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『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。

「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

 「人はどの瞬間にどうやって
 人を愛するのだろうか
 どんなに論理的な理由をくっつけてみても
 メッキにしかならないのだということは
 だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

 「君と出会っていなかったら
 僕は今
 何を想い何を考えているのだろう
 未来は奇跡なのだろうか
 過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。

2002-03-09

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『春の雪』 行定勲(監督)/三島由紀夫(原作)/

三島由紀夫(80)の魂はどこに?

三島由紀夫の遺作「豊饒の海」。その第1巻である「春の雪」を読み直しながら、これはレオパルディだ、と思った。たまたまイタリア的悲観主義に関する本を読んだばかりだったので、三島由紀夫とレオパルディが結びついたのだ。

「彼(レオパルディ)の思想を簡単にまとめると、自然を超越するもの(神など)は存在しない。したがって、人間が置かれた状況(身体的、物質的な制限/制約も含め)から逃げられることはあり得ない。そして、人間の状況/環境である自然は、善良で優しいものではなく、邪悪な性質を持つか、それとも、少なくともニュートラルなもので、人間の苦に対しては冷淡で無関心である」 -「イタリア的『南』の魅力」ファビオ・ランベッリ(講談社選書メチエ)より

だけどまさか「春の雪」の終盤に、レオパルディの名がダイレクトに登場するなんて気づかなかった。学習院の校庭外れの草地で「美しい侯爵の息子」である主人公の清顕(きよあき)が、お化けと呼ばれる「醜い侯爵の息子」に初めて話しかける場面。

「いつも何を読んでるの」
と美しい侯爵の息子がたずねた。
「いや……」
と醜い侯爵の息子は本を引いて背後に隠したが、清顕はレオパルジという名の背文字を目に留めた。素早く隠すときに、表紙の金の箔捺(はくお)しは、一瞬、枯草のあいだに弱い金の反映を縫った。

「豊穣の海」全4巻の伏線ともいえる唐突なこの場面は、映画「春の雪」には出てこない。映画を見るだけでは、三島由紀夫のため息が出るような美文とその恐るべき読みやすさに度肝を抜かれることもないし、清顕の豊かすぎる想像力がもたらす屈折したお坊ちゃまぶり-喪失を恐れるがゆえの傲慢さや天真爛漫な残酷さといったきらめくような魅力-も圧倒的にたりない。

だけど、映画「69 sixty nine」における妻夫木くんに清顕との共通点を見出し、今回抜擢したのであろう(あくまで想像ですが)行定監督のセンスはさすがだと思う。個人的には、窪塚くんが演じる清顕も、ぜひ見てみたいところだけど。

映画「春の雪」は後半、禁じられた恋という制約の中、ようやく王道を駆け上がり、転げ落ちる段階になって、主演の2人(妻夫木聡&竹内結子)の魅力が増した。地位や伝統や着物は、乱れてこそ美しいのである。

清顕の周囲は、それぞれの政治力で動く鈍感な大人ばかりだが、中でも「咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ」と原作で表現される蓼科のユニークな人物造型を、大楠道代がうまく表現していたのが面白かった。

特筆すべきは、月修寺門跡を演じた若尾文子で、もうすぐ72歳の誕生日を迎えるというのはうそでしょう?の美しさである。三島由紀夫と若尾文子は、かつて「からっ風野郎」(1960)という増村保造監督のヤクザ映画で共演したというのも驚きだが、三島由紀夫がいま生きていれば80歳。この映画にだって、きっと出演していたに違いない。

いい作品は、作者の死後も、あらゆる世代によって真剣に受け継がれるのだなと思う。
若尾文子の高貴な京都弁、そして、ラストに流れる宇多田ヒカルの「BE MY LAST」が、この作品に魂を吹き込んだ。

2005-11-07

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『GO』 金城一紀(原作)/行定勲(監督) / 講談社

たたかうベッドシーン。

ロミオとジュリエットから始まり、クリスマスで終わる小説。

民族学校から日本の高校へ進んだ著者を救ったのは、難解な思想書ではなくエンターテインメントだったそう。クリスマスのシーンで終わる在日文学なんて前代未聞だから、どうしてもやりたかったんだってさ。それは、苛酷な現実に立脚したぎりぎりの「だささ」であり「かっこよさ」であり「面白さ」でもある。ここまでエンターテインメントの意味を突き詰めた作品は、純文学と呼ぶべきかも。

映画化された「GO」にも、そんなぎりぎりのバランスが貫かれている。在日韓国人の抱える問題を扱いながらもディープになりすぎず、30代のスタッフの感覚が自然に表現されていた。時間軸を再構成した脚本のセンスは素晴らしく、キャスティングも的確。窪塚洋介は、ヒネクレ者でありながらロマンチストな発展途上の男、杉原に息を吹き込んだ。スタッフもキャストも皆、原作に惚れているのだとわかる。

