MOVIE

『孤高』 フィリップ・ガレル(監督) /

女の顔は、30代で差が出るみたい。

音のないモノクロフィルム。客席は水を打ったように静か。
「お腹が鳴ってしまったらどうしよう」などと心配しながら見るレイトショーは苦痛。食事をしてから見ればよかったなと後悔したけれど、こんな映画、食後に見たら80分間熟睡してしまう!

タイトルもクレジットもない。これは、フィリップ・ガレルのプライベートフィルム(1974年)なのだ。映っているものの殆どは、2人の女優ニコとジーン・セバーグの表情のアップ。「裸体よりも顔のほうが裸だ」というようなことを以前アラーキーは言っていたが、まさに顔フェチの映画。人の顔だけをこんなに凝視してもいいものだろうか?と不安になるくらいに。

2人の女優と監督の関係とか、ジーン・セバーグを取り巻く政治的状況とか、背景はいろいろあるようだけど、ひとまず、ストーリーはないといっていい。注目すべきは、2人の女優が同い年だという事実で、2人とも30代半ばである。30代半ば? うっそー! ジーン・セバーグ、かなり老けている。それに比べてニコ、かなり若い。実際、ジーン・セバーグは5年後に亡くなるのだが・・・。

フィリップ・ガレルは、10年間ニコと暮らす中で、彼女の出演する映画を7本撮り、すべて商業的には失敗したという。そんな映画が今、日本で上映されるって不思議。

ジーン・セバーグが自殺をはかろうとするシーンで目が覚めた。映像で目が覚めるなんて、面白い。無音の映画のよさは、映像に集中できること。セリフがあれば字幕がほしくなるし、字幕があれば、いろんなことが気になって、映像の何割かは見逃してしまうことになるから。

したがって「無音の映画体験は貴重だし、発見がある」というふうにもいえるのだけど、個人的には、7月10日に発売された「ヴェルヴェット アンダーグラウンド&ニコ」のデラックス・エディション アルバムをずっと流してくれたら、どんなに素敵な時間になったことだろう!と思った。ついでにシャンパン&カシューナッツ付きっていうのはどう?「ニコとジーン・セバーグとシャンパンの夕べ」。これで¥2500だったら、私は行く。

今はなき渋谷の五島プラネタリウムでは、週末だけ、解説を少なくして星空と音楽を心ゆくまで堪能させてくれる「星と音楽の夕べ」というのをやっていた。映画館にも、そんなスペシャルな夕べがほしい。

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2002-07-14

amazon(パンフレット)

『ブルー』 デレク・ジャーマン(監督) /

終わらない夢。

青が好きだ。水色でも紺色でも藍色でも青緑でもいい。気が付くと、ブルー系統の色に引き寄せられている。
なぜ好きなのかと考えてみたら、空の色だからという結論が出た。子供のころから、空ばかり見ていたような気がする。

カメラを使用せず、延々とブルー1色の画面を75分間映すというこの映画には、期待するものがあった。ブルーを見ていて飽きるなんてこと、私には考えられなかったから。

デレク・ジャーマンの遺作だ。音声と語りによって、エイズウイルスに冒されていく自身の日常が淡々と描かれる。カフェの音、病院の音、街の音、波の音・・・だけど画面はブルーのまま。

最初は字幕がじゃまだと思った。ブルーの部分が減ってしまうからだ。
それから次第に、目が疲れてきた。そう、このブルーは、まぶしすぎる。

ブルーの画面が最もリアリティを獲得したのは、目が見えなくなりつつあることの恐怖が語られたとき。変化のないのっぺりとした明るさが、生殺しの悪夢を彷彿とさせた。影もなく、光もなく、漠然とまぶしいだけの世界。永遠に日が沈まず、安らかな眠りの訪れない世界。

中途半端なまぶしさに耐えられなくなり、私は目を閉じる。 この映画のブルーを凝視し続けることは拷問に近い。こんな狂気に近いブルー、癒されないブルー、うるさくて落ち着かないブルーは初めてだ。まるで熱にうなされているかのよう。

ここまでシンプルな映画が「うるさい」なんて、考えてみれば、すごい。いくら削ぎ落としても、落としきれないほどの思いがあふれているということだ。デレク・ジャーマンのパワーは、マイノリティとして社会から受けた悔しさが原動力になっていると思われるが、そのことによって彼が失ったものと、生み出したものと、どちらが大きかったのだろう?

