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『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー(監督) /

恋愛は、クスリより輝けるか?

いい映画は、体に刻まれた記憶のようだ。
まるで自分の体験みたいに、懐かしく思い返すことができる。

「レクイエム・フォー・ドリーム」を見終わった後、頭が痛くなった。ヒップホップ・モンタージュと名づけられた神経症的な薬物使用シーンが何度も繰り返されるせいか、自分までヤク中にさせられちゃったような気分になるのだ。

主人公のハリー(ジャレッド・レト)と、彼の恋人マリオン(ジェニファー・コネリ)、彼の母親サラ(エレン・バースティン)、彼の友人タイロン(マーロン・ウェイアンズ)の4人が際限なく墜ちていく様子が描かれる。クスリに依存すれば、ここまで悲惨なことになるのだということを徹底して追及した作品。彼らが依存しているのは表面上はクスリだが、実は愛情だったりするものだから、その根は深い。

図らずも、数日後に私が思い返したのは、美しいシーンばかりだった。ストーリーの枠組みを超える俳優たちの存在は大きい。彼らは苦しみ、狂気に陥り、本当にやつれたりするが、それでもなお魅力的だ。最もインパクトのあるのは後半の母親で、最も身につまされるのは、ごく普通の恋人どうしである前半のハリーとマリオン。恋愛は退屈な日常をドラスチックに変え、しらふの2人を昂揚させる。一緒にいれば何とかなるんじゃないかという甘い期待に依存しあう無力な2人。恋愛の初期スパートは、それだけで薬物と同様の効果をもつのだ。

それでは、恋愛の純粋な昂揚感は、一体いつ失われるのだろう。相手を知り、慣れ親しむことがなぜ、エゴをむきだしにしたり嘘をついたり倦怠を感じたりすることにつながるのだろう。どこで何が狂うのか。

そんな不安を先延ばしにしてくれるのがクスリだ。永遠に続くかと思われる昂揚感。全能感。幻覚。幻聴。それは、自分の限界を認めることへのささやかな抵抗であり、普通だったらあきらめるような事柄に根拠のない自信を抱くための手段である。しかし、ダメなものはダメで、かような恋愛はいずれ破綻へと向かうはずなのだが、この映画は、恋愛のラスト・スパートとでもいうべき可能性の片鱗を見せてくれる。

ハリーからの最後の長距離電話に「今日、帰ってきて」というマリオン。「きっと帰る」とこたえるハリー。2人とも、無理だとわかっているのに交わすウソの会話。だが、2人の言葉は圧倒的に真実だ。だって、恋愛において重要なのは、今すぐ会う、ということに尽きるのだもの。たとえ会えなくても、そういうシンプルな気持ちを表現すること。それ以外に恋人どうしが伝え合うべきことなんてあるのだろうか?

もちろんハリーは帰れず、2人はさらなる地獄を見ることになるのだけれど、魂を射貫くような電話のシーンのおかげで、彼らはこのままでは終わらない、と信じたくなった。

*2000年アメリカ映画/北海道・東京・愛知・京都・兵庫・広島・福岡で上映中

2001-08-17

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『A.I.』 スティーブン・スピルバーグ(監督) /

愛とは、同じ時代に死ぬこと。

同級生が亡くなった。彼女が好んだスマップの曲が、葬儀上のすみずみにまで絶え間なく流れ、花に埋もれた彼女の顔は、まるで白雪姫のよう。私は、笑ってるんだか泣いてるんだかよくわからないサイレント映画のような参列者たちを見回す。100年後には、おそらく全員が死んでいるのだろう。彼女はほんの少し、早かっただけなのだ。

「A.I.」を見た。映画には、お金のかかった映画とお金のかかっていない映画の2種類があるが、この映画はもちろん前者。平日なのに行列ができていて驚く。劇場の広さに驚く。冷房の強さに驚く。パンフレットの大きさに驚く。音響の迫力に驚く。ハリウッド系の大作映画を見るのは久しぶりなのだった。

愛という感情をインプットされたA.I.(人工知能)の子供、デイビッドと、彼のパートナーとなる旧式のスーパーロボット、テディ。彼らの「完璧ないたいけなさ」があざとすぎずに済んでいるのは、「A.I.」が、数千年にわたる技術の進化を軸に繰り広げられるクールで壮大な物語だからだ。

ある家庭にデイビッドが試験的にやってきて、捨てられるまでの話は、かなり面白い。感情をもったロボットが、日常生活でどこまで受け入れられ、どの辺が問題になってくるのかを丁寧にシミュレーションしてくれる。この映画、この部分だけでもよかったかも。

