MOVIE

『エスター・カーン めざめの時』 アルノー・デプレシャン(監督) /

シンデレラ・ストーリーの嘘。

見たくないものを見せつけられる2時間25分。
殻に閉じこもった女が、それを打ち破るって、こんなにも大変なことなの?

ロンドンのユダヤ人街で育ったエスター・カーン(サマー・フェニックス:故リバー・フェニックスの妹)は、家族の中でも浮いてしまうほど内気で頑固で可愛げのない少女。理想の高い彼女は、やがて芝居に触発され、女優をめざすことになる。

もっとも女優に向いていないタイプの女が、女優に開眼するという話。それは怨念といってもいい。老優から演技指導を受け、「君には何かが欠けている。恋をしろ」といわれた彼女が、演劇評論家の男を選び、処女を失うくだりの不器用さには、不幸を超えた凄みがある。自分で相手を選び、自分で望んだできごとなのに、そこには恋愛の楽しさなんて微塵も感じられないのだから。貧しい家庭に育ち、満足に教育を受けていない彼女の野性は衝撃的。私たちはふだん、周囲の人々に愛され、美しく社交的に育った女性たちを見慣れすぎているのだろう。

エスター・カーンは、演劇評論家に別の女ができることから嫉妬に狂い、周囲に迷惑をかけまくる。それはほとんど「困ったちゃん状態」で、「手におえない嫉妬やわがままが許されるのは、明るくて魅力的な女だけじゃなかったっけ?」といいたくもなってしまう。恋愛の本当の楽しさ以前に、本当の苦しさを知ってしまった彼女は、自分の顔を何度も殴りつける。この凄まじい自傷シーンは、本来なら封印されるべきものだ。

こんな映画は、一人で見にいくしかないじゃない? 少なくとも、私は誰も誘えない。暗いし長いし悲惨だし。それでも、これを今、日本で見ることのできる幸福を強く感じた。

口当たりのよい物語や、興味本位の映像の断片に慣れきった目には、一人の監督の思いが注入された陰鬱な映画が安らぎと映り、灰色に閉ざされたイーストエンド・ロンドンの古い街並みや寒々した気候さえもが心を浄化してくれるのだろうか。この作品は、現実逃避のためのエンターテインメントでもなく、どこかの国のPR映画でもない。

エスター・カーンは結局、真の女優となることに成功するのだが、この結末はハッピーエンドですらない。単なる可愛げのない少女が、今後は、単なる屈折した女優になっていくことを予感させるのみだ。ちまたにあふれるシンデレラストーリーの、なんと表面的であることか。どんな物語も、人の醜さを本質的に変えることはないのである。

自己表現の手段を獲得することで苦しみが軽減されるなんて幻想だし、軽減されることがないからこそ、彼女はずっと女優でいられるのだろう。それは、表現や職業への逆説的な希望でもある。彼女は、これまでと同じように、一生、醜い人生を送るにちがいない。不器用に男に体当たりし、自分を殴り、共演者に迷惑をかける。でも、それでいいのだ。 私は表面的な希望の物語が嫌い。この映画は好きだ。

*2000年 仏・英合作
*東京(11/9まで)愛知(11/23~)大阪(11/24~)札幌(12/1~)

2001-11-06

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『路地へ 中上健次の残したフィルム』 青山真治(監督) /

言葉より前に、風景がある。

ユーロスペースの狭いロビーの隅に、エキゾチックな雰囲気の女性が佇んでいる。中上健次の長女で、作家の中上紀だとすぐに気づいた。「路地へ」の上映後、彼女と堀江敏幸のトークショーがおこなわれるという。ラッキー。

地味な印象の男(紀州出身の映像作家、井土紀州)が運転する地味な印象の国産車。その後部座席から撮った映像が延々と続き、ただひたすらクルマが走るだけで、十分に面白い映画ができるんだなってことがわかる。ダム工事だけを撮ったゴダールの「コンクリート作戦」もそうだけど、まさに映画の原点。「路地へ」の場合、あとから音楽をつけていたのがちょっと残念。エンジン音のみのほうが気分が盛り上がったのに。

