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『春の雪』 行定勲(監督)/三島由紀夫(原作)/

三島由紀夫(80)の魂はどこに?

三島由紀夫の遺作「豊饒の海」。その第1巻である「春の雪」を読み直しながら、これはレオパルディだ、と思った。たまたまイタリア的悲観主義に関する本を読んだばかりだったので、三島由紀夫とレオパルディが結びついたのだ。

「彼(レオパルディ)の思想を簡単にまとめると、自然を超越するもの(神など)は存在しない。したがって、人間が置かれた状況(身体的、物質的な制限/制約も含め)から逃げられることはあり得ない。そして、人間の状況/環境である自然は、善良で優しいものではなく、邪悪な性質を持つか、それとも、少なくともニュートラルなもので、人間の苦に対しては冷淡で無関心である」 -「イタリア的『南』の魅力」ファビオ・ランベッリ(講談社選書メチエ)より

だけどまさか「春の雪」の終盤に、レオパルディの名がダイレクトに登場するなんて気づかなかった。学習院の校庭外れの草地で「美しい侯爵の息子」である主人公の清顕(きよあき)が、お化けと呼ばれる「醜い侯爵の息子」に初めて話しかける場面。

「いつも何を読んでるの」
と美しい侯爵の息子がたずねた。
「いや……」
と醜い侯爵の息子は本を引いて背後に隠したが、清顕はレオパルジという名の背文字を目に留めた。素早く隠すときに、表紙の金の箔捺(はくお)しは、一瞬、枯草のあいだに弱い金の反映を縫った。

「豊穣の海」全4巻の伏線ともいえる唐突なこの場面は、映画「春の雪」には出てこない。映画を見るだけでは、三島由紀夫のため息が出るような美文とその恐るべき読みやすさに度肝を抜かれることもないし、清顕の豊かすぎる想像力がもたらす屈折したお坊ちゃまぶり-喪失を恐れるがゆえの傲慢さや天真爛漫な残酷さといったきらめくような魅力-も圧倒的にたりない。

だけど、映画「69 sixty nine」における妻夫木くんに清顕との共通点を見出し、今回抜擢したのであろう(あくまで想像ですが)行定監督のセンスはさすがだと思う。個人的には、窪塚くんが演じる清顕も、ぜひ見てみたいところだけど。

映画「春の雪」は後半、禁じられた恋という制約の中、ようやく王道を駆け上がり、転げ落ちる段階になって、主演の2人(妻夫木聡&竹内結子)の魅力が増した。地位や伝統や着物は、乱れてこそ美しいのである。

清顕の周囲は、それぞれの政治力で動く鈍感な大人ばかりだが、中でも「咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ」と原作で表現される蓼科のユニークな人物造型を、大楠道代がうまく表現していたのが面白かった。

特筆すべきは、月修寺門跡を演じた若尾文子で、もうすぐ72歳の誕生日を迎えるというのはうそでしょう?の美しさである。三島由紀夫と若尾文子は、かつて「からっ風野郎」(1960)という増村保造監督のヤクザ映画で共演したというのも驚きだが、三島由紀夫がいま生きていれば80歳。この映画にだって、きっと出演していたに違いない。

いい作品は、作者の死後も、あらゆる世代によって真剣に受け継がれるのだなと思う。
若尾文子の高貴な京都弁、そして、ラストに流れる宇多田ヒカルの「BE MY LAST」が、この作品に魂を吹き込んだ。

2005-11-07

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『推し、燃ゆ』宇佐見りん

苦しみの終わりに、扉がありますように。

最近、いいなと思った書き出しが2つある。ひとつは、今年ノーベル文学賞を受賞した米国の詩人、ルイーズ・グリュックの詩「The Wild Iris(野生のアイリス)」の冒頭だ。声に出して読みたくなる英文に、久しぶりに出会ったような気がして震えた。

At the end of my suffering there was a door. (苦しみの終わりに 扉があった。)

米文学者の木村淳子さんが「私の好きな1編」として朝日新聞で紹介していた。彼女の詩は、簡潔な英語で書かれているけれど内容は深く、つらい体験をうたっていても、必ず光が見えるという。木村さんは2001年、この詩が収録された詩集をカナダの本屋で見つけ、手紙を出して本人の許可をとり、研究者仲間と編んでいた同人誌で12編の詩を紹介した。日本ではあまり知られていないこの詩人に、20年前から着目していた日本人がいたのである。

