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『BULLY(ブリー)』 ラリー・クラーク(監督) /

取り返したくない、取り返しのつかない10代。

コロンバイン高校の銃乱射事件とならび全米に衝撃を与えたといわれる、1993年、南フロリダで起きたボビー・ケント殺害事件。映画化したのは、ティーンエイジャーの生態を撮り続け、95年に「KIDS」で監督デビューした写真家、ラリー・クラークだ。

いじめっこのボビーを殺したのは、親友のマーティを含むティーンエイジャー7人だった。

ローマの貧しい若者を撮ったパゾリーニ「アッカトーネ」(1961)を思い出した。国も時代も経済状況も違うけれど、若い世代の圧倒的な現実感があふれている。鬱屈しているのでもなく、退屈しているのでもなく、ハチャメチャに壊れているというわけでもなく、ビジョンなく、ただひたすら現実と向き合っている感じ。こういう「動物としての人間」を自然にフィルムに収めることができる人は、パゾリーニとラリー・クラーク以外、思いつかない。

ティーンエイジャーに明確なビジョンなんて、あるわけがない。生活、将来、世間体・・・ビジョンがあるのは、頭で考える大人だ。ティーンエイジャーは、親が選んだ土地に、仕方なく住んでいるだけ。大人の体をもてあましながら、街と家に監禁されているといっていい。輝くような夏の光の中、ぶらぶらしていても、本当の自由なんてない。適当にバイトしたり、ナンパしたり、アブナイものに手を出したり、波に乗ったり、オープンカーでつるむしかない。ほかに、何かやるべきことでも?

殺されるのは、父親にビジョンを押しつけられるボビー。主犯は、引っ越したいと言っても父親にとりあってもらえないマーティ。ティーンエイジャーから見た親は、動物から見た人間だ。頼りたいし、頼るべきなのだけど、最終的には頼れず、噛みつくしかない存在。殺人の発覚を恐れるマーティは、幼い弟に自分のピアスをつけてやり、抱きしめる。逮捕され、警察のクルマで去っていく彼を見送るのは、マーティにそっくりなこの弟だけ。彼も、もうすぐ兄と同じ世代になる・・・。

マーティを含む男4人女3人のグループは、見事に役割分担し、殺人のシナリオを進めていく。というのは嘘で、一見大人びている彼らも、犯罪に関しては、あまりにも詰めが甘い。この経験のなさ、考えの浅さ、キレ方やビビリ方こそがティーンエイジャーの真髄。生々しく、痛々しく、しびれる。私は、大人の完全犯罪なんかに、興味はない。

7人には、懲役7年から死刑まで、さまざまな判決が下される。不定形のものを四角いものさしで裁くことは、どんな意味をもつだろうか?

キャスティングに魂をこめたとき、映画は、もうひとつの現実になる。適当な10代を選んで、その場で裸にして、セックスさせたってダメなのだ。それは違う。ありえない。パンフレットには、フロリダの湿地帯で発見されたボビーの死体写真や加害者の7人の顔写真まで掲載されているのだが、これを見ると、映画がいかに真実に迫っているかがよくわかる。

ボビーとマーティの関係について、監督が語った言葉が印象的だ。
「まあ、真相はわからないが。きっと本人たちにもわかるまい」
わからないものを撮るためには、わからないまま溶け込むしかない。若者への愛が、映画を撮らせるのだろう。

無防備なティーンエイジになんて、ぜったい戻りたくないなと思う。
ビジョンを抱えてしまった私たちは、戻りたくても、ぜったい戻れないわけだけど。

*2001年アメリカ
*シネセゾン渋谷で上映中

2003-05-22

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『パッション(無修正版)』ジャン=リュック・ゴダール(監督)

2人を同時に好きになったら、真実は別のところにある。

情熱あるいはキリストの受難という意味をもつ「パッション」は、この映画の中で製作されるビデオ映画のタイトルでもある。出資者はイタリア人で、監督はポーランド人。レンブラントの「夜警」ゴヤの「裸のマハ」アングルの「小浴女」などの名画が、凝った衣装とモデルたちの動きによって再現される。だが「本物の光と物語」が見つからないため、撮影は進まない。

監督は、近くの工場でエキストラを探し、工場長の姪を裸にしちゃったり、不倫相手の工場長夫人(ハンナ・シグラ)を主役に抜擢しちゃったり、リストラされた女工(イザベル・ユペール)と二股かけちゃったりする。2人の女を昼と夜にたとえ、その中間に映画の主題を求めようとしたりもする。昼と夜は、経営者と労働者、昼の産業(工場)と夜の産業(映画)などのメタファーでもあるようだが、監督は撮影現場に行かず、女の髪を撫でながら「労働と愛は似ている」などとつぶやくのだから、しょうもないスケベ野郎だ。

「パッション」を見て思い出した映画が2つある。

1つめはパゾリーニの「リコッタ」(1963イタリア)。
オーソン・ウェールズ演じる映画監督が、キリストの受難を描いた宗教画を映像化する。キリストと共に十字架に張り付けられるエキストラの男は、昼食を食べ損ね、ようやく手に入れたリコッタ・チーズを食べ過ぎて本当に十字架の上で死んでしまう。つまり宗教画を演じながら、現実的な理由で死んでしまうというパロディで、ほかにも娼婦がマリア役を演じたりしていたことから、パゾリーニはカトリックを侮辱した罪に問われた。

2つめがキェシロフスキ「アマチュア」(1979ポーランド)
工場のドキュメンタリーフィルムを撮り始めた工員は、アマチュア映画祭で入賞するまでになるが、映画のせいで仕事や家庭が破綻していく。彼は、ありのままを撮ることの困難をどう克服するか?共産党政権下、孤高のラストシーンで答えを出したキェシロフスキは、この作品でモスクワ映画祭グランプリを受賞した。

どちらの作品も、映画の原点というべき突き抜けた強さと面白さがあるが、ゴダールの「パッション」はその点、中途半端。工場経営はうまくいかず、ビデオ映画制作もうまくいかず、工場長夫人は恋敵の女工を伴い、監督はさらに別の女を誘い、彼らを乗せた2台の日本車は、別々に戒厳令下のポーランドへ旅立つのだ。なんと無責任で軽薄なエンディング!そんな突き抜けたチープさにも、やっぱり私は痺れてしまう。

「パッション」にはこんな会話が出てくる。

娘「どうして、ものには輪郭があるの?」
父「輪郭なんてないさ」

2人の女、昼と夜、労働と愛、絵画と映画、音楽と映画…異なる概念を自在に取り込み、揺れ動きながら、そのどちらでもない、まったく別の新しい真実を求めればいい。ゴダールがやっているのは、そういうことだ。輪郭を外し、映画らしくない映画を撮ること。映像とセリフは噛みあわず、クラシックの名曲はズタズタにされ、耳ざわりなクラクションやハーモニカが映画の邪魔をする。

歳をとるとは、輪郭を濃くすることかもしれない。生活を固め、社会的地位を固め、他者を威圧し、しかるべきものを残そうとする。ただし、そんな生き方をお手本として押し付けられるのは、ちょっとつらい。
過剰な荷物はいつでも捨てて、何の心の準備もないまま、さっとクルマに乗ってどこかへ行ってしまう。そんな輪郭の不確かな生き方を、忘れたくないと思う。

*1982年スイス=仏映画
*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2002-08-19

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