男の子がまともな反抗期すらもてなくなっている今、山崎努が熱演する最強の父親像は魅力的だし、きちんと人と向き合い、距離を測り、自己紹介し、それでもわかんない奴は殴るというコミュニケーションの古典的作法も新鮮。村上龍の「最後の家族」でひきこもりの長男の暴力が迫力に欠けるのは、戦う相手や打ち破るべき枠が見えにくいからだ。あの家族が現代の主流だとすれば、マイノリティを描いた「GO」は圧倒的にかっこいい。杉原の友人のセリフは、多数派の情けなさを代弁しているといえるだろう。
「これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」

無敵の杉原も、桜井(柴咲コウ)と出会うことで何かが狂う。失いたくない女の出現によって、男は初めて臆病になるのだ。だが、全身でぶつからなければ恋愛は進まない。それは、いつもバトルなのだと私は思う。重要なのは一線を超えることではなく、ぶつかること。異質な者どうしが理解しあうには、そうするしかないわけで。

「GO」のベッドシーンは、とても美しい。杉原は、桜井と一線を超える前に国籍を打ち明けるのだ。私は、村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の最も美しいシーンを思い出した。それはキクとアネモネが初めて結ばれた後の描写。

「服を着終わったキクは、帰る、と小さな声で言った。アネモネは喉が引きつった。どうしたらいいのかわからなかったが嘘だけはつくまいと決めた。行っちゃだめ、キク、ここにいて、行っちゃだめ。キクは立ったまま、俺は、と言って言葉を呑み込んだ。深呼吸をしながら窓際まで歩いた。『俺は、』カーテンを開けてもう一度言った。(中略)俺は、コインロッカーで生まれたんだよ、でも、俺は、お前が好きだ、お前みたいなきれいな女は―、アネモネはキクの唇を指で塞いだ。何も言わなくていい、と囁いた。肩に手をかけて背伸びし頬を合わせる。濡れたアネモネの髪の先から水の粒が落ちて鳥肌の立った背中で割れた」

「コインロッカー・ベイビーズ」も「GO」も、システムへの憎悪と破壊へのエネルギーをもてあます男の子の成長物語だが、2つの作品の間には20年の隔たりがある。キク(肉体性)とハシ(精神性)の両方を備えた現代のヒーローである杉原は、だから、彼女を手に入れる前に国籍を告白し、こう言われてしまう。

「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない(中略)ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて」

女の子の、切実な気持ちが現れたセリフだと思う。
でも、2人は終わらない。本戦はクリスマスに始まるのだ。

2001-11-14

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『溺れる魚』 堤幸彦(監督) /

クボヅカくんの、時代

窪塚洋介が、キムタク以来といっていいほどのブームになっている。野島伸司脚本のドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」(金曜夜10時からTBSで放映中)の彼は、とりわけすごい。何がすごいのか? 窪塚くんがセリフを言うと、それは実在の言葉となる。窪塚くんが誰かを見つめると、それは実在の恋愛になる。

彼の魅力って一体なんだろう? セクシーにして清純、野島的デカダンスの最高の体現者であることは確かだと思うけど・・・・・ドラマの初回から、彼のことが気になって気になって気になって仕方なかった。

あまりにも気になったので、映画「溺れる魚」を見た。窪塚ブームの走りとなったドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の堤幸彦監督による映画である。浅田彰氏は、2月13日付の「i-critique」(iモードサイト内のコラム)の中でこの映画の窪塚くんをこう評している。「ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう」。

窪塚くんは、確かにヘナヘナだった。女装趣味でマゾの巡査という役柄であるからして、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」のような正統派の恋愛シーンはない。要するにまったく違うキャラクター。だけど、スクリーンの中の窪塚くんは、やっぱり実在の人間なのだった。

「・・・・・この映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる」と浅田彰氏は書いているが、窪塚くんの存在こそ、現代の日本なのだと思った。今っぽい気分を象徴する無数のアイテムや、超いい加減なセリフに満ちたはちゃめちゃな映画。その中心に窪塚くんがヘナヘナと立っている。ヘナヘナとは、言い換えれば、男女を超え、主義を超え、現実とフィクションを超え、その場の役になり切るしなやかさ。現代を生き抜くために必須の武器だろう。

ずっとこのままでいるのは、さすがにマズイのかもしれないけど、少なくとも今はこれしかないだろうっていう、そんな感じ。とりあえず、窪塚くんの時代なのだ。

*ロードショー上映中

2002-02-14

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