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『推し、燃ゆ』宇佐見りん

苦しみの終わりに、扉がありますように。

最近、いいなと思った書き出しが2つある。ひとつは、今年ノーベル文学賞を受賞した米国の詩人、ルイーズ・グリュックの詩「The Wild Iris(野生のアイリス)」の冒頭だ。声に出して読みたくなる英文に、久しぶりに出会ったような気がして震えた。

At the end of my suffering there was a door. (苦しみの終わりに 扉があった。)

米文学者の木村淳子さんが「私の好きな1編」として朝日新聞で紹介していた。彼女の詩は、簡潔な英語で書かれているけれど内容は深く、つらい体験をうたっていても、必ず光が見えるという。木村さんは2001年、この詩が収録された詩集をカナダの本屋で見つけ、手紙を出して本人の許可をとり、研究者仲間と編んでいた同人誌で12編の詩を紹介した。日本ではあまり知られていないこの詩人に、20年前から着目していた日本人がいたのである。

もうひとつは、今年『かか』で三島由紀夫賞を最年少受賞した宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』のタイトルと冒頭だ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

「推し」という言葉を初めて聞いたのは2010年だったと思う。AKBファンの友人が「推しメン」(=推してるメンバー)という言葉を教えてくれた。当時、友人の推しメンは、ゆきりん、きたりえ、さっしーの3人だった。今はどうなんだろう? 一方「燃えた」はネット上で炎上したという意味だが、「燃ゆ」といえばNHK大河ドラマのタイトルだ。1984年は「山河燃ゆ」、2015年は「花燃ゆ」だった。NHK大河ドラマをちゃんと見たことはまだないが『推し、燃ゆ』がドラマ化されたら、ぜひ見てみたい。

アイドルを追いかけている女子高生、あかりの話だ。何かに夢中になるってそれだけで幸せだと思うけれど、アイドルを追いかけるだけでは生きていけない。学校や家族や他のあれこれについては破綻寸前で、あかりの場合は病名までついているらしく、社会的にはうまくいっていないということになる。

だけど、推しの「真幸くん」についてあかりが書くブログは素晴らしい。自分の周囲にいる魅力的な人がアイドルに夢中になっていると、つい「もったいない」などと思ってしまうが、彼ら彼女らが魅力的なのは、「推し」のおかげなのだとも思う。

終わり方もよかった。ハッピーエンドと呼ぶにはひ弱すぎるのだけど、何かを全力で求め、それを失ったときにだけ得られる希有な風景が描かれていた。何かを失うということは、そこに素晴らしいものがあったことのまぎれもない証拠なのだ。それを愛したことを認め、全力で生きた日々を認め、自分を認め、弔うことができたとき、別の時間が動きはじめるのだろう。

2020-12-30

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『赤富士』黒澤明(監督)

見えない空気を凝視する 2

2015年10月8日、スウェーデン・アカデミーは、ベラルーシのロシア語ノンフィクション作家、スベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)にノーベル文学賞を授与すると発表した。ノンフィクションでの受賞、ジャーナリストとしての受賞、ベラルーシ人としての受賞、いずれも彼女が初めてだそう。500人の証言をもとに書かれた『チェルノブイリの祈りー未来の物語』(松本妙子訳・岩波書店2007年初版)で知られている。

「未来の物語」というサブタイトルの予言は的中した。アレクシエービッチ氏は、福島第一原発の事故直後、改めてこうコメントしていた。「わたしは過去についての本を書いていたのに、それは未来のことだったとは!」(中日新聞10月9日)

さらに日本の映画についてのコメントもあった。「原発の爆発が描かれた黒澤明監督の『夢』(1990)はまさに予言でした」(朝日新聞デジタル版10月8日)

『夢』は、黒澤明監督が見た夢を映像化した8話のオムニバス映画。アレクシエービッチ氏が言及したのはその中の『赤富士』だ。原発が次々と爆発し、富士山が真っ赤に溶解する中「狭い日本だ、逃げ道はないよ!」と叫びながら逃げまどう人々。人類は放射性物質を着色することに成功しており、赤はプルトニウム239、黄色はストロンチウム90、紫はセシウム137。だがそれは「知らずに殺されるか、知っていて殺されるかの違い」に過ぎないのである。

