「ファッション」の検索結果

『恋人のいる時間』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

変身の後ろめたさと快楽。

歩いている時や乗り物に乗っている時は、誰にも会いたくないなと思う。
移動中はぼーっとしていたいし匿名な自分でいたい。そんな無防備状態の時、いきなり声をかけられようものなら、悪いことなどしていなくても後ろめたさを感じてしまう。

路上の勧誘に対しては「完全無視」を決めているが、数年前から、すれ違いざまに「あれー?」と大げさに反応し「ばったり出会った知人」を装うという巧妙な手口が出現した。このように驚かれると、私はつい振り返ってしまうのだが、その後は「額に変わり目の相が出ていますよ」などと言われてしまうのだから拍子抜け。彼らが何を売ろうとしているのかは知らないけれど、先週も、青山通りで2人に引っかかってしまい、そのたびに「知り合いか?」と緊張してしまう私は、とても悔しい。

そういう意味では、タクシーという乗り物は個室に近く安心感が高い。だが、同じ場所で乗ることを繰り返していると同じ運転手に当たってしまうこともしばしばで、こちらが口を開く前から「3つめの交差点を右ですね」などと言われてしまうのだから油断は禁物だ。

この映画は、ある女の2日間の行動を追跡する。
彼女は愛人とアパートで愛し合い、オープンカーの助手席に乗り、タクシーに乗り換え、幼い息子を拾い、飛行場で夫を迎え、家に帰り、夫と話をし、子供を寝かせ、風呂に入り、客と夕食をとり、夫とレコードを聴き、愛し合い、昼ごろ起き、メイドと話をし、モデル撮影を見学し、カフェで過ごし、産婦人科医へ行き、タクシーに乗り、空港の映画館で再び愛人と会い、ホテルで愛し合う。

すべての断片が、ポストカードにして持ち帰りたいほど完成されている。ラウル・クタールのカメラは、どうしてこれほどセンスがいいのだろうか。部屋の中のシーンが多いが、印象に残るのは、むしろ、それらをつなぐ移動のシーン。移動時間というのは、自分の役割をひそかにスイッチするための神聖な時間なのではないかと思う。だから人は、仕事に行く時も、得意先へ行く時も、家へ帰る時も、飲みに行く時も、なるべくならそっとしておいてほしいのでは?変身にはただでさえ緊張感や後ろめたさが伴うものだから、そのプロセスを知人に見つかるとドキっとしちゃうのである。

興信所の尾行を撒こうとしている彼女の場合、その後ろめたさは本物だ。愛人のオープンカーに乗る時は外から見えないような体勢をとるし(チャーミング!)、タクシーだって何度も乗り換える。飛行場に夫を迎えに行くシーンでは、画面がふいに90度傾くが、この浮遊感・不安感は衝撃的だ。彼女を乗せたタクシーの走行と、夫が操縦する小型飛行機の着陸とが瞬間的に交差し、彼女の役割の転換(愛人から妻へ)と夫の役割の転換(パイロットから夫へ)が、不自然な「ねじれ」として体感できる。

この作品の主要なモチーフは、不倫、下着、雑誌、広告、職業、乗り物など。ひとくくりにするなら「ファッション」で、これらは私たちを手軽に「どこか別の場所」へ連れていってくれる。

時間と場所と人がたまたま交錯し、人は日々、出会ったり別れたり一人になったりする。そんな偶然の中で大切なことは、美しく、かっこよく、おしゃれに生きることに尽きるのではないだろうか。そんなふうに結論づけたくなるこの映画は、まさに究極のファッション映画。悩みがある時には、映画の中の彼女がそう見えるように「美しく、かっこよく、おしゃれに悩んでいる人」を演じてみると、意外と楽しいかもしれない。

*1964年フランス映画
*シネセゾン渋谷、テアトル梅田でレイトショー上映中

2002-12-02

amazon

『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)

クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。

2001-12-22

amazon

『ノー・フューチャー(A SEX PISTOLS FILM)』 ジュリアン・テンプル(監督) /

短命を恐れないかっこよさ。

ロック史上もっともスキャンダラスで悪名高いバンド、セックス・ピストルズの未公開映像がたっぷり楽しめる映画。当時の英国のニュースフィルムやコマーシャル、コメディなどがコラージュされ、70年代という時代をシャワーのように浴び、興奮することができる。

「アナーキー ・イン・ザ・UK」のイントロが流れ、ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)や死の直前のシド・ヴィシャスの表情を見るだけで鳥肌がたつ。大人を裏切る若者の胸のすくような過激さは、時代を経ても色褪せない。

にせものだけが生きのびる、というメッセージを残し、セックス・ピストルズはわずか26か月で解散。公式発表アルバムはたった1枚。これほど短命なバンドが、パンク以降のあらゆるカルチャーシーンに影響を与えたのだ。生きのびようとあがくことの醜悪さから、私たちは逃れることができるのだろうか?

