「バトル・ロワイアル」の検索結果

『バトル・ロワイアル』 高見広春 / 大田出版

誰かを愛することは、別の誰かを愛さないってこと。

先週、私が分身のように可愛がっていたマッキントッシュ パワーブックが盗まれた。大打撃なんてもんじゃない。日本の安全神話は崩れている―そんな言い古されたような言葉が、初めて実感を伴った。悔しいし、悲しいし、恐ろしいし、仕事になんないし、だけど、そんな状況に負けたくない…という気持ちが入り混じっている。「バトル・ロワイアル」にふさわしい戦闘的な気分である、といえるかもしれない。ほとんど投げやりですが。

(というわけで、インターネット書評コンテストでいただいたピカピカのWindowsが、いきなりメインマシンになった。使いやすくて快適! 不幸中の大幸い! なんてありがたいんだろう)

映画が「描写」なら、この原作は「解説」だ。殺し合いゲームに参加させられる生徒一人ひとりの足取りと葛藤、生まれ落ちた環境や家族、恋愛といった背景を詳細にたどってくれる。人物の内面に自在に入り込み、死ぬ間際の心境まで説明してくれたりもする。視点がばらばらという意味では散漫だし、かなりの長さでもあるが、「書きたいことを制約なく書いた」という作者の満足感のようなものが伝わってきて爽快だ。

たとえば、徹底的な特殊教育により、世界中のありとあらゆることを知っている桐山という生徒がいるのだが、そんな彼も、自分の奇妙な感覚の原因だけは知らなかったと説明される。母親の胎内にいたときの事故により、微細な神経細胞が破壊されたのだ。そういうこの世の「誰も知らない事実」が神の視点から語られる。

「ピーナッツのように左右半分ずつが上下にずれた顔。そしてその死体は、ほんのすぐそこに転がっている。ごらんください、世にも不思議なピーナッツ男です―」
「美少女二人が見つめ合ってるわけだ。アクセサリに、目をつぶされた男の死体。あらまあ、なんて美しいの」
「頭の右上から、何か、細長くデフォルメしたカエデの葉のような形の、赤いしぶきが、伸びていた」
「うわあ、それ、すごくいい方法じゃん!俺、これがパソコンゲームか何かだったら、絶対そうしちゃうな」

作者は明らかに、ふざけている。だが、このデフォルメしたゲーム感覚のノリこそが、現代のリアルなんだと思う。真剣勝負の時に限って、くだらないジョークを思いついてしまったり、悲劇的な状況の中ですら、それをネタにして友達を笑わせようと考えていたり…これが私たちの、どうしようもない日常であり、傷つかずに生きるためのしたたかな処方箋なのだから。

生徒の一人は「誰かを愛するっていうのは、別の誰かを愛さないっていうことだ」なんてセリフを吐く。この小説のテーマはここに尽きるだろう。私たちは、何かを選びとらなければならないのだ。まったく、勉強になるぜ。

私自身、嫌な事件があったおかげで、自分にとって大切なものは何か、最後に選びとるべきものは何か、ということが以前よりもクリアになってきた。少なくとも、モノやお金じゃないってことは確かだ。

2001-02-04

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『バトル・ロワイアル』 深作欣二(監督) /

美しく過酷な、サバイバルゲーム。

「リアリティがなくて嫌な感じのスプラッタ映画。だから見なくていいよ」。私をよく知る友人は、そう言った。だけど私は、もしや?と思って見に行ったのだ。その結果「リアリティがあって希望を感じる批評的な映画」と私は感じた。これだから映画は面白いし、やめられない!

ゲーム仕立てのわくわくするような展開、無人島でのサバイバルというオーセンティックな設定、殺し合いを余儀なくされるクラスメイト42人の見事な描き分け、はまり役としかいいようがないビートたけしの演技と彼自身が描いた1枚の絵、手抜きのない殺戮シーン、戦闘服としての制服のデザインセンス、ラストシーンの普通の街の美しさ、そこから流れるドラゴンアッシュの「静かな日々の階段を」のシンプルな旋律……どこをとっても、高水準の映画だった。

戦争を知らない私たちに向けて、戦争の馬鹿馬鹿しい本質をこれほどわかりやすく描き切った作品を、私は知らない。とりわけ、敵味方の単位が「顔の見えない集団」ではなく「顔の見える個人」であることが、きわめて現代的。最後の一人になるまで戦い続けなければならない極限状況の中で、人はどのような行動に出るものか? パニックに陥る者、一人だけ助かろうとする者、皆で話し合おうとする者、友人を信頼できなくなる者、裏切る者、ゲーム自体を楽しむ者、愛する人と過ごす者、自殺する者、最後の瞬間まで楽しもうとする者、システムの破壊や脱出を試みるもの……..自分だったらどうするだろう? これは空想の中の「残酷なゲーム」なんかじゃない。私たちの、身近な日常そのものである。今日、誰と何を食べようか、というような些細な日々の選択肢の重大さを、否応なくつきつけられる。

