとは、「意味」よりも前に「気持ち」なのだと信じたい。別れも死もムダにならないほど、読み書きという行為は重要なのだ。

いい映画を見たんだな、と数日後にようやく思えた。この手の映画は、地味だけど長く記憶に残り、熟成し、数年後に必ずまた見たくなる。この映画はイランの20歳の女性が撮った作品だが、そのころ彼女はどんな映画を撮っているだろう。

アジア系の映画を中心に公開しているテアトル池袋での単館上映。カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、オフィス北野も出資している作品だが、客席はガラガラだった。西武系資本のテアトル池袋は、このままでは近日中に飲食店になってしまうという噂だ。いい映画館なのになあ。2年前には正面にセゾン美術館があったっけなあ・・・・・。

てっとり早く楽しめる映画や、てっとり早く稼げるビジネスばかりが生き残っていく状況は、ちょっとつらい。

*2000年 イラン映画/テアトル池袋で公開中

2001-04-10

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