「俺たちは俺たちでいたってこと。それが後から革命だとか言われたんだ」とジョニー・ロットンは語る。自分に忠実であることがすべてと言い切れる思想は、健全で鋭い。彼らの行動やファッションをまねすることは、パンクの真の意味から遠ざかることにしかならないだろう。

次のムーブメントは、いつどこで起きるのか? 不況で鬱屈する労働者階級からセックス・ピストルズが生まれたように、不自由であることに敏感なエリアから予想外の形で炸裂するはずだ。そう考えると、不安や不満がいつまでもなくならない世の中のしくみにも、希望がもてる。

*1999年イギリス映画/シネセゾン渋谷で上映中

2000-11-25

amazon

『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

チープでリアルな殺戮と笑い。

戯曲「兵士たち」の映画化にあたり、ロッセリーニがシナリオ案をテープ録音し、ゴダールが監督した1963年の映画。冒頭に引用されるのはボルヘスの言葉だ。「進展すればするほど私は単純さに向かう・・・」

映画館へ向かう途中、iモードで上映時間を確認すると、「ミリタリーファッションの人は200円引き」とあった。たまたま「ちょっとだけミリタリーっぽい服」を着ていた私は、入り口で「この服、ミリタリー色なんですけど」と言ってみたい衝動にかられ、実際、拍子抜けするほどすんなりと200円引きで「カラビニエ」を見ることができたのだった。

この手の割引制度って、一体何なんだろう?「ノー・フューチャー」では、ギター持参なら200円引きだったし、「バッファロー’66」は赤い靴と銀の靴のカップル割引があった。「オール・アバウト・マイ・マザー」は母子割引、7月14日よりロードショーの「白夜の時を越えて」にいたっては、双子なら1人500円で見れるという。

単なるお遊びなんだろうけど、今回の「ミリタリー企画」は、アバウトさが映画の内容に妙にハマっていた。だって、監督のコメントによると、カラビニエ(カービン銃の兵士)の軍服は「帝政ロシア将校の軍帽」「イタリアの鉄道の車掌の上衣」「ユーゴのパルチザンの長靴」などの混ぜ合わせ。この作品は、現実の戦闘シーンのフィルムを引用しながらも、メインはどっかその辺の広場で撮ったという印象の、キッチュな「戦争ごっこ映画」なのだ。

「愉しみはTVの彼方に」(中央公論社)の中で、金井美恵子は言う。「『カラビニエ』を見たら、自分たちにでも映画が撮れそうだと信じる人々があらわれることに、何の不思議もない、ということがわかるだろう。カメラマンと何人かの出演者(もちろん素人でいい)と、なにより”ゴダールがいれば”、無謀にも、映画は撮れるのだ」。
「カラビニエ」と「パール・ハーバー」(見てないけど)の違いは、まるで「iモードゲーム」と「プレステ」(やったことないけど)の違いのよう。「リアリズムとは、真の事物がいかにあるかではなく、事物が真にいかにあるかということである」というゴダールの言葉は、冒頭のボルヘス的な世界観につながっている。お金をかければリアルな体裁の映画は撮れるだろうが、リアルな中身が宿るとは限らない。

徴兵される兄弟の弟が、初めて映画を見るシーンの初々しい描写はロッセリーニっぽい。彼は走ってくる機関車の映像にのけぞり、入浴する美女のバスタブを覗こうと立ち上がる。挙句の果てにバスタブに飛び込もうとしてスクリーンを引き裂いてしまうのだが、それが単なるコントで終わらない理由は、剥き出しになった壁面に映画が映り続ける様子が、リアルな驚きを含んでいるからだろう。3人の兵士が氷った川をつるつるすべりながら下るシーンにも、ばっかじゃないの!と思わず笑ってしまう。

