MOVIE

『アレックス』 ギャスパー・ノエ(監督) /

最低な男たちの、リアル。

壮絶な暴力シーン。
リアルなレイプシーン。
逆行する時間。

この映画の特長とされる3つの点については、特に印象的ではなかった。暴力シーンは壮絶じゃないし、レイプシーンはリアルじゃない。時間を逆行させる意味もないんじゃないかと思う。もう少し普通に撮ればいいのに。狙いすぎだし、加工しすぎだし、お金をかけすぎだ。

冒頭、2人の男がゲイクラブの上のホテルの部屋で交わす会話は、とてもいい。
娘と寝た罪で刑務所に入り、すべてを失った男は言う。
「時はすべてを破壊する」
もう一人は言う。
「悪行なんてない。ただ行為があるだけだ」

前作の「カノン」とまったく同じ考え方だ。すばらしい。同じエンターテインメントなら、「カノン」のようにシンプルなほうがいい。話題性を獲得し、収益を増やすためには、人気俳優をカップルで起用したり、画面をもたせるための編集や加工をすることが必要なのだろうか。そのことが作品をつまらなくする要因となっているのだとしたら、残念なこと。

この映画は「幸せに愛し合っていたアレックスとマルキュスなのに、レイプ事件によりすべてが破壊されてしまった」という悲劇のストーリーのように一見みえるが、そうではない。アレックスの恋人マルキュスも、元恋人ピエールも、レイプ男テニアも、全員が同じくらい最低なのであり、「強姦」と「愛の行為」は同質なのだ。このことを発見すると、この映画は少し面白くなってくる。「悪行なんてない」という冒頭のセリフが生きてくる。

アレックスがレイプされたのは、彼女と一緒にパーティに来たマルキュスとピエールが、先に帰ってしまった彼女を送っていかなかったからだ。あんな挑発的なパーティファッションの恋人を一人で帰らせてはいけないというのは常識。少なくともタクシーを拾ってあげることくらいはするべきだ。ほかのシーンで彼らの魅力が描かれていればまだ救いがあるが、マルキュスは、彼女をほったらかしてクスリをやったり、ほかの女にちょっかいを出すなどのダメ男ぶりだし、彼女に未練たっぷりのピエールも、マルキュスを恨むわけでもなく、代役を果たすわけでもなく、中途半端にでれでれしているのみ。レイプ事件の後の2人のキレ方も、明らかに筋違いだ。いいとこ全くなし。

3人でパーティに出かける地下鉄のシーンは面白い。彼らは通路を挟んで不規則に腰掛け、公共の場でセックスについてあけすけに語り合う。ピエールは、自分がかつてアレックスを満足させることができなかった理由を知りたがり、アレックスとマルキュスをしつこく問い詰める。2人の男の間で幸せそうなアレックスだが、それらの議論は本質ではなく、2人とも結局は何の役にも立たないダメダメな男たちだったのだという事実が空しく際立つばかりだ。

監督は、暴力シーンの舞台にゲイクラブを選んだ理由をこう語っている。
「映画の大部分を男だけにしたかった。地獄のヴィジョンがゲイクラブなのではなく、男しかいないのが地獄のヴィジョンなのだ」

まさに、女にとって最低な男ばかりが登場する、地獄の映画。

*2002年フランス
*全国各地で上映中

2003-02-19

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『ボウリング・フォー・コロンバイン』 マイケル・ムーア(監督) /

国家にもメディアにもこの映画にも洗脳されないために。

上映終了後に拍手が沸き起こった。映画祭などを除けば久々の体験だ。

1999年4月20日、コロンバイン高校の2人の生徒が図書室で銃を乱射。学生12人と教員1人の命を奪い、23人に重症を負わせた後、自殺した。2人はマリリン・マンソンに心酔し、事件当日の朝はボウリングをやっていた。

こんなアメリカに誰がした?…暴力的なテレビゲーム?アニメ?ハリウッド映画?…殺戮の歴史?貧困?不況?…家庭崩壊?マリリン・マンソン?ボウリング?