映画館は満席。その大半が、映画に登場してもおかしくないような高校生だ。彼ら、彼女らも、登場人物たちと同様、一人ひとりが全く違うことを考えているにちがいない。そして、そういったさまざまな想像力をかきたてる点、多様な可能性を提示し、許容する点こそが、この映画の素晴らしさだ。

私と友人の見解の相違も、この映画の包容力の豊かさと問題意識の強烈さを象徴している。未解決の問題が山積みで、わけのわからない様相を呈している現代社会は、過酷だがいとおしい。こんなにも愛にあふれた映画が、高校生で満席になるなんて…….それだけで、21世紀の日本に希望を感じてしまった。

2000-12-22

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『心とは何か – 心的現象論入門』 吉本隆明 / 弓立社

助けてくれ!

アメリカの映画専門ケーブル局は、テロの当日こそニュースを放映していたが、2日目からは揃いも揃って戦争映画ばかり放映しているという。NYで仕事をしている友人は「行く先は不安だらけ」とショックを顕わにしながらも「現実から逃避したい」と言い、最近ビデオで見たらしい「バトル・ロワイアル」「はなればなれに」の感想を楽しそうに語ってくれた。励まそうなどと不遜なことを考えていた私のほうが元気づけられるありさまだ。

今朝の朝日新聞に「公園で2歳の息子を遊ばせている間に、乳母車のポップコーンをホームレスに漁られた」というような投稿があった。「何十年か前、彼もだれかの大切な赤ちゃんだったのにと思うと、なぜか涙がこぼれた」という彼女は、ポップコーンの残りをホームレスに与えるのだが、その男、彼女の息子に比べて本当に不幸だといえるのか? 感傷に浸っている場合ではない。憂慮すべきは2歳の子供の将来だ!

こんなことを思ったのは、本書に収録された講演録のひとつ「異常の分散―母の物語」を読んだ直後だったから。個人の精神の発達史において、0歳から2歳までの乳児期と、幼児期をすぎて思春期にいたるまでの2つの期間が「不可解」であり、「この時期なしに精神の病はありえない」らしい。精神の病は、母親の物語と深く関わっており、授乳のしかたは乳児にとって決定的な意味をもつ。「本当は子どもを産みたくなかった」「夫が憎い」というような気持ちが深刻な形で続けば、実存的な影響が生涯にわたって及ぶというのである。

吉本隆明は、ジャン=ジャック・ルソー、三島由紀夫、太宰治、分裂病女児ジェーンの4人の生い立ちを例にとり、実存的な解釈を試みる。三島由紀夫は、ひどい育てられ方を意志の力で超えようとし、世界的な作家になったものの「老いにいたる前のところで、やっぱりじぶんで死んじゃうことになった」し、偉大な思想家であるルソーも「じぶんの生涯は不幸だった」と述懐する。彼らの功績は奇跡にすぎず、ほとんどの不幸はそれを超えることができないのだという記述は鋭く、「実存の不幸というものは、そんなことには代えられないほど重要なことのようにぼくにはおもわれます」と著者はいう。

人間は、母親の物語に深刻に追いつめられた場合、回避、常同、作為、妄想、幻覚といった「異常の分散」によって克服しようとするらしい。著者は、自身の語り方の中にある「異常の分散」のパターンについてこう語る。

「ぼくなんかも、今しゃべった話を速記か何かで見ると、なんてくどくどと同じことをいってんだっていうくらいうんざりする常同的振舞いや言葉があります。(中略)本音をいうと、どうやって振舞っていいのかとか、どういう言葉を使ったらいいのか判らないけど、本当は簡単で『助けてくれ』っていってるわけです。助けてくれといいたいんだけど、助けてくれという言葉はいえなくて、常同的な振る舞いとか、常同的な言葉をいっている。しかし、本当は何をいいたいのか。要するに、『助けてくれ』っていいたいんだ。あるいは、『もう地獄だよ』ってことをいいたいんだ。しかし、常同的な言葉や振る舞いでしかいえない。そういうばあいには、たぶん母親の物語の中に枠組みがなかったとはいえないまでも、枠組みがとても不安定だった。それがある期間持続した。そう物語的にいえば対応関係がつくようにぼくにはおもわれます」

助けてくれ、と皆が言っているような気がしてくる。私も毎日、それだけを言い続けているのかもしれない。
人間のあらゆる行為が「異常の分散」に見えてくる。

2001-09-15

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