戦争における非情な暴力をミニマルな視点で描きつつ、兵士という存在の馬鹿らしさ、情けなさ、人間らしさに迫った傑作だ。とりわけ、兄弟がセクシーな母と妹に、キッチュな「戦利品」を次々に披露するクライマックスは、そのシーン自体のキッチュさとともに忘れがたい。

ゴダールの映画らしく、当時のファッションやクルマ、2人の女優(プログレッシブ・ロックの頂点をきわめたカトリーヌ・リベイロ&2年後にエマニュエル・ベアールを産むことになるジュヌヴィエーヴ・ガレア)の魅力も楽しめる。女は意外とちゃっかりしており、男は意外と情けないという図式は、いつの時代も変わらないのか?

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2001-07-10

amazon

『贅沢は敵か』 甘糟りり子 / 新潮社

限りなく創作に近いスノビズム。

甘糟りり子のエッセイが目的で「NAVI」を読んでいたことがある。本書は1998年から2001年にかけて「NAVI」「FRaU」「BRUTUS」等に掲載されたファッションやクルマや恋愛のかけひきに関するエッセイ集。

東京のブランニューなカルチャーの中で、イケテル人とイケテナイ人の違いをクールに語らせたら、彼女の右に出る者はないだろう。ライブなファッション感覚は、中途半端な取材を通じて描けるものではない。その世界を愛し、どっぷり浸かっていなければ理解できない微妙な体感温度だと思う。大衆的な流行とは明らかに異なる特権的モードに精通する彼女は、ブランドに象徴される都会的スノビズムのめくるめく快楽と強迫観念と虚しさを均等に言葉に焼きつける。肯定も否定もない。そこには、熱にうなされるような疾走感と少しばかりの違和感があるだけ。そう、それこそが贅沢のいちばん美味しい部分なのだ。

スノビズムを辞書でひき、「流行を追う俗物根性、上品ぶったり教養のあるふりをする軽薄な生活態度」という記述に「まさに私のことじゃないか」と思う彼女。横浜で生まれ、鎌倉で育ち、「西麻布を中心にしか物事を把握できない」彼女。パーティ好きを自称し、クルマで男を選ぶと言い切り、フェラーリ 360モデナを乗り回す機会を得たときには自分の見え方をきっちり意識する彼女。その鑑識眼は、冷静で鋭くて品を失っていない。言葉の選び方が洗練されており、プライドもコンプレックスも剥き出しになっていない。スノッブについて語った文章自体がスノッブなのだから、説得力がある。

「私の商売道具は言葉と視点だ。言い換えればこれは『偏見』であり、私は『偏見』を売って金をもらっている」という一文から、彼女のエッセイは美しい偏見なのだと理解した。美しい偏見は、フィクション(創作)に近い。もちろん彼女は嘘を書いているわけではないが、彼女が感じるパークハイアット東京と私が感じるパークハイアット東京は違うし、彼女が感じるポルシェ 911と私が感じるポルシェ 911は別物だ。彼女の現実は、私にとってはフィクションなのだ。 自分がよく知っている街や風俗やさまざまな事象から、別の風景がたちのぼる面白さ。

私は、村上龍の文章を思い出した。先日のローマ対ユベントス戦で、後半14分にトッティに代わって途中出場した中田英寿が1ゴール1アシストを決めたが、村上龍は、この試合を自身のメールマガジンで思い入れたっぷりに速報していた。イタリアの歴史や食文化にまで言及したこのリポートは、実際の試合以上にドラマチックで、まさに創作と呼びたいもの。笑っちゃうほど大袈裟な記述に、内心ブラボーと叫びながら、小説家はこうでなくちゃ、と私は深くうなずいた。あの試合をテレビで見たり新聞記事を読んだりするのも楽しかったけれど、村上龍の文章には、それ以上のお得感があった。このお得感こそが、プロのフィクション(創作)の力だろう。

東京が故郷である私は、東京でしか暮らせないような気がするが、そんなある種の希薄さはコンプレックスでもある。東京で暮らしながら別の場所に故郷があり、地に足のついたストーリーをもっている人を心底うらやましいと思う。自分には東京しかないのだから、東京をいろんな視点で創作していくしかないんだろうな。この本を読んで、希薄さを疾走感でごまかしているような毎日が、愛しく思えた。

2001-05-19

amazon