監督は、同級生や街の人々に話を聞き、事件の本質に迫ってゆく。絵にならない事件は報道できないという番組のプロデューサーや、銃社会を過激に擁護する全米ライフル協会の会長のもとに出向き、改善や謝罪を要求する。弾丸を無制限に売るKマートには被害者とともに乗り込み、具体的な成果をあげる。

米国がおこなってきた殺戮の歴史映像のバックに流れるのは、ルイ・アームストロングの「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。このミスマッチな組合せが、実はちっともミスマッチでないことに唖然とする。殺戮の歴史は、米国にとって悲劇でも怒りでもギャグでもない。マジな日常の積み重ねなのだ。

タランティーノのポップな身軽さと、原一男の執拗さを兼ね備えたパワフルで説得力のある映画。現実に鋭く切り込みながら、プロパガンダ的な押し付けがましさがなく、リベラルな視点をもっている。そして私たちはメディアの責任を実感する。日々、視聴率と時間に追われるTV報道がいかに一面的であるか。もう少し足をのばせば、もう少し調べれば、もう少し人々の声に耳を傾ければ、圧倒的に広い視野が開けるのに。

こういう映画が大ヒットするアメリカには、まだ救いがある。だが、今までどうしてなかったのか、どうして他にないのかとも思う。この映画の視点だって、ある意味で個人的な偏見に過ぎないのだから。これ1本ではダメだ。

事件によりバッシングを受けたのは、ブッシュ大統領ではなくマリリン・マンソンだった。問題は銃そのものではなく、他人に対して感じる恐怖が原因なのだと彼は静かに語る。アメリカの文化は、人々を怖がらせることによって消費をかきたてる。国家とメディアが結託して洗脳の構造をつくっているのだ。

東京も、無関係ではないなと思った。日々の恐怖や孤独とどう闘っていくか?いかにして周囲にまどわされることなく強靭な精神力を保っていくか?

人は、安心のためにさまざまなものを買い、皆がいいというものをさらに買う。高額の保険に入り、セキュリティを強化し、それでもびくびくしながらすごす。やがて武器を所持し、所持しているだけでは安心できなくなる。武器や宝物を所持することで、ますますおびえ、家の鍵を増やさなくてはならない。

銃の所持率が高く失業率も高いカナダで、なぜ殺戮事件が少ないのか。
問題解決のためのヒントが、そこにある。

*2002年 カナダ
カンヌ国際映画祭55周年記念特別賞受賞
*恵比寿ガーデンシネマ、札幌シアターキノで上映中

2003-02-04

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『白夜(ニュープリント修復版)』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

ミステリアスな男は、現実的な男よりカッコいいか?

1年後に戻ると約束した恋人を橋の上で待ち続けるナタリアと、そんな彼女に惹かれるマリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。ドストエフスキー原作、3日間の物語だ。

運河の街を再現した幻想的なスタジオで繰り広げられるおとぎ話は、すべてが嘘っぽい。ナタリアとマリオの出会いからしてインチキくさいナンパだし。だが、「出会い方なんてどうだっていい」というマリオのセリフから、次第に映画はリアリティを獲得してゆく。セットのうそっぽさ、設定の不自然さ、男女の出会いの安直さに自らつっこみを入れ、乗り越えてしまうのだ。ヴィスコンティは言う。「この映画はリアリズムのある映画であり、しかし同時に、夢の中をさまようような可能性も残したかった」

ミニマムな制約の中での現実的なコミュニケーションが面白い。人はどのように他人に先入観を抱いたり、距離を縮めたり、理解しあったり、友達になったり、万が一には好きになっちゃったりするのか? 普通の女と娼婦を、男はどう区別するのか? ただすれちがうだけの他人とのコミュニケーションこそが大切なのだと、この映画は気付かせてくれる。日々すれちがう他人に対して無神経な人に、いい出会いなんてありえないのだ。これ、重要なことである。

おとぎ話度が最も強烈なのは、ナタリアと恋人の出会いと別れの回想シーン。彼女の話があまりに現実ばなれしていることから、マリオは「おとぎ話を信じるな。現実を見ろ」と言う。正論だ。だって彼女は、恋人の職業も知らないし、恋人が1年間、彼女を置いてどこかへ行かなければならない理由すらも聞いていないのだから。ナタリアが一目ぼれで恋に堕ちた理由は、彼がハンサムであるからという以外に思いつかない。そんな彼女にマリオは自らの願望をしのばせつつ「彼は戻らないよ。僕は男だからわかる」と言い切る。