もうひとつは、今年『かか』で三島由紀夫賞を最年少受賞した宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』のタイトルと冒頭だ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

「推し」という言葉を初めて聞いたのは2010年だったと思う。AKBファンの友人が「推しメン」(=推してるメンバー)という言葉を教えてくれた。当時、友人の推しメンは、ゆきりん、きたりえ、さっしーの3人だった。今はどうなんだろう? 一方「燃えた」はネット上で炎上したという意味だが、「燃ゆ」といえばNHK大河ドラマのタイトルだ。1984年は「山河燃ゆ」、2015年は「花燃ゆ」だった。NHK大河ドラマをちゃんと見たことはまだないが『推し、燃ゆ』がドラマ化されたら、ぜひ見てみたい。

アイドルを追いかけている女子高生、あかりの話だ。何かに夢中になるってそれだけで幸せだと思うけれど、アイドルを追いかけるだけでは生きていけない。学校や家族や他のあれこれについては破綻寸前で、あかりの場合は病名までついているらしく、社会的にはうまくいっていないということになる。

だけど、推しの「真幸くん」についてあかりが書くブログは素晴らしい。自分の周囲にいる魅力的な人がアイドルに夢中になっていると、つい「もったいない」などと思ってしまうが、彼ら彼女らが魅力的なのは、「推し」のおかげなのだとも思う。

終わり方もよかった。ハッピーエンドと呼ぶにはひ弱すぎるのだけど、何かを全力で求め、それを失ったときにだけ得られる希有な風景が描かれていた。何かを失うということは、そこに素晴らしいものがあったことのまぎれもない証拠なのだ。それを愛したことを認め、全力で生きた日々を認め、自分を認め、弔うことができたとき、別の時間が動きはじめるのだろう。

2020-12-30

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『揺れる大地、他』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

いちばん明るいヴィスコンティ映画。

ヴィスコンティ映画祭が終わった。パスポートを手に入れ、毎日のように通った。睡眠時間を削ってでも、見る価値があるものばかりだった。匂いや温度や倦怠までがリアルに感じられ、イタリア11日間の旅に行ったような気分になった。

イタリアン・ロードムービーの原点であり処女作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1943)、若き甥(アラン・ドロン)に負けない初老の男(バート・ランカスター)の魅力を描き切った貴族映画「山猫」(1963)、ヴィスコンティ映画のあらゆる要素がミステリアスに凝縮された「熊座の淡き星影」(1965)マストロヤンニアンナ・カリーナが不思議な日常を演じた「異邦人」(1967)三島由紀夫も絶賛した死の美学が暴走する「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)、徹底した視線への執着が美しい「べニスに死す」(1971)、不倫の顛末を完璧なカラーコーディネートで見せた遺作「イノセント」(1976)etc…。

おしゃれな短編もある。舞台裏の女優の魅力が炸裂する「アンナ・マニャーニ」(1953)、貴族階級の労働とファッションをテーマにした「前金」(1962)、キッチュなメイクアップ映画「疲れ切った魔女」(1967)の3本だ。

ヴィスコンティ映画の真骨頂は、何と言っても、崩壊寸前のダメ男の美学。ほとんどの作品にダメ男が登場するが、女との対決という意味では、リリカルなナレーションがそそる究極のメロドラマ「夏の嵐」(1954)のダメ男ぶりがいちばん抜けている。経済力のある女がダメ男に金を与えれば、ダメ男はその金で若い女を買ったり、飲んだくれたりして、さらにダメになっちゃうのであるという経済論理がここまで正面きった女への侮辱や罵倒とともに語られた映画があっただろうか。女というものは、わかっていながらダメ男に何度でも騙されるし、騙されたいのである。ダメ男を信じたいからではなく、自分を信じたいからだ。愚かな女は結局、ダメ男によって完膚無きまでに打ちのめされるのだが、それでも「夏の嵐」の女は最後まで負けない。すべてをさらけ出すダメ男に対し、究極の愛のムチを選択するのである。「イノセント」と同様、凄まじい結末だ。ダメ男の名を呼びながら、気がふれたように暗い街を彷徨う女の姿が忘れられない…。

