『ストレート・レザー』 ハロルド・ジェフィ / 新潮社

殺しと殺しのあいだをどう生きるか?

説明を極力省いたミニマムな描写。最先端テクノロジーを駆使したカルチャー。倒錯したセックス。意味をはく奪された刺激的な暴力行為…。しかし、この短編集のいちばんの特長は、そぎ落とされた文章の中に、不安定で気弱で理性的でどこか懐かしい「普通の感情」がときおり混じることだと思う。それは、涙が枯れ果てたあとの泣きぼくろのようでもあり、荒廃した世界に咲く最後のバラのようでもある。

「今日の、この時代に、セックスに誠実さを求めるなんて、ズレてるってことわかってるけど、でもわたしって理想主義者なんだわきっと」(「ゴム手袋」より)
「よもや人を食うなんてことはなかろう、と。ときどき、自信がなくなるが…」(「ネクロ」より)
「こちらがなにもかも譲歩して、それでいてこのふたりのほっそりとしたパンクスタイルの十代の娘たちが、屈強な成人の男に居心地の悪さを与えるというのはなぜなんだ」(「ストレート・レザー」より)
「そこでパーティはおひらき。あらゆる幻覚が終わらねばならないように。あるいは、そのように人が言うように」(「迷彩服とヤクとビデオテープ」より)

「ストーカー」という短編の中には、こんな一節がある。「殺しだけをしていれば、そいつはすごいことだ。しかし、殺しと殺しのあいだに間がある」。この短編集全体のコンセプトを見事に言い表した文章だ。殺しをやっている間は、皆ハイなのであり、ハイな小説が、私たちをある程度興奮させることは間違いない。ただし、問題は、殺しと殺しのあいだをどうやって生きるかということなのだ。我に返って孤独と向きあったときにこそ、人間の真価が顔を出すし、小説の真価もあらわになる。

この短編集のハイな部分を読んでいると、何がかっこよくて何がかっこ悪いのかわからなくなり、男女の区別や善悪の判断がつかなくなる。ぐちゃぐちゃにされて、あっさり放り出される気分だ。結局、他人のことなんて理解できないし、自分がいつ死ぬかもわからない。そんな結論にたどりつく。

だが、その後、じわじわと勇気がわいてくる。人生短いんだから、いくところまでいってみよう、と。で、その結果、すげえ!という境地に到達したとしても、「ストレートレザー」の主人公のように、「自分のパンツで血を拭きとり、鞄にあったもうひとつのズボンをはいた。黒い「執務用」ズボンだ。注意深くロープを巻き、鞄の中にしまった」というふうに、命ある限りは淡々と目の前の現実を処理し、次の場所へ向かいたい。それが、タフということだと思う。たとえ内面がぼろぼろに崩れ落ちそうになっていたとしても。

第1回インターネット書評コンテストで最優秀賞をいただきました。ありがとうございました。

2000-12-15

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『ザ・ブラック・パフォーマンス』 ゲイリー・ヒル / ワタリウム美術館 企画

ひとりで死んだUへ。

携帯電話にとどくメールは、電報のようだ。ゲイリー・ヒルのパフォーマンスに向かうタクシーの中で、かつて仲良しだった男友達のUが死んだという知らせを受け取った。メールをくれた友人は、これから新幹線でUの田舎へ向かうという。

運転手がミラー越しに心配そうな目を向けるのを見て、私は、自分が放心していることを知る。友人たちと一緒にお通夜に行くことをやめ、一人でパフォーマンス会場である明治神宮の参集殿へ向かうことを選んだのは、結局のところ、Uにとって特別な存在であり続けたかったからだ。

開場まで1時間も外で待たされた参集殿は、まさに葬儀場のようで、全員が焼香のために並んでいるみたいだった。パフォーマンスが始まっても、私の心臓は、終始どきどきしながら別のことを考えていた。

途中、死の直前のような動きと、それを冷静に見つめるもう一人の目がスクリーンに映し出され、こわくなる。私はUの死因を知らないが、聞きたくないなと思っていた。Uが死んだという唯一の真実の前では、人づてに聞く死因など無意味なことのように思われたから。

でも、その映像が延々と続くにつれ、現実的な恐怖の感覚に襲われた。死の瞬間、Uは何を考え、どんなふうに死んでいったんだろう。痛々しいほど繊細だったU、プライドが高くてかっこつけていたU、話をするときに人と目を合わせなかったU、だけど話をちゃんと聞いてくれたU…….