3日目の夜になっても、恋人は橋の上に現れない。ナタリアは「1年間愛し続けた私を、彼はこんなふうに裏切ったんだわ」と強気のセリフを初めて口にし、マリオは狂喜乱舞。が、雪の中、夢みたいな夜を2人で過ごした後、彼女の恋人は現れる。そして、彼女はあっさりと彼の元へ舞い戻ってしまうのである。呆れてしまうようなこのエンディングは、今見ても斬新。

ミステリアスな男は有利である。映画を観ている私たちだって、ナタリアの恋人については、ほとんど何も知らないのだから。こんな男が1年後にちゃんと戻ってきたら、3日前に軽いナンパで出会った男が太刀打ちできるわけがない。マリオはといえば、下宿先で女主人に起こされる朝の風景から、橋の上の娼婦についていっちゃうシーンまで、スクリーン上で暴かれてしまっているのだから、もはやダメダメである。

しかし、言うまでもなく、マストロヤンニ演じるマリオは素晴らしい。「よくわからないけどかっこよさげな男」より、「すべてをさらけだしてあっさりふられちゃう男」のほうが、観客にとっては「いい男」に決まっているのだ。つまり、この映画は2つの意味でハッピーエンドである。ナタリアはわけのわからない恋人とうまくいった。そして、いい男が一人、まだスクリーン上に残っている。

娼婦(クララ・カラマイ)の存在感も忘れ難い。「私だって誰にも頼らないで生きてるんだよ」というセリフは目からうろこであった。ナタリアのような普通の女は男に頼って生き、橋の上の娼婦は男に頼らずに生きているのである。

*1957年 イタリア・フランス合作
ヴェネチア映画祭銀獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋で1月10日までモーニングショー上映中

2003-01-09

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『アメリカ(階級関係)』 ストローブ=ユイレ(監督) /

上着を捨てても、誇りは捨てない。

hotel bed

カフカの未完の長編「失踪者」(旧題「アメリカ」)を映画化した作品。
ドイツ人青年カール・ロスマンは、故郷を追われ、船で単身ニューヨークへ渡る。世間知らずで誇り高い彼が、理不尽な階級社会にぶつかっていく物語だ。

彼が最初に出会うのは、船での待遇に不満を持つ火夫。デッキから聞こえるアメリカ国家に耳を傾ける姿が印象的だ。火夫は演奏が終わるまで全く動かないし、一言もしゃべらないから、カール・ロスマンも私たちも、船室でこの曲を最初から最後まで一緒に聴いているしかない。デッキの様子は見えないのに、船旅をしている気分になる。

カール・ロスマンは「いいとこのお坊ちゃん」である。身なりがよく、外見と主張が一致している当初は何の問題もないが、次第に不当な扱いを受けるようになる。金持ちの叔父のもとを去った後も、ホテルの料理長の女に見初められエレベーターボーイの職を得るものの、道中に知り合った2人の貧しい悪友に足を引っ張られ、首になってしまう。そこからの転落は早い。いったん職と上着を失ったら、それを取り戻すのは大変なのだ。

だが、彼は誇りを失わない。自由になれば、外に出れば、何とかなると信じている。そして、そのことは圧倒的に正しい。人間は、誇りさえ失わなければ、たぶん何を失ったって大丈夫なのだから。

彼の周囲は、壁のように見える。彼を認める人、認めない人、見捨てる人、たかる人、すがる人、巻き込む人・・・すべてが類型的な役割を演じているようにしか見えない。塗りこめられた壁のような状況の中で、彼だけが人間らしく生き、あがいている。

深夜、殴られてバルコニーに閉じ込められた彼は、別のバルコニーでコーヒーを飲みながら勉強する男を見る。昼間はデパートで働いているというその男も現状に不満を抱いているが、そこに就職するだけでも大変なのだとカール・ロスマンに話す。バルコニーとバルコニーの距離は、遠くもないが、近くもない。

カール・ロスマンは少しずつ汚れていく。彼に蓄積する汚れ。それは階級社会を生き抜くための賢さにつながっていくのだろうか。賢くなるとは、汚れることなのだろうか。若さと誇りだけではだめなのか。汚れないで、と思う。

そんな時、彼は1枚の張り紙と出会い、オクラホマへ向かう。列車の移動シーンで映画は終わるが、ああそうか、彼には旅が足りなかったのだと納得できるくらい延々と車窓風景が続く。この風景の美しさといったら。

