「カンヌ映画祭」の検索結果

『ゴダール・ソシアリスム』 ジャン=リュック・ゴダール(監督)

BE動詞を使いたくないゴダール。

今年80歳になるゴダールの6年ぶりの長編劇映画。だけどこれ、カンヌ映画祭で上映され話題になったというのに「合衆国はいうまでもなく、ヨーロッパの国々でさえほとんど一般公開されるあてのない作品」(by 蓮實重彦)というから驚く。つまり、日本は世界でも有数の「ゴダール大好き国」なのだ。
ゴダールもまた日本が好きなはず。だって今回も日本車(SUZUKI)がメインに登場するし、「カミカゼは日本語で神の風という意味だ」「知ってる」なんていう祖父と孫娘の会話もある。いつもお洒落にキメてくれるラストも楽しみのひとつだが、この映画の最後の言葉は、日本の政治家からの引用ではないかと思うくらい。

映画の冒頭では、書籍、映画、音楽の膨大な引用元がクレジットとして表示される。元ネタは何か?ということばかりがマニアックに議論されるのは、もううんざりなんだろうな。これこそが、古今東西の表現を共有財産にしようというゴダールのソシアリスム(社会主義)なのか。予告編もすごい。1分半くらいで全編を超高速で見せちゃうんだから、これまでにない開き直りというかサービス精神だ。
前作「アワーミュージック」と同様のわかりやすい3部構成。第1部はエジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリを経由しバルセロナへと向かう豪華客船が舞台。第3部もまた、同じ順に人類の歴史をたどる。「ヨーロッパはどこへ行くのか?」という強烈なメッセージが全編を貫いているのだが、ソシアリスムよりもキャピタリズムというタイトルにしたほうが観客は増えただろう。

ゴダールの新作に新鮮さを感じたのは久しぶりだ。全編HDカムでの撮影。しかも第1部は、豪華客船と荒れ狂う海。なんだか大規模なのである。だがその表現は、より若く、力強くなっていた。美しく撮ればオリヴェイラ「永遠の語らい」「リスボン」アモス・ギタイの「オレンジ」にそっくりな映画になってしまっただろうから、洗練とは逆のベクトルを選択したのは大正解。井上嗣也によるコムデギャルソンの仕事を思わせる、最前線のグラフィック・デザイン映画だ。
今回の表現の目玉は、圧倒的なノイズ。デッキ上の風と波の音、ダンスホールの大音響など、ひずみや割れがこれでもかと強調される。そして、失敗した写真のように焦点のあわない荒れた映像。プールもカジノもある豪華客船が、ちっとも豪華に見えないのが面白い。ギターを手にしたパティ・スミス本人(!)がアメリカ人代表のように登場し、船室内はもちろん、エレベーター・ホールを歩きながら歌っちゃってるんだから爆笑です。こんな豪華客船、乗りたくないってば。

南仏でガソリンスタンドを営む一家を描いた第2部が、最もゴダールらしくて安心する。女優、ファッション、クルマ、その辺はもう「勝手にしやがれ」の頃から変わらないセンスのよさで。給油スタンドにもたれ、サングラス+ストライプのワンピース(欲しい!)姿でバルザックの『幻滅』を読むフロリーヌなんて、VOGUEの1ページのよう。彼女の傍らにはラマがいる。動物たちの無垢な表情と「無言」も、今回の作品のポイントだ。

BE動詞を使うなというメッセージが、しつこく繰り返される。
「BE動詞を使う人と話してはダメよ」
「BE動詞は使わないで」
「ほら、BE動詞ではフランスは動かない」
「BE動詞は、現実の欠如を明らかにするだけ。たとえば、もうすぐ私たちはバルセロナに『いる』…。むしろ、バルセロナが私たちを『歓待する』の方がいい」

たしかに、状態を表すBE動詞だけでは、私たちはどこへも行けない。
ツイッターで「なう」とかつぶやいている場合じゃないかも。

2010-12-26

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『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。

これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)

*2005年アメリカ映画
カンヌ映画祭 グランプリ受賞

2006-05-12

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『下妻物語』 嶽本野ばら(原作)・中島哲也(監督) / 

下妻が世界とつながっている理由、もしくは「ジャージ」と「お洒落なジャージ」の違いについて。 

茨城県・下妻を舞台にした映画が、世界で公開される。
カンヌ映画祭のマーケット試写会にて「カミカゼ・ガールズ」という英訳で上映されたところオファーが殺到し、米国、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダ、ベルギー、チェコ、中国、韓国、タイなどで上映が決まったという。

