MOVIE

『インティマシー/親密』 パトリス・シェロー(監督) /

情事と恋愛のちがい。

クラッシュの「ロンドン・コーリング」が流れるアパートでセックスする2人。互いのことを何も知らないんだってことが、最小限の会話からわかる。水曜の午後、女が男のもとへセックスをしにくるのだ。そんな「割り切った関係」の均衡がどの辺から崩れていくのかを、この映画は描写する。

同じような性的願望をもち、毎週同じ日が空いており、都合のいい密会の場所がある。こういう男女が出会えば、理想的なセックスフレンドになれるはず。何度も執拗に描かれる絡みのシーンを見ていると、そんなふうに思えてくる。が、その内容は、愛のない殺伐とした行為のようにも見えるし、相性のいいリアルな交わりのようにも見える。どうなのよ、これ?

自由な解釈を許す描写の力。それはとても純粋なものだ。つまりこれは、セックスという行為そのものの意味に、最大限に肉迫することに成功した映画なのではないかと思う。

男が女を尾行することから、2人の不均衡は始まる。男は離婚して子供とも離れて暮らす身だが、女には夫がいたのだ。男は、夫にカマをかけ、彼女にはこう言う。「いつも悲しい顔をしているが本当は幸せじゃないか。子供がいて夫に愛されてる。芝居の仕事もある」。

「そんな男だったのね」と切り返す彼女。女は男に幻滅し、関係は破綻するようにも見えるが、私はこう解釈したい。2人は親密になってしまったのだと。なぜなら、本気で恋におちれば、誰もがふだんとは違う「そんな奴」になってしまうわけだし、相手にある種の思い入れを抱いているからこそ幻滅もするのである。これこそが恋愛で、ここへきてようやく幻想が崩壊し、現実の噛みあわない会話が始まったのだ! そう考えると、2人の何だかよくわからないけど純粋なセックスも、喧嘩ごしのやりとりも、すべてがいいものに思えてくる。それはたぶん、もっと親密になるためのプロセスのはずだから。

この映画の原作「ぼくは静かに揺れ動く」(角川書店)には、こんなことが書かれている。

「やがてぼくは新たな女性を知るたび、一からやり直せるものと思い込むようになった。過去などないのだ。新しく生まれ変われないとしても、当面は別の人間になれる。ぼくは女性たちを他人から自分を守るために利用するようにもなった。たとえ自分がどこにいようと、ぼくが欲しいと耳元で囁いてくれる女性と身を寄せ合っているかぎり、世間から逃れていることができた。ほかの女性たちを求めずに済んだ」

「残念ながら、ぼくらは嘘をつくことで何でもできるような気持ちになれる。同時にとんでもない寂しさも生み出される」

私たちは要するに、新しい恋愛によってやり直せるような気がし、少なくともリフレッシュくらいはできるのだ。新しい相手と出会うことは、新しい自分と出会うことなのだから。結局のところ、誰もが自分中心に生き、都合よく世界を構築し、嘘をつきながら他人を利用し、面倒な状況から逃れ、そのつど一からやり直していく。そして寂しいと嘆く。なんて身勝手でだらしないんだろう。

原作の最後の8行では、愛とは何かということが不確かな記憶のように語られる。簡単にいえば、それは「親密さ」の感触であり、私たちは、その奇跡を信じるしかないのだと思う。満ち足りた瞬間には、目の前の相手だけを見て、そこからすべての情報を受け取ることができる。そういう瞬間の人間は、あらゆる疑心暗鬼や裏切りや嫉妬と無縁でいることができるのだ。このことを考えるだけで、私は、救われた気持ちになる。

*2000年フランス映画/ベルリン映画祭 金熊賞受賞
*東京・宮城で上映中(2/2~北海道・大阪・兵庫 2/9~京都)

2002-01-26

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『キプールの記憶』 アモス・ギタイ(監督) /

戦争という、くたくたに疲れる日常。

イスラエルを代表する映画監督、アモス・ギタイが第4次中東戦争(1973)の体験を映画化した作品。

「中東はメディアの目に晒されつづけていますが、ニュースとして流されるものはきわめて表面的なものばかり。(中略)映画には、モノを単純化して見せようとするニュース報道の土台を覆すという意味で、とても重要な役割があるんですよ」
(監督の来日インタビューより)