エンドロールの後も、まだ続く。このままずっと見ていたい。ずっと移動していたい。振り返らずに、ずっとどこかを目指していたい。
すべての映画が、こんなふうに終わればいいのに。すべての人生が、こんなふうに続けばいいのに。

*1983-84 西ドイツ=フランス合作
*「ストローブ=ユイレの軌跡1962-2000」アテネ・フランセ文化センターで開催中

2002-12-04

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『恋人のいる時間』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

変身の後ろめたさと快楽。

歩いている時や乗り物に乗っている時は、誰にも会いたくないなと思う。
移動中はぼーっとしていたいし匿名な自分でいたい。そんな無防備状態の時、いきなり声をかけられようものなら、悪いことなどしていなくても後ろめたさを感じてしまう。

路上の勧誘に対しては「完全無視」を決めているが、数年前から、すれ違いざまに「あれー?」と大げさに反応し「ばったり出会った知人」を装うという巧妙な手口が出現した。このように驚かれると、私はつい振り返ってしまうのだが、その後は「額に変わり目の相が出ていますよ」などと言われてしまうのだから拍子抜け。彼らが何を売ろうとしているのかは知らないけれど、先週も、青山通りで2人に引っかかってしまい、そのたびに「知り合いか?」と緊張してしまう私は、とても悔しい。

そういう意味では、タクシーという乗り物は個室に近く安心感が高い。だが、同じ場所で乗ることを繰り返していると同じ運転手に当たってしまうこともしばしばで、こちらが口を開く前から「3つめの交差点を右ですね」などと言われてしまうのだから油断は禁物だ。

この映画は、ある女の2日間の行動を追跡する。
彼女は愛人とアパートで愛し合い、オープンカーの助手席に乗り、タクシーに乗り換え、幼い息子を拾い、飛行場で夫を迎え、家に帰り、夫と話をし、子供を寝かせ、風呂に入り、客と夕食をとり、夫とレコードを聴き、愛し合い、昼ごろ起き、メイドと話をし、モデル撮影を見学し、カフェで過ごし、産婦人科医へ行き、タクシーに乗り、空港の映画館で再び愛人と会い、ホテルで愛し合う。

すべての断片が、ポストカードにして持ち帰りたいほど完成されている。ラウル・クタールのカメラは、どうしてこれほどセンスがいいのだろうか。部屋の中のシーンが多いが、印象に残るのは、むしろ、それらをつなぐ移動のシーン。移動時間というのは、自分の役割をひそかにスイッチするための神聖な時間なのではないかと思う。だから人は、仕事に行く時も、得意先へ行く時も、家へ帰る時も、飲みに行く時も、なるべくならそっとしておいてほしいのでは?変身にはただでさえ緊張感や後ろめたさが伴うものだから、そのプロセスを知人に見つかるとドキっとしちゃうのである。

興信所の尾行を撒こうとしている彼女の場合、その後ろめたさは本物だ。愛人のオープンカーに乗る時は外から見えないような体勢をとるし(チャーミング!)、タクシーだって何度も乗り換える。飛行場に夫を迎えに行くシーンでは、画面がふいに90度傾くが、この浮遊感・不安感は衝撃的だ。彼女を乗せたタクシーの走行と、夫が操縦する小型飛行機の着陸とが瞬間的に交差し、彼女の役割の転換(愛人から妻へ)と夫の役割の転換(パイロットから夫へ)が、不自然な「ねじれ」として体感できる。

この作品の主要なモチーフは、不倫、下着、雑誌、広告、職業、乗り物など。ひとくくりにするなら「ファッション」で、これらは私たちを手軽に「どこか別の場所」へ連れていってくれる。

時間と場所と人がたまたま交錯し、人は日々、出会ったり別れたり一人になったりする。そんな偶然の中で大切なことは、美しく、かっこよく、おしゃれに生きることに尽きるのではないだろうか。そんなふうに結論づけたくなるこの映画は、まさに究極のファッション映画。悩みがある時には、映画の中の彼女がそう見えるように「美しく、かっこよく、おしゃれに悩んでいる人」を演じてみると、意外と楽しいかもしれない。

*1964年フランス映画
*シネセゾン渋谷、テアトル梅田でレイトショー上映中

2002-12-02

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