ただひとつ、思う。悔しさに由来した表現というのは、決して終わることがないのだと。
表現者は、恨みを晴らすことができぬまま死んでゆくが、その後の人々は、彼のおかげで楽に生きることができる。

私のパソコンのディスプレイも、ブルー1色。微妙にグリーンがかったブルーだ。自分で設定した色なのだから、かなり気に入っているけれど、やっぱりまぶしい。毎日、この色を長時間ながめながら仕事している。

私の仕事は、何に由来しているのだろう? 明日、空を見ようと思った。

*1993年 イギリス=日本映画
*渋谷・シアター イメージフォーラムにて 5月21日、23日、25日、28日、30日に上映

2002-05-20

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『愛の世紀』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

好きだから、挑発する。

ゴダールが40代の時に撮った映画「ウイークエンド」には、こんなやりとりがある。
「オレの日本車(ホンダS800)にさわるな」
「ギア・ボックスはポルシェだろ?」
この突っ込みには、ほとんど意味がない。

一方、70代で撮られた「愛の世紀」には、こんなやりとりがある。
「ロータスだね。父がチャップマンと知り合いだった。このクルマを発明した人」
「あら、そう?」
「歴史は嫌いかい?」
この突っ込みには、ものすごく意味がある。ロータスエリーゼに乗っているのが米国の黒人女性だからだ。他のシーンでも「ハリウッドには物語も歴史もない」「アメリカ人に過去はない」「記憶がないから他人のを買う」というような辛辣な言葉がくりかえされる。

ゴダールの小舅化(!)はかくも著しく、「愛の世紀」では、映画への愛としかいいようのない皮肉やうっぷんを具体的なストーリーにのせている。ただし、作品の完成度が高いわけではなく、何かがわかりやすく結晶しているわけでもない。相変わらず破壊的で挑発的な映画だ。たとえば喋っている人間が画面に映らなかったりするから、その場に誰と誰がいるのか全然わからないし、モノクロの「現在」に対し、鮮やかなデジタルカラーで「過去」が表現されるというあまのじゃくぶり。主役の女性はいつのまにか死んでおり、船、ヘリコプター、列車などの移動アイテムが時間的、物理的な距離を物語る。

インタビューの中でゴダールは言っている。
「私は原則的にいつも他の人たちがしていないことを選んでやっている」
「議論がしたい。哲学的な意味で。しかし、もう誰もそんなことはしたがらない。(中略)彼らはこう言うだけなのだ、『見事です、感動しました、何も言うことができないなんて、ひどいですよね?』と」
「昔は仲間も多かったし、完璧な信頼関係があった。今では映画作家たちの関係は崩れつつある。だが、まだ絶望することはない。(中略)技術は自分のものであり、特権だ」

ゴダールと同世代の、青山の鮨屋の店主は言う。「銀座にも青山にも仲間がいなくなってしまった。今や築地にも軽口たたき合える相手はいない」と。齢をとるとは、気心の知れた人間が周囲にいなくなるということなんだなと私は理解した。生涯現役を貫く職人は、若い世代から距離を置かれ、こんな無謀な映画を撮っても「巨匠」とあがめられてしまうのである。
最近、鮨屋の目の前に、流行りの巨大なスシバーができた。なるべくなら、私は鮨屋に行きたいと思う。説教されちゃうけど、美味しいんだもん。技術を純粋に楽しむのだ。

70代のゴダールにとって重要なのは歴史だ。モノクロで描写されるパリの街は、ゴダールの原点であるドキュメンタリーになっているし、セーヌ河の小島に立つルノーの廃工場を長回しで撮ったシーンも忘れ難い。この工場が安藤忠雄の手で美術館に生まれ変わるというのも楽しみだが、歴史をフィルムに残そうという思いも美しい。愛ってこういうことなのだ。風景こそが映画であり、登場人物は何を語ったっていい。

女「(彼と)別れてからいろいろ考えだしたら、物事が意味を持ち始めた」
男「おもしろい言い方だ。あることが終わり、あることが始まる。君のでも僕のでもない物語。僕らの物語が始まる。親しくはなくとも。物語=歴史」

この映画、愛し合う2人が登場するわけでもないのに、愛にあふれている。他人の愛に絶望することはあっても、世界に対する愛が自分の中にあれば、それが失われることは決してないのだ。

*2001年フランス=スイス映画
*日比谷シャンテシネで上映中

2002-05-08

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『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!