デイビッドの冒険が始まる第二章は、SFXのオンパレード。このあたりから私は眠くなってくる。まるで徹夜明けにディズニーランドに遊びにいったような気分だ。 「手に汗握る技術自慢のシーン」こそがハリウッド映画の真骨頂なのだろうが、おかげで、どの映画も画一的な印象に見えてしまう。かなり残酷な内容であるというのも、お決まりのパターンか。ファンタジーとはいえ、いや、ファンタジーだからこそ、暴力や差別意識への予定調和的な想像力が、私は怖い。

泣かせるための強引な設定も、気になるところ。この作品のキモとなるクローン再生技術については、「1回限り・しかも有効期間1日」というタイムリミットが説明されることで、ずいぶん白けてしまう。

とはいえ、ディズニーランドは楽しい。よくできている。永遠に死ぬことのない人形や動物や超人が「人間になりたい」と願う話はよくあるが、「A.I.」は、この定番化されたストーリーを美しくスクリーンに定着することに成功していると思う。 水に包まれた近未来と、さらに2000年後の氷に包まれた世界が、甘すぎるファンタジーを冷たく中和し、忘れがたいシーンとして脳裏に刻まれる。

たまたま同じ時代に生き、同じ時代に愛し合い、同じ時代に一緒に死んでいく偶然とは、なんとかけがえのない摂理だろう。誰もが恐れている死の概念を、限りなくやさしく描くラストシーンには、力づくで泣かされてしまう。

*2001年 アメリカ映画

2001-07-22

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『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

チープでリアルな殺戮と笑い。

戯曲「兵士たち」の映画化にあたり、ロッセリーニがシナリオ案をテープ録音し、ゴダールが監督した1963年の映画。冒頭に引用されるのはボルヘスの言葉だ。「進展すればするほど私は単純さに向かう・・・」

映画館へ向かう途中、iモードで上映時間を確認すると、「ミリタリーファッションの人は200円引き」とあった。たまたま「ちょっとだけミリタリーっぽい服」を着ていた私は、入り口で「この服、ミリタリー色なんですけど」と言ってみたい衝動にかられ、実際、拍子抜けするほどすんなりと200円引きで「カラビニエ」を見ることができたのだった。

この手の割引制度って、一体何なんだろう?「ノー・フューチャー」では、ギター持参なら200円引きだったし、「バッファロー’66」は赤い靴と銀の靴のカップル割引があった。「オール・アバウト・マイ・マザー」は母子割引、7月14日よりロードショーの「白夜の時を越えて」にいたっては、双子なら1人500円で見れるという。

単なるお遊びなんだろうけど、今回の「ミリタリー企画」は、アバウトさが映画の内容に妙にハマっていた。だって、監督のコメントによると、カラビニエ(カービン銃の兵士)の軍服は「帝政ロシア将校の軍帽」「イタリアの鉄道の車掌の上衣」「ユーゴのパルチザンの長靴」などの混ぜ合わせ。この作品は、現実の戦闘シーンのフィルムを引用しながらも、メインはどっかその辺の広場で撮ったという印象の、キッチュな「戦争ごっこ映画」なのだ。

「愉しみはTVの彼方に」(中央公論社)の中で、金井美恵子は言う。「『カラビニエ』を見たら、自分たちにでも映画が撮れそうだと信じる人々があらわれることに、何の不思議もない、ということがわかるだろう。カメラマンと何人かの出演者(もちろん素人でいい)と、なにより”ゴダールがいれば”、無謀にも、映画は撮れるのだ」。
「カラビニエ」と「パール・ハーバー」(見てないけど)の違いは、まるで「iモードゲーム」と「プレステ」(やったことないけど)の違いのよう。「リアリズムとは、真の事物がいかにあるかではなく、事物が真にいかにあるかということである」というゴダールの言葉は、冒頭のボルヘス的な世界観につながっている。お金をかければリアルな体裁の映画は撮れるだろうが、リアルな中身が宿るとは限らない。

徴兵される兄弟の弟が、初めて映画を見るシーンの初々しい描写はロッセリーニっぽい。彼は走ってくる機関車の映像にのけぞり、入浴する美女のバスタブを覗こうと立ち上がる。挙句の果てにバスタブに飛び込もうとしてスクリーンを引き裂いてしまうのだが、それが単なるコントで終わらない理由は、剥き出しになった壁面に映画が映り続ける様子が、リアルな驚きを含んでいるからだろう。3人の兵士が氷った川をつるつるすべりながら下るシーンにも、ばっかじゃないの!と思わず笑ってしまう。