第4次中東戦争は、ヨム・キプール(ユダヤ人が断食する贖罪日)のイスラエルを、エジプトとシリアが奇襲攻撃することから始まった。監督は当時、負傷兵をヘリコプターで移送する部隊に配属されたものの、乗っていたヘリがシリア軍に撃墜されてしまう。奇跡的に生還した彼は、以降、自らの体験を再構築するために映画を撮り始めるのだ。

この映画は、監督の主観的な記憶を忠実に再現したものなのだろう。ダニエル・シュミットのカメラでも知られるレナート・ベルタによるリリカルな映像と爆音に身をまかせているだけで、戦場の砂ぼこりまでがリアルに感じられ、息苦しくなってくる。ヘリで負傷兵の救助を続ける彼らのストレスを肉体的に共有できるのだ。

ハリウッドの戦争映画ではよく、戦闘地域にいる兵士が、歯切れのいい口調できちんとモノをしゃべっている場面が出てきますが、現実にはそんな余裕などありません。周りはものすごい騒音ですし、誰もが命令口調になる。(中略)あっちこっちへと振り回された挙句、みんなくたくたに疲れ果てているんです。私が記憶のなかに留めている戦争とは、あらゆるものが思い通りにいかず、相次ぐ失敗に見舞われ、混沌とした状態に陥った状態です」
(同上)

ヘリの収容人数には限りがあるから、重傷者のみを運び、軽傷者と死者は現場に放置しなければならない。まるで荷物の選別のようだ。 彼らは、日に何度もさまざまな場所に降り立ち、苛酷な作業をし、再びヘリの轟音とともに飛び立つ。 見ているこちらまで、ずぶずぶと感受性不能の放心状態に陥っていきそうな疲弊のリフレイン。肉体的にも精神的にも限界状況の彼らが爆撃されるという不意打ちは、まさに「弱り目にたたり目」だが、そんな彼らをテキパキと救助する別の部隊がすぐに現れる。とてもシンプルな構造だ。 淡々と繰り返される命の助け合い。しかし、その行為は美しくすら見えない。人間が働きアリになるしかない場所、それが戦場なんだと思った。

描かれている情景は重いけれど、この映画、ヌーベルバーグのような軽妙さと日常感覚をあわせもっている。

主人公はベッドで恋人と抱き合い、鮮やかな色の絵の具を互いの体に塗りたくる。その後、白のフィアット125に相棒を乗せて戦場へ向かうのだ。なんだか楽しげである。帰り道は1人だし、腰を傷めてもいるが、ちゃんと同じクルマで同じ恋人のもとへ戻れるわけで。陽光が降り注ぐ彼女の部屋で繰り広げられるのは、またもや絵の具プレー! 戦場とは別世界のような平和でポップなシーンだけど、絵の具の色は、血液や体液や迷彩色をあらわしているようにも見えた。抱き合っているうちに色は混じりあい、混沌としたグレーになる。

戦争でいちばん大事なのは、生き残ることだと思う。生き残れば、恋人ともう一度抱き合うことができるし、ニュース報道の土台を覆すような、こんな重要な映画を残すこともできる。

*2000年 イスラエル=フランス=イタリア映画
*シャンテ・シネ(東京)で上映中/1月12日よりシネプラザ50(愛知)で上映

2001-12-27

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『ノー・フューチャー(A SEX PISTOLS FILM)』 ジュリアン・テンプル(監督) /

短命を恐れないかっこよさ。

ロック史上もっともスキャンダラスで悪名高いバンド、セックス・ピストルズの未公開映像がたっぷり楽しめる映画。当時の英国のニュースフィルムやコマーシャル、コメディなどがコラージュされ、70年代という時代をシャワーのように浴び、興奮することができる。

「アナーキー ・イン・ザ・UK」のイントロが流れ、ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)や死の直前のシド・ヴィシャスの表情を見るだけで鳥肌がたつ。大人を裏切る若者の胸のすくような過激さは、時代を経ても色褪せない。

にせものだけが生きのびる、というメッセージを残し、セックス・ピストルズはわずか26か月で解散。公式発表アルバムはたった1枚。これほど短命なバンドが、パンク以降のあらゆるカルチャーシーンに影響を与えたのだ。生きのびようとあがくことの醜悪さから、私たちは逃れることができるのだろうか?

