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『私が描いた人は』いとうせいこう

愛する。憎む。絵を描く。

家族の写真を年賀状にするのはどうかと話題になった時代があるけれど、今は毎日それがある。インターネット上は、幸せ自慢大会で大盛況。だけど私たちは、いつだって何かを探しているから、どんなに傷ついても人とのつながりをやめない。

ゲルハルト・リヒターは言う。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」

六本木のWAKO WARKS OF ARTでリヒターの最新作「strip paintings 2012」を見た。多色の細いホリゾンタルストライプが美しい目眩を起こさせる作品群で、絵画を複雑にデジタル加工しプリントしたものという。もとの絵はリヒターが描いたのだからものすごく上手で美しい絵だったことは間違いない。それを複雑にデジタル化すると、非人間的な美しいストライプになるというわけだ。つまり美しいものは徹底的に解体しても別の意味で美しい。なんて希望的なんだ。これは、デジタルワールドのなれの果ての夢かもしれない。

人の話を聞いているのは楽しいけれど、自分の話をしているとどんどんつまらなくなっていく。その理由が昨日わかった。自分の話は知っていることばかりだから。そんな大事なことを教えてくれた人は22才。たわいない話を未知の勘でしゃべる人だった。自由なんだと思った。他人に無理に合わせようとせず、ごく自然に言葉を発し、人と会うことを楽しみながら生きている。大きな会社にこういう人はいない。いられない。健康診断を受けないと給料が下がる会社があるんだって。そういう会社のサービスってどんなものなのか。粒ぞろいで均一な笑顔が心地よいサービス?

広告代理店には変わった人がいる。携帯電話の広告やるのに携帯もってない人がいた。女の子のファッションの広告やるのに女の子のファッションに興味ないと言い放つ人がいた。そんなんでよく仕事できるなー、あるいみ贅沢だよなーって思いながら、私はそういう人とやった仕事が忘れられない。別にいいじゃん。興味なんかなくたって。現物なんかなくなって。愛なんかなくたって。情報を得すぎると似たようなものしかつくれないと、深澤直人も言っている。

今ってさあ、ソーシャルだしオープンだしフリーだし、イベントの参加もメンションでっていう時代。ていうかメンションって何。なんで宣伝しなくちゃいけないの。行けば写真もアップされちゃう。写真だめな人は前もっていっといてとかアレルギー対応みたい。私と一緒に遊んでいる人は、GPSで居場所を発信し続けている。どこで何食べてどうしたかを素敵な写真と文章とともに。その器用さはどこにつながっていくのだろう。だけど、これだけオープンな時代なのに意外な部分で閉鎖的。閉め出された人はきついんじゃないかと思う。ちっとも温かい時代じゃない。

私だってクルマに乗るとスマホをオンにする。音声付きのカーナビをスタートする。とっても便利。GPSをオンにしたまま写真を撮る。不安になる。この写真はいずれどこかで世界とつながっちゃうのかなって。

コミュニケーションがうまくできない場合は、絵が描けるといい。愛でもなく憎しみでもなく、描きたくなるような絵ってどんな絵だろう。そうやってもう、ずっと考えている小説がある。短い小説だ。「文藝2012年夏号」と「文芸ブルータス」に掲載された、いとうせいこうの『私が描いた人は』という作品。

「文藝2013年春号」のいとうせいこう特集には『想像ラジオ』という作品が掲載されていたけれど、想像にしては具体的すぎて、想像力がかきたてられない点が残念だった。みんなとつながりたい人には『想像ラジオ』がおすすめだけど、勝手に静かに想像したい人には『私が描いた人は』がおすすめだ。そろそろファッション界に戻ってくるんじゃないかと噂されているジョン・ガリアーノのように、いとうせいこうは文学の世界を賛否両論の渦でかきまぜてくれるだろう。