下妻ってどこよ? ヤンキーとロリータの友情? 極端すぎて、どこにも共感できるスキなんてないじゃん。予告編を見てそう思った私は浅はかだった。

世界の共感を得るのは、グローバリズムなどではなくローカリズムに決まってる。中島哲也監督はサッポロ黒ラベルの温泉卓球編などで知られるCMディレクターであるからして、絵づくりがいちいち決まっているし、編集やCGにも妥協がない。土屋アンナの体当たり演技は、それだけでヤンキー精神全開…時々お仕事でご一緒する機会があるけれど、こんなに姉御肌でカッコイイ20歳女子を私はほかに知りません。

下妻物語は、優れたファッション・マーケティング映画でもある。深田恭子演じるロリータの桃子と土屋アンナ演じるヤンキーのイチゴという両極な二人だが、お洒落に没頭する女の子の気持ちを的確に言い当てている。代官山を舞台にフツーの流行を見せたって、説得力のあるファッション映画は撮れないだろう。桃子の住む下妻には巨大なジャスコがあるのに、どうして休みのたびに何時間もかけて代官山まで来てロリロリのお洋服を買わなきゃなんないのか。そもそも桃子はどんな家に育ち、どういう経緯で下妻に住み、いかにロココの精神を身にまとうに至ったのか。ファッションを語るには、ここんとこが最も重要なのだ。

しかもこの2人、スジが通っていてかっこいい。互いに信念を持っているからこそ、見た目の違い、主義の違いを超えて認め合える。友だちって必要なのか? 学校って行くべきなのか? 仕事ってするべきなのか? 借りって返すべきなのか? ほんと、ためになる映画だけど、もちろん現実にはこんなスジの通った女子高校生など存在しないはず。2人の生き方は、原作者、嶽本野ばら氏の「ハードボイルドじゃなきゃ乙女じゃない」という美学のイコンなのである。

「人のものでも好きならば取ってしまえば良いのです。どんな反則技を使おうと、狙った獲物は手に入れなければなりません。我儘は乙女の天敵です。自分さえ幸せになればいいじゃん」

「酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない、甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです」

「こいつは、何時も一人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きてやがるんだよ。群れなきゃ歩くことも出来ないあんたらと、格が違うんだよ」

「心の痛みを紛らわす安易な手段を憶えてしまったら、きっと人は何か大切なものを損なってしまうのです」

原作には、桃子とイチゴを橋渡しするブランドとして、HONDAとのWネームを展開しているシンイチロウ・アラカワの服が出てくる。「ヤンキーのままでもいいから、少しはイチゴをお洒落にしたい。本人も気付かぬうちに、私好みにカスタムしていきたい」というのが桃子の思惑なのだ。

私は、ロリ服も特攻服も着たことがないしHONDAのバイクにも今のところ乗っていないけど、シンイチロウ・アラカワは好きだ。ここの服を着てると「HONDAの仕事してんの?それってノベルティ?」と言われがちなのが難点ですが、乙女のカリスマなんていわれる嶽本野ばら氏に自分が影響され、カスタマイズされそうになる理由がようやくわかった気が…。

2004-07-13

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『D.I.』 エリア・スレイマン(監督) /

わからない。わらえない。ありえない。

「パレスチナをD.I.で初めて体験するのは、生まれて初めてふぐを食べるような体験に似ているかもしれません。パレスチナには、やさしい景観があり、ちっぽけな魂があり、ほとんど透明で、見ればひと目で見渡せてしまいます。そこで生きようと思えば生きることもできるし、生きれば愛おしくもなります。そうしたいと思われる方は、ぜひどうぞ。ただし、毒にはあたらないように、お気をつけて・・・」

監督の日本へのメッセージだ。カンヌでの記者会見では、パレスチナで全部撮影できたのかと聞かれ「シューティング(撮影)は全部はできなかった。イスラエル軍がシュート(銃撃)していたからね」と答えたそう。

監督演じる男はイスラエル占領下の東エルサレムに住み、彼が愛する女はパレスチナ自治区のラマラに住む。イスラエルとラマラの間にはイスラエル軍の検問所があり、女はエルサレムに入れない。そんな2人は、検問所の駐車場の一角でデートを重ねる・・・

単純なストーリーだが、こういう状況にリアリティを感じるのは無理だ。ラマラってどこよ?検問所って何よ?っていうか、誰がパレスチナ人で誰がイスラエル人なわけ?