「俺たちは俺たちでいたってこと。それが後から革命だとか言われたんだ」とジョニー・ロットンは語る。自分に忠実であることがすべてと言い切れる思想は、健全で鋭い。彼らの行動やファッションをまねすることは、パンクの真の意味から遠ざかることにしかならないだろう。

次のムーブメントは、いつどこで起きるのか? 不況で鬱屈する労働者階級からセックス・ピストルズが生まれたように、不自由であることに敏感なエリアから予想外の形で炸裂するはずだ。そう考えると、不安や不満がいつまでもなくならない世の中のしくみにも、希望がもてる。

*1999年イギリス映画/シネセゾン渋谷で上映中

2000-11-25

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『カンダハール』 モフセン・マフマルバフ(監督) /

答えのない真実。

イランの映画監督モフセン・マフマルバフの最新作「カンダハール」は、「東京フィルメックス」の特別招待作品として11月19日に上映された。

5月のカンヌ国際映画祭では、カトリックとプロテスタントの映画批評家が選出するエキュメニック賞(全キリスト協会賞)を受賞。だが、今回の上映会場が取材陣やカメラでごった返すほど熱気に包まれた理由は、たまたま米国で同時多発テロ事件が起き、アフガニスタンへの報復攻撃が開始されて以来、この地名が流行語のように私たちの口から発せられるようになったからだろう。

ここ数日、アフガニスタンは大きく動いている。タリバーンが撤退したカブールでは5年ぶりにテレビ放送や映画上映が再開され、カンダハルの明け渡しも時間の問題という。そんな激動のさなか、一人の監督の目を通した「米国の空爆以前のアフガニスタン」はどんな意味をもつのか。

主役は、カナダに亡命したアフガン人女性ナファス。彼女は、カンダハルに残した妹から自殺をほのめかす手紙を受け取ったことから、新月(自殺予告の日)までに何とかして故郷に帰ろうとイランからアフガニスタンに入る。ナファス役を演じた女性ジャーナリストの体験にもとづく物語だ。彼女は当初、自分の足跡のドキュメンタリー化を希望したが、危険なため実現せず、フィクションとしてこの映画が完成した。確かに、かなり作り込んだ映像である印象は強い。むきだしの義足がパラシュートで次々と落ちてくる光景や、女たちがマニキュアを塗りあい、カラフルなブルカの下でコンパクトを開いて化粧する姿などは、絵になりすぎている!

それでもこの映画が、ある真実を確実に伝えていると断言できる理由は、人間の描き方が一面的でないからだ。

信用できるかできないかを瞬時に見分ける癖のついた子供の目を「可愛い」と片づけることなどできないし、危険を回避するため、金を得るため、当たり前のようにつかれる嘘を「悪いこと」とはとても思えない。切実な思いでイランからアフガニスタンへの旅を続けるナファスもまた、信用されたい相手にはブルカから堂々と顔を出し、身を守るためのぎりぎりの嘘をつきながら、正解のない日々を生きのびる。

地雷のよけかたを親身に教える女学校や、戦闘知識や身体を激しくゆすりながらコーランを音読する作法を叩き込む神学校のシーンはリアル。1か月待たされるのが普通という義足センターでは、地雷の被害者たちが足の先端を見せながら「痛くて夜も眠れない」「このままでは腐ってしまう」と訴える。目に痛い映像の連続だ。

ただし、痛いだけではない。妻のために持ち帰る義足に新婚旅行の時のサンダルを履かせ、サイズと美観を点検する男の姿は微笑ましいし、金のためにナファスのガイド役を引き受ける少年は、信用できない子供として描かれながらも、彼女にとって忘れがたい存在であったことが強調される。人を疑うことと信じること。悲しみと喜び。ひとつの状況の中に相反する概念が共存しうるのだと、この映画は言っている。