私は思わず声を出しそうになったが、その瞬間、ポーリーナ・ワレンバーグ=オルソンがステージに登場し、代わりに叫んでくれた。四方に向けての、振り絞るような、祈るような叫び。ゲイリー・ヒルの作品が見たかった私としては、前衛臭の強いポーリーナとのコラボレーションに終始した今回のパフォーマンスには失望するところだが、そんなことは忘れて彼女に共鳴した。人はみな、叫びたいんだ。

Uと私は、かつてさまざまな感情や感覚を共有したが、ここ数年会うこともなくなっていた。今年の夏、1度だけ、Uが初めて携帯からメールを送ってきて、くだらないやりとりをしたのが最後となった。生き残った人間は、 自分勝手に過去を引っ張り出してきて、陳腐な意味づけを試みるしかない。ずっと生きていれば二度と会わなかったかもしれない人なのに、Uを失ったことが、悲しくてたまらない。

私はこのフォルダーを、自分自身のための純粋な覚え書きとして使っているが、今回に限っては、Uに読んでもらいたくて書いた。プライベートとパブリックの境界線上に位置するこのフォルダーは、私にとって、とても不思議なもの。だからこそ、私が理解できない場所に行ってしまったUも、読んでくれそうな気がしてしまうのだ。どこからかUが携帯で「恥ずかしいからやめてくれー(笑)」とメールをくれないだろうか。

2000-12-11

『メモランダム』 ダムタイプ /

記憶は、なぜ美しいのか?

演劇でも、ダンスでもなかった。強いていえば「映像と音と身体による1時間15分間のパフォーマンス」。テーマは「記憶」だ。セリフはないが、パフォーマーがその場で書くメモの内容が、背後のスクリーンに映し出されるなど、全編を通じて言葉に満ちている。

印象的だったのは、書いたばかりのメモを男がちぎって捨てたあと、メモの断片でいっぱいになったゴミ箱を女がひっくり返す行為から始まるシークエンスだ。女の動きにあわせてメモの断片が雪のように舞い、その様子は4つのスクリーンに映し出される。天井からぐるぐるまわりながら床に接近する小さなカメラによってとらえられる映像は、万華鏡のような美しさだ。
言葉の書かれたメモが曖昧な美しいイメージに収斂されていくプロセス。その感動を言葉で表現するのは愚かだろう。目の前で散っていく記憶の断片を、ただただ見守っていたいと切実に思う。

部屋のシークエンスも面白かった。舞台上の部屋と酷似した状況が4つのスクリーンに映し出される。それぞれの時間の流れ方は微妙にずれ、起こるできごとが違うのだ。
小物の色使いや配置はきわめてシンプルで心地よい。だが、複数の似た状況が繰り広げられるにつれ、同じ結末に向かっているというイメージが強調され、不安にかられる。やがて訪問者がドアを開け、部屋の住人に凶器でなぐりかかる….。 それぞれの部屋でヒゲをそったり電話をかける過程が見られるが、結末はすべて「無」だ。つまり、細部の記憶は複数だが、現実はただひとつ。美しくて恐ろしくて洗練された、元も子もないドラマである。

テクノビートのダンスパフォーマンスも見事だった。デジタル映像と有機的な身体のシルエット。その対比だけでスティルフォトとして完成されているのだが、そこに、めくるめくスピード感や空間を引き裂く音響、光と色のパフォーマンスが加わるのだから。パフォーマーの息遣いまで感じられる小さな劇場自体が最新のボディソニック装置となり、至福の「記憶体験」に導いてくれる。

