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『ラ・ラ・ランド』デイミアン・チャゼル(監督)
『幽体の囁き』落合陽一

ラ・ラ・ランドとは、現実逃避の世界のこと。

ハリウッドを舞台に、過去へのオマージュを盛りこんだ恋愛ミュージカル映画。主人公はセブ(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)。50年代風エッセンスの効いたファッションの数々に加え、セブは古いジャズを愛し、自国の古いオープンカーに乗っている。だけど、ハリウッド女優を目指しながらカフェで働くミアの愛車は、プリウスだ。奇しくもトヨタは今月、ハイブリッド車の世界販売台数が1000万台を超えたというニュースを発信したばかり。パーティで運命的に再会した二人は、帰り道、悪態をつきながらも、たくさんのプリウスからミアのプリウスを探す過程で接近していくのだから、まるでトヨタのCMみたい。

女優になりたいがオーディションに落ち続けるうちに自信を失っていくミアと、ジャズを自由に演奏できる店を持ちたいが資金稼ぎを続けるうちに信念を曲げていくセブ。好きな道をきわめたいというピュアな夢が、才能やお金の問題に阻まれる話だ。彼らは夢の途中にあり、ミアのダンスもセブのピアノも、完璧ではないからこそ心に響く。俳優たちが、映画のために時間をかけて何かを練習したという事実が、ストーリーに重なるからだ。夢を追うことについての家族からの現実的な苦言や、二人の痴話ゲンカのしょぼさも、プリウス登場の喜びとともに、日本人のやわな心を直撃する。
 
叶いそうにない夢も、強い思いがあれば叶うし、できそうにないことも、強い技術があればできる。それがハリウッド映画のセオリーだ。スマホ時代に突入し、私たちは、できそうもなかった多くのことができるようになった世界に生きている。だが、中には不可能なこともある。それは、過去に戻ることだ。これまでも、過去を書き換えるべく奔走するたくさんの映画がつくられてきたけれど、最近、そのジャンルは再び加速している。『君の名は。』や『君と100回目の恋』はもちろん、『ラ・ラ・ランド』にまで、タイムスリップの要素が入っているなんて。今、人間にとって、叶わぬロマンチックな夢といったら、もはや時間を巻き戻すことだけなのかもしれない。

過去に戻ることって、本当にできないのだろうか? 六本木ヒルズの東京シティビューで開催中のメディアアート展「Media Ambition Tokyo 2017」で、時間に関する展示をふたつ見つけた。ひとつは後藤映則氏の『toki- series_♯01』。人体の動きの変化を時間の流れとして立体化し、3Dプリンターで出力したオブジェだ。時間の端と端をつないで光を当て、動きを無限ループさせた美しい作品で、多くの人の目を引きつけていた。

もうひとつは、落合陽一氏の『幽体の囁き』。何もない空間に過去の気配を蘇らせる作品だ。超指向性スピーカーを使った空間音響技術で、カプセルに入るのでもなく、ヘッドホンを装着するのでもなく、開かれた空間の中で、身体が「気配」に包まれる。廃校となった中学校の校庭に展示された作品らしく、テーマが「教室の気配」だったから、まさにタイムスリップ。森タワー52階の夜景には、いかにも先鋭的なテクノロジーアートが似合うと思いきや、ふいにパーソナルでノスタルジックな気配に包まれる体験には、予想外のインパクトがあった。

自分が生きてきた感覚のすべてを、体内に埋め込んだ装置で記録できれば、いつでも過去の好きな時間の気配に戻れるようになるかもしれない。やり直したい瞬間に戻れば、時間の経過とともにふくらませてしまったネガティブな妄想を軌道修正できるかもしれない。もっと踏み込んで、自由に過去を編集しちゃってもいいのかもしれない。何より、好みの気配にいつも包まれている感覚は、香りや化粧品、ランジェリーの世界に近くていいなと思う。ヘッドホンもメガネも、重すぎるからつけたくない。こんな柔らかな現実逃避の世界(=la-la-land)が手に入る日は、いつになるだろう?