映画で描かれるパレスチナの日常は、同じことの不毛な繰り返しだ。穴を掘ったり、壁をこわしたり、ゴミを他人の家に捨てたり、ひたすら掃除したり。サッカー少年の蹴るボールはズダズタにして返され、それを無表情で見守る人がいる。こわれればつくり直し、やられたらやり返し、家に火をつけられれば淡々と消火作業をする。主役の男女は、最後までひとこともしゃべらない。

こんな調子だから、悩殺美女やアラファト議長の顔が描かれた風船が検問をあっさり突破するシーンは爽快だし、パレスチナの女忍者がイスラエルの兵士たちと戦うスペクタルシーンには大爆笑!とまとめたいところではある。実際、パレスチナでの上映では大受けだったそうだし。だけど、これらのユーモアはあまりにも正当派すぎて、平和な国の成熟した(弛緩した)ギャグに慣れてしまった部外者の私には笑えない。

男がアンズをかじり、種をクルマから捨てると路肩の戦車が爆発するが、種を捨てた本人はポーカーフェイスのまま。暴力に対抗する武器は、ポーカーフェイスでありアンズの種であり、風船や悩殺美女や女忍者なのだ。圧倒的に正しく懐かしいファンタジー!

私が唯一笑えたのは、夜の検問所でやりたい放題の検問をする将校の演技。イスラエルの有名タレントが演じているらしいが、支配者と被支配者の構図を骨抜きにする傑出したキャラクターだ。

「D.I.」の意味はDIVINE INTERVENTION(神の介在)。自由になるためのイマジネーションを意味するという。イマジネーションさえあれば、愛はどんな困難な壁も通過するのだろう。アカデミー賞の外国語部門は、パレスチナは国として認められないという理由で、この映画をノミネートから排除したそうだけど。

選曲のセンスのよさは驚きで、世界的なトレンドの気分を反映しながらも新鮮。
美女や風船のように、音楽は国境をさらっと突破してしまうのだ。

*2002年 仏・パレスチナ合作パレスチナ映画
カンヌ映画祭審査員賞受賞
*渋谷・ユーロスペースで上映中

2003-06-02

『息子の部屋』 ナンニ・モレッティ(監督) /

大切なものを失ったとき、もう一度こわすべきもの。

『息子の部屋』 ナンニ・モレッティのイメージ、moretti

監督自身が演じる父親は、いささか「出すぎ」の感が否めない。だけど、彼がいかに妻と娘と息子を愛し、いかに幸せな家庭を守ろうとしているかが伝わるから好感度は高い。無駄なショットや大袈裟なショットもなく、自然なエピソードの積み重ねで、4人の関係がさらっと浮き彫りになる。子供たちにとっても、両親に鬱陶しさや反発を感じる一歩手前の時期なのだろう。これは、父親という役割の黄金期と、その終わり方を描いた映画だと思う。

良くも悪くもこの家族は理想的すぎる。夫婦仲もよく、娘と息子はとても素直で、私がイメージする普通の家族像、ティーンエイジャー像とはかけ離れている。息子の学校で起こる万引き騒動が家族を心配させるが、内容は牧歌的。だが、この事件が、息子の死という悲劇のイントロダクションとなる。

息子の死後、精神分析医の父親は「日曜の往診をやめていれば息子は生きていたかも」と後悔するが、家族で過ごす時間を増やせば悲劇を防げたのか? いや、むしろ、これまで過保護すぎたことが死の原因になったと考えたほうが自然ではないだろうか。遅かれ早かれ息子は独立していくのであり、彼は、彼自身の人間関係の中で死んだのだ。もしも私が彼の友達なら、彼の死は彼のせいだと思いたい。誰かのせいで死んだなんて思いたくない。自業自得!バカなやつ!と思っていたい。

実際、息子には家族の知らない秘密があった。息子のガールフレンドが訪ねてくるところから、この映画は動き出す。彼女は悲嘆にくれる家族に普通の空気を届けにくるのだ!といえば聞こえはいいが、要は、父親が築いてきた保守的な家族の幻想をくずしにくる役回りといっていい。息子の死によって幻想はいったんこわれるが、父親はその本当の意味に気付かない。だからもう一度、外部からこわしにくる人間が必要で、それが息子のガールフレンドなのである。つまり、この家族は2度こわれる。1度めは悲劇だが、2度めは希望だ。息子はいつまでも子供じゃない。

息子のガールフレンドは、両親にとっては規格外の「よその子」である。彼女は一緒に悲しんだりしないし、今日は家に泊まっていけという申し出に、ある種の肩透かしをくわせる。だけど、最終的には「いい子」と認識される。この家族は期せずして、息子の新しい物語とその先を垣間見ることができたのだ。

私自身も、男友達の死後、この映画によく似た理由とタイミングで彼の実家を訪ねたことがある。 東京から来た私を、ご両親は、予想よりもはるかに元気そうに迎えてくれた。息子と結婚するかもしれなかった女と思われたんだろうねと別の友人は言うが、もしそうなら、この映画と同様、私は彼らに肩透かしをくわせてしまったことになる。

そのことが、この映画のような希望につながったかどうかは全くわからないけれど、あの日、いつまでも手を振ってくれた彼のお母さんの姿が、ラストシーンに重なった。

*2001年 イタリア映画/全国で上映中
カンヌ映画祭パルムドール賞受賞

2002-01-31

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