だが、最高の1本を選べといわれたら「揺れる大地」(1948)だろう。上映後、熟年カップルが「暗い映画だねー」と悪態をつきながらそそくさと会場をあとにするのを見た。シチリアの貧しい漁村を、現地住民を使い、現地ロケで撮ったモノクロ映画なのだ。この作品で不幸に見舞われ、崩壊してゆくのは、貴族ではなく庶民の一家なのだから、設定は確かに暗い。だけど中身は、最も希望に満ちた映画だと思う。主人公はまだ若いし、密輸業者と共に島を出て行った弟の今後も楽しみだ。

南部からミラノへ移住した一家の苦労を描いた「若者のすべて」(1960)では、南部の様子が描かれないため、アラン・ドロン演じる三男が最後まで故郷に固執する理由がわからなかったのだが、「揺れる大地」を見てようやく理解できた。人は、自分が生まれ育った土地の仕事や環境を不遇と感じたとき、それでも故郷に執着すべきなのか? それとも外の世界へ出て行くべきなのか?

「揺れる大地」は、外へ出て行かない映画なのに、希望がある。小さな漁村の中に、世界がある。自分にとって最も重要なものは何かを考えれば、どんな悩みにも自ずと答えは出るはずで、そこに愛と信念がある限り、人は何度でもやり直せるのだと思う。たとえどん底に陥っても、自分の原点と可能性を見つめ直して、もう一度、這い上がろうとすればいいのである。

2004-10-19

『阿修羅ガール』 舞城王太郎 / 新潮社

オトナには読めない、女のコの恋心。

「第16回三島由紀夫賞」を受賞したが、選評(新潮7月号)は賛否両論。
共感した順に星印をつけてみた。

宮本輝★
「他の四人の委員に、この小説のどこがいいのかと教えを請うたが、どの意見にも納得することができなかった。下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。(中略)いったい何人のおとなが『阿修羅ガール』を最後まで読めるだろうか」

高樹のぶ子★★
「それでも私が×でなく△にしたのは、この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である」

島田雅彦★★★★
「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。(中略)『ええかげんにせえや』といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、逆に彼を落胆させるには、『自意識の崩壊現象を緻密に描いている』などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい」

筒井康隆★★★
「長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ」

福田和也★★★★
「ページから、どんどん風が吹いてくる。レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いたときの感じ。その感触が、まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ。これからである」

「阿呆な自分はついて回る。そっからはどうしたって逃げられない」
この小説のテーマは、このフレーズに尽きる。主人公のアイコは気付いてしまうのだ。阿呆な他人に突っ込みを入れても、自分の世界観が幼稚である限り、それらはそのまま自分に返ってくるのだということに。

宮本輝がわからないという「大きな字体」とは、ファンタジーのシーンで崖の壁面にリアルタイムで削られる巨大な文字だ。小説や目の前の現実よりも強い意味をもち、アイコを遠隔操作するメッセージ。つまりこれは、好きな人から届く携帯メールのようなもの。「阿修羅ガール」は、その儚さと残酷さと魔法のような力を文学的に描写した初めての小説だと思う。

アイコのような女のコは、たくさんいる。健康で頭の回転がよくてポジティブで人当たりがよくテレビをいっぱい見ているからタレントみたいな顔とスタイルをしていてリズム感があり要領がよくカッコよく勉強なんかしなくても大事なことがわかっていて皆に愛されリーダーシップがとれる。何かと傷ついちゃったりもするのだがソツのない自己突っ込みで器用に回復できちゃうし友達もいっぱいいて家族にも可愛がられているからなかなか前に進めなくて孤独に何かを追求したり徹底的に考えたりするチャンスも時間もない。せいぜいが愛のないセックスをして自尊心を減らす程度。暴力的な世の中にどっぷり浸っているものの絶望することなくけなげに状況を理解し適応しようとしている。