2017-2-28

amazon(ラ・ラ・ランド)

『熱波』 ミゲル・ゴメス(監督)

人生は、2部構成の美しい熱。

ポルトガルの俊英、と注目されているミゲル・ゴメス監督のデビュー作『自分に見合った顔』(2004)を見た。日本初公開だって。それはそうだろう。極彩色のミュージカル版パーマネント・バケーションにヨス・ステリングのイリュージョニストをまぶしたような悪趣味なはじけ方に、ショックで熱が出そうになった。

第1部「学芸会」は、子供たちが演じる白雪姫をベースに、ウクレレでハイホーを演奏し毒リンゴを食べて倒れるカウボーイ姿の主人公を描く。30才の誕生日、彼が鏡に映った自分の顔をのぞきこむシーンから第2部の「はしか」が始まる。そこからは、彼のために集まった7人の男たちが営む変態チックな共同生活が延々と続くが、要するに<はしかにかかった30才の男(白雪姫)が、7人の男に自分の顔を投影する物語>ってこと? 7人の1人、テキサスという男の<目隠しされた顔>が、その象徴だ。

ゴダールの失敗作を見ているみたい。これ以上の悪夢があるだろうか。っていうか、なぜこれが立ち見なわけ? 目隠しされた男のせい? 2部構成のおかげ? 第1部がミュージカル風のリアル寓話で、第2部が妄想。その切れ目のなさは確かに心地いい。主人公は鏡をのぞき、妄想の世界に入っていく。人生を2ステップで理解すれば、何でもできるのではないかと思った。なだらかな踏み台があれば、どんなディープな世界にもそのまま飛び込んでいけるかもしれないなと。

数日後に見た新作の『熱波』(2012)も2部構成。こちらは<昔の愛人の葬儀に呼ばれた老人が、若き日のアフリカでの情事を回想する物語>だ。原題は『TABU』で、ムルナウの同名の2部構成映画へのトリビュートであることがわかる。デビュー作との最大の違いは、全編モノクロであること。第1部「失われた楽園」(現代のリスボン)から第2部「楽園」(1960年代のポルトガル領モザンビーク)への入り方がスムーズだ。デビュー作では「はしか」で寝込んでいた妄想時間が、新作では「楽園」の回想時間になったというわけだ。

老人ホームに入居しているベントゥーラを、昔の愛人アウロラの葬儀にクルマで連れ出したのは、ピラールという初老の女性。彼女が第1部の主人公であり、笑わない演技が光る女優、テレーザ・マドルーガが演じている。ピラールはアウロラの葬儀の後、ベントゥーラをお茶に誘い、結果としてアフリカ時代の話を引き出すのだが、なぜ彼女にそんなことができたのか。あまり楽しそうには見えない日々の中でも、ピラールは他人のために祈り、淡々と鋭敏に生きている。隣家に住むアウロラとアフリカ系のメイドから頼られ、社会活動に参加し、映画館へ通い、男友達に口説かれる。男友達から贈られた絵は礼儀として居間に飾り、隣家のメイドの誕生日には手作りのケーキとシャンパンを届け、ホームステイをドタキャンし彼氏とリスボンで過ごす学生にすら英語で語りかけおみやげを渡す。そんなピラールが、アウロラの禁断の秘密を受け取る役に選ばれたのは、自然の流れといえるだろう。

第2部はベントゥーラが語る楽園の日々。ロネッツの「Be My Baby」のポップな旋律がいざなう1960年代の記憶だ。リスボンの冬の数日間の重さとは対照的に、12月も1月も2月も3月も変わらぬ暑さで思考を剥奪するモザンビークの歳月がサイレント映画のように流れていく。