映画は、ナファスがカンダハルに到着する前に終わる。緊張感の中で坦々と旅は続くのだ。
この物語は現実につながっており、現実にも決して終わりがないことを思い知らされる。

*2001年 イラン=フランス映画
*イタリア、フランス、カナダで公開。イギリスでも公開決定。日本では2002年、シネカノンで公開予定。
*ブッシュ大統領の要望により英語字幕をつけてホワイトハウスに空輸。

2001-11-22

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『GO』 金城一紀(原作)/行定勲(監督) / 講談社

たたかうベッドシーン。

ロミオとジュリエットから始まり、クリスマスで終わる小説。

民族学校から日本の高校へ進んだ著者を救ったのは、難解な思想書ではなくエンターテインメントだったそう。クリスマスのシーンで終わる在日文学なんて前代未聞だから、どうしてもやりたかったんだってさ。それは、苛酷な現実に立脚したぎりぎりの「だささ」であり「かっこよさ」であり「面白さ」でもある。ここまでエンターテインメントの意味を突き詰めた作品は、純文学と呼ぶべきかも。

映画化された「GO」にも、そんなぎりぎりのバランスが貫かれている。在日韓国人の抱える問題を扱いながらもディープになりすぎず、30代のスタッフの感覚が自然に表現されていた。時間軸を再構成した脚本のセンスは素晴らしく、キャスティングも的確。窪塚洋介は、ヒネクレ者でありながらロマンチストな発展途上の男、杉原に息を吹き込んだ。スタッフもキャストも皆、原作に惚れているのだとわかる。

男の子がまともな反抗期すらもてなくなっている今、山崎努が熱演する最強の父親像は魅力的だし、きちんと人と向き合い、距離を測り、自己紹介し、それでもわかんない奴は殴るというコミュニケーションの古典的作法も新鮮。村上龍の「最後の家族」でひきこもりの長男の暴力が迫力に欠けるのは、戦う相手や打ち破るべき枠が見えにくいからだ。あの家族が現代の主流だとすれば、マイノリティを描いた「GO」は圧倒的にかっこいい。杉原の友人のセリフは、多数派の情けなさを代弁しているといえるだろう。
「これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」

無敵の杉原も、桜井(柴咲コウ)と出会うことで何かが狂う。失いたくない女の出現によって、男は初めて臆病になるのだ。だが、全身でぶつからなければ恋愛は進まない。それは、いつもバトルなのだと私は思う。重要なのは一線を超えることではなく、ぶつかること。異質な者どうしが理解しあうには、そうするしかないわけで。

「GO」のベッドシーンは、とても美しい。杉原は、桜井と一線を超える前に国籍を打ち明けるのだ。私は、村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の最も美しいシーンを思い出した。それはキクとアネモネが初めて結ばれた後の描写。

「服を着終わったキクは、帰る、と小さな声で言った。アネモネは喉が引きつった。どうしたらいいのかわからなかったが嘘だけはつくまいと決めた。行っちゃだめ、キク、ここにいて、行っちゃだめ。キクは立ったまま、俺は、と言って言葉を呑み込んだ。深呼吸をしながら窓際まで歩いた。『俺は、』カーテンを開けてもう一度言った。(中略)俺は、コインロッカーで生まれたんだよ、でも、俺は、お前が好きだ、お前みたいなきれいな女は―、アネモネはキクの唇を指で塞いだ。何も言わなくていい、と囁いた。肩に手をかけて背伸びし頬を合わせる。濡れたアネモネの髪の先から水の粒が落ちて鳥肌の立った背中で割れた」

「コインロッカー・ベイビーズ」も「GO」も、システムへの憎悪と破壊へのエネルギーをもてあます男の子の成長物語だが、2つの作品の間には20年の隔たりがある。キク(肉体性)とハシ(精神性)の両方を備えた現代のヒーローである杉原は、だから、彼女を手に入れる前に国籍を告白し、こう言われてしまう。

「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない(中略)ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて」

女の子の、切実な気持ちが現れたセリフだと思う。
でも、2人は終わらない。本戦はクリスマスに始まるのだ。

2001-11-14

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