『私が描いた人は』は、日曜画家の「私」が「PQ」という友人の絵を7枚の連作として描く。「私」は「PQ」の何に惹かれたのか。尊敬していたのか。面白がっていたのか。男同士の友情か。よくわからない。「私」はあいまいなのだ。しかし「私」はとにかく堕天使のようなPQの思い出を宗教画のような絵画として定着させた。あいまいな人が、あいまいな思いで描きたくなる絵とはどういうものなのか。それがこの小説だ。

心が通じ合っている関係とはいえないけれど、通じ合った瞬間はあったかもしれなくて、一度は再会する。でも、もう会えないかもしれなくて、記憶だけが残る。こういう関係の決着のつけ方として、7枚の絵はちょうどいいのかもしれない。絵は、ゆるやかであいまいなモードになじむ。絵を描くとは、愛と執着のはざまの、時を隔てた遠く静かな空白地帯をうめていくような行為だと思う。相手が生きていても死んでいても、人と人は、そうやってずっとコミュニケーションできるのだろう。

物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
(ジム・ジャームッシュ「パーマネント・バケーション」)

2013-01-31

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『ル・アーヴルの靴みがき』 アキ・カウリスマキ(監督)

笑顔がない町の、幸せとは?

アキ・カウリスマキ監督は、イタリアのジェノヴァからオランダに向かって海岸沿いをドライブしていた時、北フランスの港町ル・アーヴルに出会ったという。カルヴァドスとブルース、ソウル、ロックンロールの町。
フィンランドの監督が撮る初めてのル・アーヴルは、どこでもない町だ。すべてのカットが計算された色と光と象徴的な構図から成り立っており、エドワード・ホッパーの絵のような喪失感、浮遊感に目を見はる。小さな町の日常を撮っているように見えるが、それはむしろ旅行者の視点なのだ。
監督の5年ぶりの新作は、この町から世界につながった。<少年の放浪3部作>とでも呼びたいジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」(1980)ストローブ=ユイレの「アメリカ(階級関係)」(1984)マイケル・ウィンターボトムの「イン・ディス・ワールド」(2002)などに。 

表現をそぎおとすことで、真実が浮かび上がる。ドキュメンタリーとは逆の手法だ。この映画がそぎ落としたものは何かといえば、笑顔、会話、動き。要するに、すべての<過剰な演技>だ。この映画が明るいとするなら、その明るさは本物だ。笑顔を排除して、なお残る明るさとはどういうものか。究極の問いに迫る描写が、胸を打つ。
道徳的な善悪の価値観も、そぎ落とされたもののひとつだろう。いいか悪いかではなく、好きか嫌いか、カッコいいかカッコわるいか、面白いか面白くないかという価値観で成り立っている映画なのだ。その結果として、難民少年はこうだとか、中年女性はそうだとか、靴磨きはああだとか、病院はどうだとか、世間一般に流布しているイメージや映画的な紋切り型から逃れ、リアルな感触を獲得している。
漠然としたほのぼの感とは対局にある、遊び心のエッジが立っている。あらすじを語るのであれば、高齢、貧困、病気などのキーワードが欠かせないかもしれないが、はたしてこの映画には、ほんとうに貧困と病が描かれていたのだろうか? そんなものはどこにも映っていなかったんじゃないだろうか? 

大島依提亜さんという人がデザインしたこの映画のパンフレットは、とてもお洒落な装丁だ。分厚い表紙は難民少年が着ていたセーターの柄だし、扉に使われている紙は主人公の妻のワンピースの柄なのである。これをみて、ああこの映画はファッション映画だ、と思った。酒とたばことロックンロールにまみれたファッション映画。つまりそれは幸せってことだ。
登場人物たちは、酒とたばことロックンロールのはざまで、自分の仕事や人生にとって大切なものを言葉少なに語ったり、語らなかったりする。奇跡とは、日常の小さな信条の積み重ねなのだと確信できる。 