若き日のベントゥーラはジェノヴァを追われ、友人とともにアフリカに流れついた遊び人。投げやりな人生でありながら、アウロラのことだけは最後まで守りきる。その辺の遊び人の不倫とは格が違ういい話なのだ。演じているのはポルトガルが世界に誇るイケメン俳優、カルロト・コッタ。『自分に見合った顔』では目隠しされたテキサスを演じていた。

キャスティングと音楽、テーマモチーフであるワニが『熱波』の鍵。あとは、ボルトガルの歴史と、笑えない笑いの要素。『自分に見合った顔』では、大人になりきれない主人公が、30才の誕生日にガールフレンドから巨大なワニのぬいぐるみをプレゼントされていたっけ。
 
ショックで熱が出そうになったデビュー作も、『熱波』のおかげで美しい記憶になりつつある。この監督の登場で、もう、大昔の映画のほうが今の映画より断然いいなんて思わなくてすむかな。いつの時代も、その時代のクリエイターが、その時代を生きる人のために、過去を新しい形で継承していく。

2013-08-03

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『ニール・ヤング武道館公演』 /

ニール・ヤングvsエリック・クラプトン

1945年生まれの2人のギタリストが、来日した。ニール・ヤングエリック・クラプトンである。

ニール・ヤングについては、多くを知らない。だいたい、クラプトンの100分の1くらいしか情報が入ってこないし。2年おきに来日しているクラプトンに対し、ニール・ヤングの単独来日公演は14年ぶり。クラプトンの18公演(11/15~12/13)に対し、ニール・ヤングは4公演(11/10~15)なのであった。

先週、日経新聞の「準・私の履歴書」とでもいうべき「人間発見」というコーナーに、クラプトンのインタビューが連載されていた。彼は去年再婚し、娘が2人生まれたことで「人生で音楽より重要なもの」を手に入れてしまったという。「いま困難な状況に陥っても、昔のようにギターに助けを求める必要はありません。妻や子供たちのもとに帰ればいいんですから」とクラプトンは言うのだった。

一方、ニール・ヤングはいまだに走り続けている。「デッドマン」(1995・ジョニー・デップ主演)の音楽を担当した時には、映像を見ながら即興で2時間ギターを弾き「どこをどうやって使ってもいいから」と監督のジム・ジャームッシュに渡したという。これがもう最高のロードムービー感をかもし出しており、これを超える映画音楽が一体どこにあるだろうか?と痺れたものだった。

そんなニール・ヤングが来日したのである。私は2日目の武道館公演を見に行ったが、まずはその客層に驚いた。こんなに年齢層の高いライブは初めてだし、日本人も外国人も、ふだん街で見かけないようなタイプばかりなのだ。格好なんて気にしないぞって人も多かった。つまりニール・ヤングのような人たちが中心。ライブの見方も真剣でコワイのである。ニール・ヤングもすごいが、客席はもっとすごく、2階席の1番前という素敵な席でずっと座って見ていた私もへとへと。隣にいたカナダ人のおっさんが「お前にわかるんかい?」という感じで時々こちらを見るのもプレッシャーであった。

後半のギタープレイはあまりにもしつこくて、1曲1曲がなかなか終わらなかった。ラストの「ライク・ア・ハリケーン」に至っては、最初の音が出てから曲がちゃんとスタートするまで、10分以上かかっただろうか。長い長い演奏が終わりに近付き、そろそろ終わるかなと思ってから完全に終わるまで、さらに10分引っ張った。

前半は「グリーン・デイル」という架空の町を舞台にしたミュージカル風の構成で、同タイトルのニューアルバムを順番通りに演奏した。内容は、土地と家族をめぐる究極の旅。フォークナーのような中上健次のような浅井健一のような浜田省吾のような世界が、チープにして壮大なステージで繰り広げられるのである。最後はキャスト総出演で踊り、星条旗を振るが、ニール・ヤングはカナディアンだし、911テロ後のチャリティ番組で放送自粛の「イマジン」を歌った人でもある。もう、ぜんぜん誰にも媚びていない。男の子というものは、自分が何のために生まれ、どこへ行き、何を捨て、どうやって死ぬのかを考えるために旅に出たりするものだが、ニール・ヤングはまだ、旅の途中である。