戦争における非情な暴力をミニマルな視点で描きつつ、兵士という存在の馬鹿らしさ、情けなさ、人間らしさに迫った傑作だ。とりわけ、兄弟がセクシーな母と妹に、キッチュな「戦利品」を次々に披露するクライマックスは、そのシーン自体のキッチュさとともに忘れがたい。

ゴダールの映画らしく、当時のファッションやクルマ、2人の女優(プログレッシブ・ロックの頂点をきわめたカトリーヌ・リベイロ&2年後にエマニュエル・ベアールを産むことになるジュヌヴィエーヴ・ガレア)の魅力も楽しめる。女は意外とちゃっかりしており、男は意外と情けないという図式は、いつの時代も変わらないのか?

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2001-07-10

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『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。

成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中

2001-06-19

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『ベレジーナ』 ダニエル・シュミット(監督) /

負けるな!高級コールガール。

耽美的な作品という予想を軽やかに裏切るオープニングだった。 だって、いきなり主演女優らしき女性が銃殺され、シーンは一転。個人的に最もかっこいいと思う映画のひとつ、トリュフォーの「柔らかい肌」のラストを思わせる歯切れのよさだ。つかみはオッケー。

ダニエル・シュミットの近作は、舞踏家の大野一雄を密着撮影した「ダニエル・シュミットの大野一雄」(95)と坂東玉三郎が主役の「書かれた顔」(95)。 日本を舞台にした、えもいわれぬ映像の美しさに衝撃を受けた。 今回の「ベレジーナ」は、スイス人の彼が自国と正面から向き合った作品だが「スイスってこんな国なの?」という驚きがあり、心地よく混乱した。スイスに関する知識がないと、一体どこまでが本当なのかまるでわからない。もしかして冗談?と気付くまでに時間がかかった。そう、この映画は、正統派ブラック・コメディなのだ。

それでも私は、最後までマジメに見た。冗談だとしてもパロディだとしても、それらを含めた「本当のスイス」が描かれていると感じられたから。 笑えるシーンはたくさんあるが、何よりも圧倒的に感動した。スイス人が愛を込めてスイスを撮る。皮肉や批判もすべて撮る。そのシンプルな姿勢が、永世中立国の光と影を浮き彫りにしている。かなり過激な問題作だが、観光ガイド的な撮られ方ではない、リアルな息遣いの作品だからこそ、スイスの魅力を肌で感じることができたのだと思う。

ロシアからきた「スイス好きの高級コールガール」を主役にした点が秀逸。彼女の魅力は本当に素晴らしい。コールガールという職業をこれほど肯定し、魅力的に描いた作品があるだろうか。スキャンダルにまみれた政財界の要人たちが彼女のもとへ通い、つかのまの変態プレイ(レザープレイ、首締めプレイ、女装プレイ、戦争ごっこなど)を楽しむ。スイスを愛し、伝統的な民族衣装が似合う彼女を、愛国主義の元陸軍少尉は「可愛いスイス娘」と呼び、地下に張りめぐらされた国家機密基地にまで案内しちゃうのだが、このセットで繰り広げられる幻想的なシーンには泣けてしまう。

彼女は、パトロンたちを「お友達」と呼び、皆がよくしてくれて私は幸せです、と故郷に手紙を書く。スイス国籍を取得して家族を呼び寄せたいと願う彼女は、少しずつ夢に近づいていくのである。故郷では母親らしき女性が大家族の中心に立ち、彼女の手紙を読み上げるが、これはもう、笑いながら泣いちゃうっていう領域。

無垢で世間知らずなコールガールが、体目当ての男たちに騙されている―という典型的な構図ではあるのだけれど、パトロンたちが彼女にひかれ、彼女とすごす時間は嘘ではない。そう思える。政治的な世界を生きる彼らは、彼女との約束を結局は守れなかったりするが、そのことがそれほどひどい仕打ちとも思えないのは、描き方のベースに愛があるからだ。これは女性賛美の映画だろうか。それとも、監督のスイスへの思いがそう見せるのだろうか。 死を決意した彼女が軍帽をかぶり、ある命令をくだすシーンは、めちゃくちゃかっこよくて惚れた。忘れられない。

正統派コメディの本質は、愛なんだと思う。だから、ラストもぶっ飛んでいて、いい。スイスに一度も行ったこともない私を、たった1本の想像力にあふれた映画が「スイス好き」にしてくれた。

*ユーロスペースにて上映中/1999年 スイス・オーストリア・ドイツ合作

2001-05-24

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