世界につながる、終盤の船のシーン。人は船に乗って、何を見るのだろうか。それは過去なのか未来なのか。その答えが、わずかなカットに凝縮されていて、号泣。

2012-05-09

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『SOMEWHERE』 ソフィア・コッポラ(監督)

予知夢のような映画。

米アカデミー賞で特別名誉賞を受賞した黒澤映画「夢」(1990)で、ハイビジョン合成の導入をアドバイスしたのは、フランシス・コッポラだったという。黒澤監督がみた夢をもとにした8話のオムニバス映画だが、後半の3話はつながっているようにみえる。いま思い返すと、まさに予知夢のようだ。

原発が次々と爆発し、灼熱の富士山も真っ赤に溶解。大地と海が荒れ狂う中、着色された放射性物質から逃げ惑う人々を描いた「赤富士」。核汚染後の荒廃した世界で、弱肉強食の共食いを続ける鬼たちの地獄絵図を描いた「鬼哭」。そして、近代技術を拒み、失われた自然と共に生きるユートピアのような村の葬式を描いた「水車のある村」。

黒澤監督をリスペクトするフランシス・コッポラが製作総指揮をつとめ、娘のソフィア・コッポラが監督した「SOMEWHERE」(2010)はどうだろう。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したが、その理由は、審査委員長のタランティーノがソフィア・コッポラの元恋人だったからではない。この映画もまた、監督の過去における予知夢なのだ。

映画スターの父と11歳の娘の物語だが、ひとことでいえば「フェラーリ360モデナ」によるロードムービー。ストーリーよりもひとつひとつのシーンの輝きに目をみはる。父フランシス・コッポラと過ごした監督の少女時代がリアルに、しかも淡々と描かれているからだ。ばかにするのでもなく、うらやむのでもなく、皮肉っぽくもなく、セレブな生活をありのままに描写する説明なしのセンスが上品で心地よい。ファッションや選曲の感覚も抜群だ。

まずは、父の生活の描写から始まる。砂漠のテストコースを周回するモデナ、ホテル暮らし、デリバリーガール、記者会見、パーティ、特殊メイクのための頭の型取り。何も不自由はないが、どこか少しずつずれた感じ。旅程をこなすような孤独で地に足のつかない日々の疲弊は、妻と別居していることが原因かもしれない。しかし、時々会う娘と過ごす時間は夢のようだ。娘を演じたエル・ファニングのスレンダーな少女の魅力には、誰もが釘付けになるだろう。

しばらく家を空けると言い残した母に代わり、娘をキャンプへ送っていく父。道中、彼女はモデナの中で泣く。そりゃそうだ。キャンプが終わったとき、いつ戻るかわからない母の家に戻るか、多忙なスターの父に頼るか、どうすればいいの? だが、父はキャンプに間に合わせるため、ヘリまでチャーターして娘を送り届けるのだから、彼女も泣いている場合じゃない。父に迷惑をかけることなく現実のセレブ生活をありがたく享受しなければ、これから先、生きていけないかもしれないのだから。その後、父は別居中の妻に電話をかけ、泣き言をいうのだが「ボランティアでもしたら?」と言われてしまう。彼は、住んでいるホテルをチェックアウトし、荒野の一本道でモデナをキー付きのまま乗り捨てて歩き始める。

私たちの国も、震災前、リセットを求められていた。3月10日以前の日本は、長く続くデフレの中、バブルみたいな世界もなぜだか残っていて、なんだかよくわからないまま政治も停滞していた。希望的でも絶望的でもなく、ただただ世の中が疲弊していく感触。ゆたかさが行き詰まり、すべてが少しずつ余り、大きな志を持ちにくい中で、大地震と津波と原発の問題が起きた。かつてない悲劇に国中が包まれながらも、一挙にあらゆる需要が生まれたのだ。これを何とかいい方向に持っていくしか道はないのかなと思う。たくさんの信じられない犠牲の中で、私たちはどんな夢を見ればいいのだろう。

2011-04-11

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『ゴダール・ソシアリスム』 ジャン=リュック・ゴダール(監督)