演劇やダンスというジャンルは、「独特の集団臭」や「クライマックスの感動」に辟易させられるケースも多いが、ダムタイプは、最後の舞台挨拶に至るまで何ひとつ過剰なものがなく、不足するものもなく、世界に通用するセンスのよさを感じた。さまざまなジャンルのアーティスト集団なのだと知り、納得した。

*新国立劇場小劇場「THE PIT」にて12月16日まで公演中

2000-12-06

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『ゲイリー・ヒル 幻想空間体験展』 ワタリウム美術館 /

体で感じる映像装置。

メディア・アートの第一人者、ゲイリー・ヒルの新作ビデオ・インスタレーション展。暗闇の中で体感する5つの作品のうち、3つの作品が印象的だった。

「ウォール・ピース」は、デジタルの身体的表現。作家本人が壁に体を打ちつけながら言葉を叫び、光がフラッシュする 。そんな瞬間的映像の連続で長い文章を表現する試み。痛々しさの中に、デジタルメディアで文章を表現することの可能性が浮かびあがってくる。
 
「ローリンルームミラー」は、ビデオカメラとプロジェクターが別々に動いている部屋。カメラは部屋をくまなく撮影し、プロジェクターはそれを壁のあらゆる部分に投影する。自分に光があたり、壁に映し出されたとき、しくみがわかる。そのうちに「映ってみよう」という気になり、カメラの動きを先取りして自分から積極的に動き出す。どこにどう映るかは予測できず、カメラとプロジェクターにふりまわせらる体験は楽しい。カメラを向けられると逃げたくなるが、カメラに逃げられると追ってしまうのだ。
 
「サーチライト」は、壁に沿って水平に動く小さな映像。ぼんやりしているが、ときどき焦点が合い、水平線であることがわかる。つまり、この水平線は「いつも見えているわけではない」のだ。実際の水平線だって、天候や時間によって見えないことが多いだろう。つまり、これはとてもリアルな映像なのだ。写真や映像はいつでもくっきりと1ケ所に見えているべきもの、という固定観念に対するアンチテーゼを感じる。ゆっくりと移動する儚い水平線の映像は、とても美しい。
 
12月9日に明治神宮の参集殿でおこなわれる彼のパフォーマンスにも、ぜひ行ってみたいと思う。
 
*ワタリウム美術館で2001年1月14日まで開催中

2000-11-25

『ぼくは静かに揺れ動く』 ハニフ・クレイシ(中川五郎訳) / 角川書店

男ってこんなこと考えてるの?

妻子もちの男のリアルな1日。文字どおり静かな心の揺れ動きが細密に描かれている。「男ってこんなこと考えてるんだ」とのぞき見のような感覚で読み進んでしまう。静かだけど切実な小説。静かだからこそ、もっとも大きな心の問題をつきつけられる。愛について。女について。生活について。希望について。
 
「こんな男いやだなー」とまずは思う。浮気、弱気といった「女に嫌われがちな要素」がたっぷりと盛り込まれているからだ。できれば、こんな心の中は見たくない。だけど、この小説の作者は、自分とはまったく関係ない男だから、安心してつい、こっそり読んでしまう。
 
この男の気持ちが、とてもよくわかるのも事実。要するに「女々しい男」なのだから、女こそ、この小説の最大の理解者ということもできる。理解がはじまると、次に共感が生まれ、やがてこの男に対する「いとしさ」さえ芽生えてくるのだから驚きだ。
 
どこか大人になりきれずに、いつまでも女々しく揺れ動いているような男というのは、女に嫌われるどころか、むしろ母性本能を刺激され、「しょうがないわねー」と許されてしまう、最も典型的なタイプなのかもしれない。
 
ところで、男性はこの小説をどう読むのだろう?

2000-11-19

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