ほぼ同様のルートを走ったことがあるので、映像による追体験はとても楽しかった。中上紀によると、父親の生前、毎年家族で帰省していたのと全く同じルートだという。

クルマを降りた井土紀州は、中上健次の小説の断片をさまざまな場所で朗読する(中上紀は、紀州弁の朗読を素晴らしいと誉めた)。 そして、ときおり挿入される色の濃い映像が「中上健次の残したフィルム」だ。かつての路地の輪郭は、井土紀州が立つ現代の白っぽく抜けのある風景とは対照的で、被差別部落と呼ばれた場所が本当に失われてしまったのだということが伝わってくる。

中上健次は、空をほとんど撮らず、路地の隅々を記録している。そこに宿っているもの、たまっているものを捉えようとする強烈な意志。人間は、自分がいま生きていることを実感したい時には空を見るが、確かに自分がそこにいたのだという事実を記憶にとどめたい時には地面の隅っこを凝視するのではないか ― そんなことを考えた。駄菓子屋、トラック、蓋をされた井戸、おしゃべりなおばあさん、自転車に乗る子供、カラフルな傘をさす人、干してある布団・・・そこに映る汚れや淀みのようなものまでが美しく見える。

「そのアホな人から始まった路地が、道の鬱血のようなところだったと思った。鬱血した道であろうと、太い流れのよい動脈であろうと、道である事に変りはない。道の果てはどうなっているのだろうかと考えた」(「日輪の翼」より)

ラストシーンの海を見て、「海へ」という初期の短編を読み直してみようと思った。吐き気に耐えながら海辺の城下町のバスにゆられ、途中で降り、海へと歩き、海と一体化する話。意味よりも映像がくっきりと浮かんだ。映画を観たせいだろう。

「言葉(それは禁句だった)が口唇の先で映像に還元される」 (「海へ」より)

トークショーでは、岐阜が故郷だという堀江敏幸がチャーミングな感想を述べ、それに呼応する形で、中上紀が、トンネルや橋にさしかかる時には必ず皆が興奮して大騒ぎになったという家族のエピソードなどを披露してくれた。彼女は、そこを通るたびに自分がゼロになって生まれ変わるような気がしたそうで、映画にはその辺がちゃんと表現されているという。ある作家をテーマにした作品の細部が、彼の娘によって、ひとつひとつ承認されていく。まるで映画に生命が吹き込まれるみたいに。

父のおもかげを残しながらも、まったく別の時代の、別の空間を、別の感覚で生きているように見える彼女が、「自分の中に既にある幼いころの記憶の意味がわかってきた」というようなことを言い、やわらかく微笑んだ。これは、一人の女性に認められた幸福な映画だ。

*東京・渋谷 ユーロスペースでレイトショー上映中(64分)

2001-08-30

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『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー(監督) /

恋愛は、クスリより輝けるか?

いい映画は、体に刻まれた記憶のようだ。
まるで自分の体験みたいに、懐かしく思い返すことができる。

「レクイエム・フォー・ドリーム」を見終わった後、頭が痛くなった。ヒップホップ・モンタージュと名づけられた神経症的な薬物使用シーンが何度も繰り返されるせいか、自分までヤク中にさせられちゃったような気分になるのだ。

主人公のハリー(ジャレッド・レト)と、彼の恋人マリオン(ジェニファー・コネリ)、彼の母親サラ(エレン・バースティン)、彼の友人タイロン(マーロン・ウェイアンズ)の4人が際限なく墜ちていく様子が描かれる。クスリに依存すれば、ここまで悲惨なことになるのだということを徹底して追及した作品。彼らが依存しているのは表面上はクスリだが、実は愛情だったりするものだから、その根は深い。

図らずも、数日後に私が思い返したのは、美しいシーンばかりだった。ストーリーの枠組みを超える俳優たちの存在は大きい。彼らは苦しみ、狂気に陥り、本当にやつれたりするが、それでもなお魅力的だ。最もインパクトのあるのは後半の母親で、最も身につまされるのは、ごく普通の恋人どうしである前半のハリーとマリオン。恋愛は退屈な日常をドラスチックに変え、しらふの2人を昂揚させる。一緒にいれば何とかなるんじゃないかという甘い期待に依存しあう無力な2人。恋愛の初期スパートは、それだけで薬物と同様の効果をもつのだ。