日本語の字幕なんて、もちろんない。彼は延々と英語で語り、延々とギターを弾く。ニール様が発した日本語といえば冒頭の「どうもありがとう」のみ。しかも、ものすごく下手だった。

あとで聞いたところによると、武道館の初日、ニール様は「ライク・ア・ハリケーン」を演奏しなかったという。ブーイングの結果、2日目には仕方なくやることにしたんだろうか。すごすぎだ。孤高のロッカーは生涯現役。ちっとも成熟していなかった。

2003-11-24

amazon(ニール・ヤング / ジャーニーズ)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 ラース・フォン・トリアー(監督) /

逃避としてのミュージカル映画

「説得力のあるミュージカル映画」である。ドキュメンタリー的なシーンと、つくりこんだミュージカルシーンの対比が印象的。ビヨーク演じる主人公は、ちょっとした物音に反応し、それは空想の中で音楽となり、やがて皆が踊り出す…….ミュージカルは、つらい状況にある彼女にとって「もうひとつの現実への逃避」なのである。そこでは皆がいい人になり、悲惨なシーンを補うような形で互いに許し合う。ミュージカルとは、絶望的な現実の中での自在な想像力なのだ、とこの映画は教えてくれる。

手持ちカメラによる日常シーンにはわくわくするし、いくつかのミュージカルシーンにもぞくぞくする。機械の音、風の音、列車の音がリズムを刻みはじめ、音楽になっていくプロセスは最もシンパシーを感じる部分だ。しかし、物語は次第にドラマチックになり、説明的な過剰表現へとエスカレートしていく。

60年代アメリカの片田舎。そこに移民してきた東欧の女(ビヨーク)は、失明寸前にもかかわらず、女手ひとつで息子を育て、危険な工場での昼勤と夜勤に加えて内職までこなし、トレーラーハウスに住む。眼の病が遺伝することがわかっていながら息子を産んでしまった彼女としては、彼の失明だけはなんとしても食い止めなければならない。だが、息子の手術のために貯めたお金は、秘密を共有した男友達に盗まれ、彼女は男友達を殺す「はめ」になる。裁判では息子のため(今、息子に眼のことを知らせると精神的ダメージにより手術は成功しないのだそうだ!!)、そして男友達との約束のため(彼女は息子思いなだけでなく、根本的にけなげなのだ!!)、真実を語らない…….。

これって、美しい話だろうか? 都合よくつくりすぎな感じは、まさにおとぎ話だ。「失明の部分は、別の作品に影響され、あとから加えた」というような監督のインタビューを読み、ますますそう思った。不治の病というのは、そんなふうにあとから軽々しくつけ加えるべきテーマではないのでは?と私は思う。

裁判における類型的な図式もすごい。移民である彼女は、エリートである男友達との対比において圧倒的に不利であり、観客は「弱くて正しい者の悲劇」に涙せざるを得ない….。ところが、飛行機恐怖症の監督は、裁判の国でありミュージカル発祥の国でもあるアメリカに一度も行ったことがないそうで、ロケはすべてヨーロッパでおこなわれた….。要は、この映画のすべてがセンチメンタルな幻想なのだという気がした。彼女がミュージカルに逃避するのと同様に、映画自体もまた、幻想の世界に逃げている。

好意的に解釈するなら、20世紀を総括する映画としてふさわしい懐かしさと力強さに満ちている。よくも悪くも「大作」なのだ。さまざまな名作のオマージュ的なシーンが楽しめるし、ミュージカルの意味を問い直す批評的視線は新しい。ビヨークの曲、歌詞、表情、動きは才気にあふれ、脇役としてのカトリーヌ・ドヌーブも、ただものではない演技を見せてくれる。

*ロードショー公開中(2000年 デンマーク映画)

2001-01-06

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