1990年にこの映画を見た時は悪夢だと思った。2011年にYouTubeで見た時は現実だと思った。2015年の今、もう一度見たら未来だと思った。黒澤明監督は、見えないものが見えても再び見えないふりをしてしまう愚かな私たちのために、放射性物質に毒々しい色をつけたのだろう。知っていて殺される未来が、迫っているのかもしれない。

着色された放射性物質が、最後に残った男女と2人の子供を包みこみ、この悪夢は終わる。いや、終わらない。『夢』という映画は、それぞれの夢が終わらずにつながっていく。

2015-10-10

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『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』 マーティン・スコセッシ(監督) /

帰るための旅や、目的地をめざす旅は、つまらない。

ボブ・ディランの映画なんていっぱいあるのに、なんで今さら? しかも3時間半!
だが、ちらっと目にしたモノクロのスチール写真は、公開中のほかの映画と比べると素晴らしすぎて、劇場に足を運ばずに済ますわけにはいかなかった。

現在のボブ・ディランの語りをベースに、アメリカとボブ・ディランの60年代くらいまでを検証するこの映画は、回顧的ではなく現在進行形。音楽がどうやって受け継がれていくかに焦点をあてたものだった。彼はフォークやロックの創始者というわけじゃなく、継承者の一人に過ぎない。それは、ごく普通の若者の軌跡のように見えた。ロックとは素直さ。かっこよさとは純度。そう断言したくなる理由は、彼の原点がバンドではなくソロだからだ。

昔の映像はもちろん、現在のボブ・ディランのかっこよさといったらどうよ? 彼は今もノー・ディレクション・ホーム、道の途中なのだ。「たいした野心があったわけじゃないが、自分のホームを見つけたかった」というような、みずみずしい言葉にあふれた10時間におよぶインタビューは、長年の友人が撮ったものという。D.A.ペネベイカーの「ドント・ルック・バック」(1967)のほか、アンディ・ウォーホルジョナス・メカスによる映像も登場し、イタリア系アメリカ人監督、マーティン・スコセッシのセンスが光る。

監督はインタビューの中で「今、世の中で起きているあまりにもたくさんのことによって自分自身を吸い取られるな」「ただ人が話をしているだけで、すばらしいロードムービーになりえるんだ」と言っていたが、ボブ・ディランが普通に話しているだけで、観客は心洗われてしまうのだから参っちゃう。人はこんなふうにしゃべればいいし、こんなふうに生きればいい。でも、それが難しいから、彼の発言のひとつひとつにクギづけになる。私たちの体はふだん、紋切り型のカサカサした安っぽい言葉に埋もれ、血が出そうになっているんじゃないだろうか。

ポリティカルソングの旗手として喝采を浴びたボブ・ディランがエレキギターを手にしただけで、ライブはブーイングの嵐。「商業的なポップミュージックじゃなくてフォークを聴きにきたんだ」と怒るファン。「この曲はどういう意味なのか?」と迫るマスメディア。しかし、今となってはジャンルなんてどうでもいいし、彼の詩に「意味」なんてない。ビート詩人アレン・ギンズバーグが「激しい雨」を聴いて自分もずぶ濡れになったと語るシーンや「ライク・ア・ローリング・ストーン」は50番まで歌詞があったという事実にこそ意味がある。ボブ・ディランは7年連続でノーベル文学賞候補になっているらしいけど、その理由がわかる気がした。

ファンは勝手だとか、マスコミは馬鹿だとかそういうことじゃなくて、通りすぎる景色というのは、自分とは関係ないことがあまりにも多い。困惑しながらも、そんな状況に対処するボブ・ディランの姿にはしびれてしまうけれど、心奪われるものだけに影響を受けていれば前を見失うことはない。インチキなものに取り囲まれていても、取り込まれないで生きることは可能なのだと、彼は、全力で示した。

How does it feel どんな気分?
To be on your own ひとりぼっちで
With no direction home 帰る場所もなく
Like a complete unknown だれにも知られず
Like a rolling stone? 転がる石のように生きるのは

*シアター・イメージフォーラム、シアターN渋谷、吉祥寺バウスシアターで上映中

2006-01-26

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