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『母の残像 Louder Than Bombs』ヨアキム・トリアー(監督)

あるがままの真摯さに、しびれる。

大好きな作家にインタビューする夢が叶い、彼女が、定型の面白さを注意深く排除することで、純粋に面白い作品を書いていることを知った。天の邪鬼ということではない。それこそが、世界をあるがままに受け止める素直さなのだ。

『アスファルト』(2015・サミュエル・ベンシェトリ監督)の世界から抜けられずにいる。何らかの喪失を抱え、心理的に迷子になった団地の住人たちについての映画だ。不時着したNASAの宇宙飛行士を、言葉も通じないのに息子のように世話する老女。隣に引越してきた《わけあり女優》を、ごく普通に助ける《美しい10代の青年》。団地の中で迷走し、外へ出ることで《運命の看護師》と出会う中年男性。伝わるはずがないという前提で、奇跡的にコミュニケーションが成立する瞬間が描かれていた。それは、自らの弱さを自覚し、率直に、対等に、いちばん大切なことを伝え合う、愛以前の美しい交流に見えた。

こんな世界に浸っていたくて、《運命の看護師》役のバレリア・ブルーニ・テデスキが重要な役を演じる『人間の値打ち』(2013)や、《美しい10代の青年》役のジュール・ベンシェトリの祖父が主演する『男と女』(1966)を見たが、その延長で、またまた凄い作品に出会ってしまった。《わけあり女優》役のイザベル・ユペールが、母であり女でもある戦場カメラマンを演じる『母の残像』(2015)だ。

ひとことでいえば、定型を排除した家族愛の映画。最初のシーンで、赤ん坊の小さな手が大人の人差し指をつかみ、その指が若い父親(ジョナ)のものであることがわかる。妻が出産したばかりの病院。心温まる誕生シーン? いや、そういう普通の物語じゃない。

誰もが内密の不安を抱えながら、大事な人を心配している。そこに上下関係はない。誰かが誰かに向けるまなざしのすべてが真摯であるという真っ当なことが、見たことのない表現方法で描かれている。見て見ぬふりをしながら、愛する人を、そっと見守っているのだ。見て見ぬふり、わかっているのにわかっていないふりが、この映画では愛になる。衝撃だった。

ジョナの母親は、3年前、57歳で亡くなった。クルマの事故ということになっているが、自殺のようでもある。ジョナは、母親の遺品の整理という名目で、父親と弟が暮らす実家に、妻子を連れずに戻ってくる。

母親の死の真相を知らない弟コンラッドは、何をしでかすかわからない、妄想まみれの危うい思春期を生きている。だがジョナは、馬鹿だと思っていたコンラッドの才能を見出すのだ。個性的な弟が、その芽を摘むことなく今を生き抜くための、兄の的確なアドバイスが泣ける。そして弟もまた、兄の不安を見抜いているという事実。

コンラッドが、叶う見込みのない恋の相手とパーティで話をし、彼女を家まで送るシーンは忘れられない。家に着くころには夜が明けている。一緒に歩いた魔法の時間を彼は忘れないだろう、ということを、あまりにも、あるがままに描き切った神聖な情景。その時間の美しい希望は、簡単に成就するわけではないが、記憶は永遠だ。真摯であるべきときに真摯であることによって、私たちは、かけがえのないギフトを受け取れるのだろう。

愛は永遠じゃない。形を変える。でも、その形を焼き付けることはできる。たとえばこの映画のように。

2016-11-29

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『パッション(無修正版)』ジャン=リュック・ゴダール(監督)

2人を同時に好きになったら、真実は別のところにある。

情熱あるいはキリストの受難という意味をもつ「パッション」は、この映画の中で製作されるビデオ映画のタイトルでもある。出資者はイタリア人で、監督はポーランド人。レンブラントの「夜警」ゴヤの「裸のマハ」アングルの「小浴女」などの名画が、凝った衣装とモデルたちの動きによって再現される。だが「本物の光と物語」が見つからないため、撮影は進まない。

監督は、近くの工場でエキストラを探し、工場長の姪を裸にしちゃったり、不倫相手の工場長夫人(ハンナ・シグラ)を主役に抜擢しちゃったり、リストラされた女工(イザベル・ユペール)と二股かけちゃったりする。2人の女を昼と夜にたとえ、その中間に映画の主題を求めようとしたりもする。昼と夜は、経営者と労働者、昼の産業(工場)と夜の産業(映画)などのメタファーでもあるようだが、監督は撮影現場に行かず、女の髪を撫でながら「労働と愛は似ている」などとつぶやくのだから、しょうもないスケベ野郎だ。

「パッション」を見て思い出した映画が2つある。

1つめはパゾリーニの「リコッタ」(1963イタリア)。
オーソン・ウェールズ演じる映画監督が、キリストの受難を描いた宗教画を映像化する。キリストと共に十字架に張り付けられるエキストラの男は、昼食を食べ損ね、ようやく手に入れたリコッタ・チーズを食べ過ぎて本当に十字架の上で死んでしまう。つまり宗教画を演じながら、現実的な理由で死んでしまうというパロディで、ほかにも娼婦がマリア役を演じたりしていたことから、パゾリーニはカトリックを侮辱した罪に問われた。