そういう女のコのリアルな自意識は、この小説の世界観の限界でもある。だから時々、女のコの感覚から完全にはみ出してしまうのが、この小説のパワフルで面白い点。アイコの世界観が説明されすぎて、説教くさくなってしまう部分が、ちょっと残念だけど。

救いは、アイコの行動の核になっている、シンプルな恋心。
宮本輝がいう「下品で不潔な文章と会話」を貫いているのは、普遍的な愛の物語なのだった。

2003-07-01

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『小説家になる!2(芥川賞・直木賞だって狙える12講)』 中条省平 / メタローグ

書くよりも大切なこと。

ある文学賞を受賞したとき、私の小説を読んでくれた知人が、登場人物になりきった手紙をくれた。別の知人は続編を考えてくれた。次は私の話を書いて!と言ってくれる人もいた。そして「自分も小説を書きたいんだ」と多くの人が言った。

私自身はひ弱な想像力で小さな嘘をまいたにすぎない。けれど、一人の嘘は一人では完結しない。私は他者を必要としており、それが小説を書く理由なんだと思った。多様な想像の可能性にふれ、打ちのめされ、別の場所へ行くこと。

小説だけじゃない。言葉はすべて嘘だ。真実に近づくための代替物にすぎない。私は日々、大切な人に向けて適当な言葉の断片を投げ続け、意外な言葉の数々を投げ返してもらう。たくさんの嘘で外堀が埋められ、いつか真実の輪郭が浮き彫りになることを信じて。

本書は、小説の書き方ではなく、想像力の磨き方を教えてくれる本だ。映画批評家および文芸・ジャズ・漫画評論家として知られる仏文学教授、中条省平氏の講義録。

パトリシア・ハイスミスの「妻を殺したかった男」丸山健二の「夏の流れ」三島由紀夫の「月」室生犀星の「蜜のあわれ」フロベールの「まごころ」などのテキストが引かれ、読み解かれる。中条氏の解釈は、ある意味で小説家を打ちのめすものだ。なぜならそれは、作家の意図とは関係のない、自立した想像力に基いているから。すぐれた批評には、批評対象を陵駕する面白さがある。ある作品を詳細に語りながら、作品に依存していない。思い入れの強度とはそういうものだ。

漫画評もすばらしい。楳図かずおの「わたしは真悟」業田良家の「自虐の詩」の引用と解説の的確さはどうだ? 私は、原作を読んでいないのに泣かされてしまいました。

悪い例として酷評される「黒豹ダブルダウン」(門田泰明)の読み解きですら相当おもしろく、実は黒豹シリーズの売り上げに貢献しているのではと勘ぐってしまう。原文が順に引用され、コメントがこんなふうにつく。「信じがたいほど通俗的な直喩と数字のオブセッション」「一瞬たりとも自分の書きつけた言葉を反省しないのでしょうか」「そんなこと心配している場合か」「この言葉の薄っぺらさ、イメージの大仰さにはちょっとついていけない。ところが、これが何万部も売れる小説なわけです」「一巻を読み終わった時には、あまりにも疲れ、皆さんの添削用の小説を一年分読んだようなめまいに襲われて(笑)、七巻まで読むのは、彼が百巻書くのと同じくらいの労力がいるのではないかという気がしました」etc.

小説を熟知した中条氏が、小説を書かない理由については考えてみる価値がある。ここまで小説を読み込むことができれば、書く必要なんてない。批評のほうが楽しいに決まってる。この本は「批評家になる!」というタイトルのほうがふさわしいんじゃないかって思うほど。

「小説はこれ以上ない雑食的な芸術ジャンルです。そこには、いちおう決まった語り手はいますが、その語りのなかに、どんな階級や集団や職業や個人の考えでも放りこむことができます。また、世界中のあらゆる言葉や出来事を引用することも可能です。一人の作者が一人だけで作りだす世界として、これほど自由で、多様さにみちた芸術は他にないといってよいでしょう」

中条氏はそう定義しながら、小説というジャンルに潜むギリシア・ローマ以来の「知」の歴史的な厚みを示し、「天才ではないわれわれにとって、どんなことでも知らないよりは知っていた方がいいのです」とさらっと言う。そこをわかった上で「どうぞご自由に何でもやってください」とそそのかすのだ。とっても知的!

2002-01-15

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