それでは、恋愛の純粋な昂揚感は、一体いつ失われるのだろう。相手を知り、慣れ親しむことがなぜ、エゴをむきだしにしたり嘘をついたり倦怠を感じたりすることにつながるのだろう。どこで何が狂うのか。

そんな不安を先延ばしにしてくれるのがクスリだ。永遠に続くかと思われる昂揚感。全能感。幻覚。幻聴。それは、自分の限界を認めることへのささやかな抵抗であり、普通だったらあきらめるような事柄に根拠のない自信を抱くための手段である。しかし、ダメなものはダメで、かような恋愛はいずれ破綻へと向かうはずなのだが、この映画は、恋愛のラスト・スパートとでもいうべき可能性の片鱗を見せてくれる。

ハリーからの最後の長距離電話に「今日、帰ってきて」というマリオン。「きっと帰る」とこたえるハリー。2人とも、無理だとわかっているのに交わすウソの会話。だが、2人の言葉は圧倒的に真実だ。だって、恋愛において重要なのは、今すぐ会う、ということに尽きるのだもの。たとえ会えなくても、そういうシンプルな気持ちを表現すること。それ以外に恋人どうしが伝え合うべきことなんてあるのだろうか?

もちろんハリーは帰れず、2人はさらなる地獄を見ることになるのだけれど、魂を射貫くような電話のシーンのおかげで、彼らはこのままでは終わらない、と信じたくなった。

*2000年アメリカ映画/北海道・東京・愛知・京都・兵庫・広島・福岡で上映中

2001-08-17

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『A.I.』 スティーブン・スピルバーグ(監督) /

愛とは、同じ時代に死ぬこと。

同級生が亡くなった。彼女が好んだスマップの曲が、葬儀上のすみずみにまで絶え間なく流れ、花に埋もれた彼女の顔は、まるで白雪姫のよう。私は、笑ってるんだか泣いてるんだかよくわからないサイレント映画のような参列者たちを見回す。100年後には、おそらく全員が死んでいるのだろう。彼女はほんの少し、早かっただけなのだ。

「A.I.」を見た。映画には、お金のかかった映画とお金のかかっていない映画の2種類があるが、この映画はもちろん前者。平日なのに行列ができていて驚く。劇場の広さに驚く。冷房の強さに驚く。パンフレットの大きさに驚く。音響の迫力に驚く。ハリウッド系の大作映画を見るのは久しぶりなのだった。

愛という感情をインプットされたA.I.(人工知能)の子供、デイビッドと、彼のパートナーとなる旧式のスーパーロボット、テディ。彼らの「完璧ないたいけなさ」があざとすぎずに済んでいるのは、「A.I.」が、数千年にわたる技術の進化を軸に繰り広げられるクールで壮大な物語だからだ。

ある家庭にデイビッドが試験的にやってきて、捨てられるまでの話は、かなり面白い。感情をもったロボットが、日常生活でどこまで受け入れられ、どの辺が問題になってくるのかを丁寧にシミュレーションしてくれる。この映画、この部分だけでもよかったかも。

デイビッドの冒険が始まる第二章は、SFXのオンパレード。このあたりから私は眠くなってくる。まるで徹夜明けにディズニーランドに遊びにいったような気分だ。 「手に汗握る技術自慢のシーン」こそがハリウッド映画の真骨頂なのだろうが、おかげで、どの映画も画一的な印象に見えてしまう。かなり残酷な内容であるというのも、お決まりのパターンか。ファンタジーとはいえ、いや、ファンタジーだからこそ、暴力や差別意識への予定調和的な想像力が、私は怖い。

泣かせるための強引な設定も、気になるところ。この作品のキモとなるクローン再生技術については、「1回限り・しかも有効期間1日」というタイムリミットが説明されることで、ずいぶん白けてしまう。

とはいえ、ディズニーランドは楽しい。よくできている。永遠に死ぬことのない人形や動物や超人が「人間になりたい」と願う話はよくあるが、「A.I.」は、この定番化されたストーリーを美しくスクリーンに定着することに成功していると思う。 水に包まれた近未来と、さらに2000年後の氷に包まれた世界が、甘すぎるファンタジーを冷たく中和し、忘れがたいシーンとして脳裏に刻まれる。