2つめがキェシロフスキ「アマチュア」(1979ポーランド)
工場のドキュメンタリーフィルムを撮り始めた工員は、アマチュア映画祭で入賞するまでになるが、映画のせいで仕事や家庭が破綻していく。彼は、ありのままを撮ることの困難をどう克服するか?共産党政権下、孤高のラストシーンで答えを出したキェシロフスキは、この作品でモスクワ映画祭グランプリを受賞した。

どちらの作品も、映画の原点というべき突き抜けた強さと面白さがあるが、ゴダールの「パッション」はその点、中途半端。工場経営はうまくいかず、ビデオ映画制作もうまくいかず、工場長夫人は恋敵の女工を伴い、監督はさらに別の女を誘い、彼らを乗せた2台の日本車は、別々に戒厳令下のポーランドへ旅立つのだ。なんと無責任で軽薄なエンディング!そんな突き抜けたチープさにも、やっぱり私は痺れてしまう。

「パッション」にはこんな会話が出てくる。

娘「どうして、ものには輪郭があるの?」
父「輪郭なんてないさ」

2人の女、昼と夜、労働と愛、絵画と映画、音楽と映画…異なる概念を自在に取り込み、揺れ動きながら、そのどちらでもない、まったく別の新しい真実を求めればいい。ゴダールがやっているのは、そういうことだ。輪郭を外し、映画らしくない映画を撮ること。映像とセリフは噛みあわず、クラシックの名曲はズタズタにされ、耳ざわりなクラクションやハーモニカが映画の邪魔をする。

歳をとるとは、輪郭を濃くすることかもしれない。生活を固め、社会的地位を固め、他者を威圧し、しかるべきものを残そうとする。ただし、そんな生き方をお手本として押し付けられるのは、ちょっとつらい。
過剰な荷物はいつでも捨てて、何の心の準備もないまま、さっとクルマに乗ってどこかへ行ってしまう。そんな輪郭の不確かな生き方を、忘れたくないと思う。

*1982年スイス=仏映画
*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2002-08-19

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『ピアニスト』 ミヒャエル・ハネケ(監督) /

束縛はつらく、自由は痛い。

幼稚園から高校3年まで、クラシック・ピアノを習っていた。熱心な生徒ではなかった。「今日はレッスンなのに、ぜんぜん練習してない!どうしよう?」とあせる夢を今も見る。

大学では社会学を専攻し、マックス・ウェーバーのゼミをとった。熱心な学生ではなかった。が、西欧近代社会における音楽の合理化過程に着目した「音楽社会学」は眼からウロコ。美しいハーモニーをつくる純正律の代わりに、オクターブを12の音に均等に分けた平均律が選ばれた西欧では、精密な楽譜が発達し、作曲家と演奏家が分離し、調律を固定した鍵盤楽器が発展した。つまり、鍵盤楽器が奏でるのは、呪術性や神秘性が取り除かれた合理的な音楽なのだ。そんなこと、ピアノを習っていても知らなかった。

先生の選んだ曲を、楽譜に忠実に弾かなければならないという私のオブセッションは、この映画のモチーフである不自由さや束縛の象徴としてのピアノに通じる。私が今幸せなのは、ピアノを弾かなくていい生活をしているからかもしれません。

主役の中年女性エリカ(イザベル・ユペール )は、子供の頃から遊ぶことも許されず、徹底的な教育を受けたもののピアニストになれず、ウィーン国立音楽院でピアノ教授をしている。学生ワルター(ブノワ・マジメル)が、そんな彼女に恋をする。

途中までは、クラシカルな恋愛映画のよう。だが、エリカの「知られざる一面」が亀裂のように画面に侵入するにしたがい、映画自体の形式も壊れていく。このスリリングな同期性がすばらしい。映画は次第にピアノから離れ、平均律の呪縛から解き放たれたかのようなラストシーンは、無音だ。

アダルトショップ通い、のぞき行為、バスルームでの自傷行為など、歪んだセクシャリズムをほしいままにするエリカのプライベートタイム。未熟な嫉妬心、アブノーマルな要求など、恋愛においてもその異常性は遺憾なく発揮される。それらはあまりにも不器用で、目も当てられないほど。ただし、最後までエリカは美しい。長まわしに耐えうる驚異的な無表情が、観客を釘づけにする。

彼女の悲劇の原点は母親である。寂しさや嫉妬が入り組んだ老女の母性に、エリカはがんじがらめ。この母を監禁し、エリカから分離させたワルターは偉い。そう、この映画で、ただ一人健全な人間として描かれるワルターは、エリカのはちゃめちゃな性的願望に困惑しながらも、逃げることなく正面から彼女にぶつかっていくのだ。乱暴な初体験の後、「愛に傷ついても死ぬことはない」と言い残すワルター。自由とは、ときには死ぬ思いをしながら生きていかなくちゃならないってことなのだ。こんな残酷な真理を中年になってから学ぶなんて、エリカ、痛すぎ。だけど、この事件は、彼が言うように「お互いのせい」なのである。つまり、2人の間には恋愛コミニュケーショーンが成立しているってこと。ワルター、正しすぎ。

恋愛は、ちょっと間違えれば相手をこわしてしまう。そして、その力関係は、いつ逆転するかわからない。この映画もそうだ。この先、簡単じゃないだろうなってことは想像できるけれど、エリカは、とりあえず自由になったのだ。ピアノなんて、どうでもよくなっちゃったわけなのです。

監督は言う。「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さをのこすだけです」

*2001年 フランス=オーストリア合作
カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
*東京、神奈川で上映中。3月より札幌、京都、大阪、福岡で上映。

2002-02-28

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