新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中

2002-05-03

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『恋ごころ』 ジャック・リヴェット(監督) /

勉強の似合う女子大生。

3月23日付けの朝日新聞に、「活字文化を知らない若者たち-思考柔軟な時期こそ読書を」という一文があった。
さる大学で「活字メディア論」を受けもつ稲垣喜代志氏(風媒社代表)は、授業の中で学生たちに短い作文を書いてもらったところ、中身の空疎さと幼稚さに驚いたという。

「『いま自分にとってもっとも大切なものは?』という問いに対して、『金』と答えた人が圧倒的に多かった。あ然としてしまった。そして、『家族』『恋人』とつづく。恋人のことも開けっぴろげだ。ウソでもいい。自分たちの未来のことや現在の自分を内省的に考えた文章などを書いてほしかったが、それは望むべくもなかった。(中略)”読まない””考えない”若者たちをどうするか。出口なしの状況をどう打開するか、一大危機である」

「ウソでもいい」っていうくだりが切実だ。実際、ウソの中にこそ面白さはあるのだろう。読書は、大切な「金」や「家族」や「恋人」に、まわりくどい肉付けをし、深みや広がりを与えてくれる。うすっぺらい現実をいくらオープンに語ったところで状況は閉塞していくばかりなのだから、知識や思考の蓄積を少しは参照しようぜってことなのだ。

私たちは、現実世界で孤独になったとしても、無理に話し相手を見つける必要はないし、莫大な携帯電話料金を払うためにバイトをする必要もない。古今東西の本の世界に足を踏み入れれば、誰もが孤独ではないことに気付くだろう。話の合う人を見つけるのは難しいけれど、本を見つけることならできるはず。本は、出会い系サイトなんかよりも、はるかにわかりやすく整理されている。

「恋ごころ」のテーマは、金であり家族であり恋人だ。ということもできるけれど、大切なのはそれだけじゃない。「古書との格闘」や「ハイデカーの引用」や「演劇のような日常」が、困難な状況を軽々と解決していく。迷宮のような劇場や書庫を舞台に6人の男女が繰り広げる、大人の恋愛コメディだ。

犯罪も不倫も嫉妬も、チャーミング。だって、それはコメディなのだから。たとえば舞台女優(ジャンヌ・バリバール)が元愛人(ジャック・ボナフェ)に監禁される顛末にも深刻さはない。彼女が天窓から逃げ出す印象的なシーンは、知性とユーモアこそが閉塞した現実を回避し、軽やかに抜け出す方法なのだと高らかにアピールしているかのよう。登場人物は皆、相手と本気でコミュニケーションしながらも、肝心なところですっと力を抜くのだ。

成熟って、たぶんこういうことなんだろうな。深刻に突き詰めるだけが能じゃないってこと。この映画、「恋ごころ」というタイトルではあるけれど、実は、世の中には恋愛よりも奥の深いものがあるんだってことを、さりげなく描いている。とりわけ図書館や書庫で調べものをする女子大生(エレーヌ・ド・フージュロル)のキュートさは新鮮で、勉強っていいなと改めて思う。

後半、劇場は笑いで包まれた。登場人物たちがどんどん魅力的になリ、テンポがよくなっていく。2時間35分という長さに意味がある映画だ。仏語の原題は「ヴァ・サヴォワール」で、ロベール仏和大辞典(小学館)によると「全然確かなことは分からない、なんとも言えない」という意味の話し言葉。なんか、かっこいいじゃん。鳥肌立った。

いま自分にとってもっとも大切なものは何だろう?
金でも家族でも恋人でもなく「ヴァ・サヴォワール」と私は言いたい。ウソじゃない。

*2001年 仏伊独合作 フランス映画
*3/29まで東京で上映中
*3/30より北海道、4/6より宮城で上映

2002-03-25

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