BE動詞を使いたくないゴダール。

今年80歳になるゴダールの6年ぶりの長編劇映画。だけどこれ、カンヌ映画祭で上映され話題になったというのに「合衆国はいうまでもなく、ヨーロッパの国々でさえほとんど一般公開されるあてのない作品」(by 蓮實重彦)というから驚く。つまり、日本は世界でも有数の「ゴダール大好き国」なのだ。
ゴダールもまた日本が好きなはず。だって今回も日本車(SUZUKI)がメインに登場するし、「カミカゼは日本語で神の風という意味だ」「知ってる」なんていう祖父と孫娘の会話もある。いつもお洒落にキメてくれるラストも楽しみのひとつだが、この映画の最後の言葉は、日本の政治家からの引用ではないかと思うくらい。

映画の冒頭では、書籍、映画、音楽の膨大な引用元がクレジットとして表示される。元ネタは何か?ということばかりがマニアックに議論されるのは、もううんざりなんだろうな。これこそが、古今東西の表現を共有財産にしようというゴダールのソシアリスム(社会主義)なのか。予告編もすごい。1分半くらいで全編を超高速で見せちゃうんだから、これまでにない開き直りというかサービス精神だ。
前作「アワーミュージック」と同様のわかりやすい3部構成。第1部はエジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリを経由しバルセロナへと向かう豪華客船が舞台。第3部もまた、同じ順に人類の歴史をたどる。「ヨーロッパはどこへ行くのか?」という強烈なメッセージが全編を貫いているのだが、ソシアリスムよりもキャピタリズムというタイトルにしたほうが観客は増えただろう。

ゴダールの新作に新鮮さを感じたのは久しぶりだ。全編HDカムでの撮影。しかも第1部は、豪華客船と荒れ狂う海。なんだか大規模なのである。だがその表現は、より若く、力強くなっていた。美しく撮ればオリヴェイラ「永遠の語らい」「リスボン」アモス・ギタイの「オレンジ」にそっくりな映画になってしまっただろうから、洗練とは逆のベクトルを選択したのは大正解。井上嗣也によるコムデギャルソンの仕事を思わせる、最前線のグラフィック・デザイン映画だ。
今回の表現の目玉は、圧倒的なノイズ。デッキ上の風と波の音、ダンスホールの大音響など、ひずみや割れがこれでもかと強調される。そして、失敗した写真のように焦点のあわない荒れた映像。プールもカジノもある豪華客船が、ちっとも豪華に見えないのが面白い。ギターを手にしたパティ・スミス本人(!)がアメリカ人代表のように登場し、船室内はもちろん、エレベーター・ホールを歩きながら歌っちゃってるんだから爆笑です。こんな豪華客船、乗りたくないってば。

南仏でガソリンスタンドを営む一家を描いた第2部が、最もゴダールらしくて安心する。女優、ファッション、クルマ、その辺はもう「勝手にしやがれ」の頃から変わらないセンスのよさで。給油スタンドにもたれ、サングラス+ストライプのワンピース(欲しい!)姿でバルザックの『幻滅』を読むフロリーヌなんて、VOGUEの1ページのよう。彼女の傍らにはラマがいる。動物たちの無垢な表情と「無言」も、今回の作品のポイントだ。

BE動詞を使うなというメッセージが、しつこく繰り返される。
「BE動詞を使う人と話してはダメよ」
「BE動詞は使わないで」
「ほら、BE動詞ではフランスは動かない」
「BE動詞は、現実の欠如を明らかにするだけ。たとえば、もうすぐ私たちはバルセロナに『いる』…。むしろ、バルセロナが私たちを『歓待する』の方がいい」

たしかに、状態を表すBE動詞だけでは、私たちはどこへも行けない。
ツイッターで「なう」とかつぶやいている場合じゃないかも。

2010-12-26

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『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。

サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリント・イーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。

2007-02-27

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