たまたま同じ時代に生き、同じ時代に愛し合い、同じ時代に一緒に死んでいく偶然とは、なんとかけがえのない摂理だろう。誰もが恐れている死の概念を、限りなくやさしく描くラストシーンには、力づくで泣かされてしまう。

*2001年 アメリカ映画

2001-07-22

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『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

チープでリアルな殺戮と笑い。

戯曲「兵士たち」の映画化にあたり、ロッセリーニがシナリオ案をテープ録音し、ゴダールが監督した1963年の映画。冒頭に引用されるのはボルヘスの言葉だ。「進展すればするほど私は単純さに向かう・・・」

映画館へ向かう途中、iモードで上映時間を確認すると、「ミリタリーファッションの人は200円引き」とあった。たまたま「ちょっとだけミリタリーっぽい服」を着ていた私は、入り口で「この服、ミリタリー色なんですけど」と言ってみたい衝動にかられ、実際、拍子抜けするほどすんなりと200円引きで「カラビニエ」を見ることができたのだった。

この手の割引制度って、一体何なんだろう?「ノー・フューチャー」では、ギター持参なら200円引きだったし、「バッファロー’66」は赤い靴と銀の靴のカップル割引があった。「オール・アバウト・マイ・マザー」は母子割引、7月14日よりロードショーの「白夜の時を越えて」にいたっては、双子なら1人500円で見れるという。

単なるお遊びなんだろうけど、今回の「ミリタリー企画」は、アバウトさが映画の内容に妙にハマっていた。だって、監督のコメントによると、カラビニエ(カービン銃の兵士)の軍服は「帝政ロシア将校の軍帽」「イタリアの鉄道の車掌の上衣」「ユーゴのパルチザンの長靴」などの混ぜ合わせ。この作品は、現実の戦闘シーンのフィルムを引用しながらも、メインはどっかその辺の広場で撮ったという印象の、キッチュな「戦争ごっこ映画」なのだ。

「愉しみはTVの彼方に」(中央公論社)の中で、金井美恵子は言う。「『カラビニエ』を見たら、自分たちにでも映画が撮れそうだと信じる人々があらわれることに、何の不思議もない、ということがわかるだろう。カメラマンと何人かの出演者(もちろん素人でいい)と、なにより”ゴダールがいれば”、無謀にも、映画は撮れるのだ」。
「カラビニエ」と「パール・ハーバー」(見てないけど)の違いは、まるで「iモードゲーム」と「プレステ」(やったことないけど)の違いのよう。「リアリズムとは、真の事物がいかにあるかではなく、事物が真にいかにあるかということである」というゴダールの言葉は、冒頭のボルヘス的な世界観につながっている。お金をかければリアルな体裁の映画は撮れるだろうが、リアルな中身が宿るとは限らない。

徴兵される兄弟の弟が、初めて映画を見るシーンの初々しい描写はロッセリーニっぽい。彼は走ってくる機関車の映像にのけぞり、入浴する美女のバスタブを覗こうと立ち上がる。挙句の果てにバスタブに飛び込もうとしてスクリーンを引き裂いてしまうのだが、それが単なるコントで終わらない理由は、剥き出しになった壁面に映画が映り続ける様子が、リアルな驚きを含んでいるからだろう。3人の兵士が氷った川をつるつるすべりながら下るシーンにも、ばっかじゃないの!と思わず笑ってしまう。

戦争における非情な暴力をミニマルな視点で描きつつ、兵士という存在の馬鹿らしさ、情けなさ、人間らしさに迫った傑作だ。とりわけ、兄弟がセクシーな母と妹に、キッチュな「戦利品」を次々に披露するクライマックスは、そのシーン自体のキッチュさとともに忘れがたい。

ゴダールの映画らしく、当時のファッションやクルマ、2人の女優(プログレッシブ・ロックの頂点をきわめたカトリーヌ・リベイロ&2年後にエマニュエル・ベアールを産むことになるジュヌヴィエーヴ・ガレア)の魅力も楽しめる。女は意外とちゃっかりしており、男は意外と情けないという図式は、いつの時代も変わらないのか?

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2001-07-10

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