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『エレニの旅』 テオ・アンゲロプロス(監督) /

太陽よりも、くもり空。

沖縄でのモデル撮影に同行したが、雨だった。1年分のポスターを撮影しなければならないのだから、予定調和的にいえば、夏のポスターはピーカンの海岸でということになる。だが、ちっとも晴れないし「晴れ待ち」の時間もない。
撮影がスタートすると、意外といいんじゃないかと思い始めた。モデルの肌が濡れるのもいいし、まぶしすぎて表情が固まってしまう心配もない。雨の海岸はちっとも沖縄らしくないけれど、そもそも沖縄のイメージというのが、あまたのピーカンポスターによってつくり出されていることは間違いない。

一方、私にとってギリシャのイメージといえば、どんよりとしたモノクロームの海と空である。これは間違いなく、陽光に満ちた地中海ロケにおいて断固たる「曇り待ち」をするアンゲロプロス監督のせいだ。

最新作「エレニの旅」は水没する村の物語だから、雨のシーンも多かった。監督はCGを使わず、映画のために2つの村をつくってしまった。ひとつの村は、1年のうち数か月だけ水が干上がる湖に建設し、水が満ちるのを待ったのである。

沈むことを前提とした村をつくるなんて、どこかのディベロッパーみたいだ。売ることを前提としたビルを建て、テナントを誘致して付加価値を高めて…。しかし、アンゲロプロスは企画屋でもブローカーでもない。撮影によってイメージが具現化する瞬間こそが喜びと語るピュアなアーティストだ。「一番好きな工程は撮影なんだよ。今までこの世に存在しなかったもの、自分でも予想しなかったものが生まれる瞬間がね」

アンゲロプロスならではの、決めのシーンが随所に登場する。そのたびに笑いや拍手が起こってもいいんじゃないかと思うくらいのサービスぶりだ。ロビーでは「あれがアンゲロカラーだよねえ」なんて語り合うファンの声も。

1シーン1カットの長回しも、むしろ短く感じられるほどで、あげくの果てには「え、もう終わりなの?」って感じ。2時間50分の映画をこんなふうに感じるのは、私が重篤なアンゲロ中毒患者であると同時に、この映画が3部作の1つめに過ぎないからだろう。

アンゲロプロスの映画の特徴は、国境を越える難民。そして、たとえ殺される寸前であっても相手の国籍をたずね、自らを名乗ることだ。私は誰であなたは誰なのか? この映画では、エレニのうわごとに集約されている。
「看守さん、水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません。また違う制服ですね。あなたはドイツ人ですか? 私の名前はエレニです。反逆者を匿った罪です。私は難民です。いつどこへ行っても難民です。今度はどこの牢獄です?」

映画のあと、傘もなく、雨の銀座をさまよった。日曜だったため目指す店がすべてクローズし「夕食難民」になってしまったのだ。霧雨の中、しっとりとぬれた街は映画の続きのようだったが、お気楽な難民である私には、水没する町が美しい理由、悲劇の物語を限りなく美しく撮る理由がわからなかった。

ボートの群れ、木に吊り下げられた羊たち、別れの赤い毛糸…この映画の決めのシーンは、すべて哀しみに満ちている。それは難民という、旅をせざるを得ない人々を象徴する美しさだ。「必然性をもった旅」という推進力によって映画は進み、監督のピュアな想像力によって風景や音楽が具現化される。現実の物語をなぞったものではなく、まさに「今までこの世に存在しなかったもの」の美しさなのだろう。

アンゲロプロスの映画には、一国の階級意識に縛られることの下品さとは無縁の清清しさがあると思う。

*2004年 ギリシャ映画(ギリシャ・フランス・イタリア・ドイツ合作)

2005-05-03

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『巨匠たちの秘蔵ドキュメンタリー』 テオ・アンゲロプロス/マノエル・デ・オリヴェイラ/アモス・ギタイ/クシシュトフ・キェシロフスキ /

1時間でわかる、各国の現実。

下北沢の短編映画館トリウッドで、夢のようなイベントが開かれた。ヨーロッパと中東を代表する4人の映画監督の、ビデオやDVDになっていないドキュメンタリー作品が1日限りで上映されたのだ。この4本、見事な起承転結になっていて面白かった。

●「アテネ-アクロポリスへの三度の帰還」by テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)1982・44分

アクロポリスをめぐる歴史の再発見。監督がかつて住んでいた家の下から古代遺跡が発見され、発掘作業が進んでいる。おもちゃが見つかり、自分の部屋の真下に少年の部屋があったことがわかったという。これ、男の人にとって、父探しどころではない衝撃なんじゃないだろうか。
古代遺跡に比べればごく最近の建物であるともいえる新古典主義の建物がどんどん壊され、発掘が優先されているらしい。船のようにゆっくりと進むカメラがとらえる街は魅力的だが、偉大な歴史を抱える都市に住むというのは、つまりこういうことなのだ。
舞い上がれない蝶や鳥、ストップモーションの人物など、アンゲロプロスらしい宙吊りのイメージが多数登場し、絵づくりが冴える。オリンピック前に世界が見るべき1本だと思うけど、7月10日から東京国際フォーラムで開かれる「テオ・アンゲロプロス映画祭」でも上映されないしなあ。

●「リスボン」by マノエル・デ・オリヴェイラ(ポルトガル)1983・61分

ポルトガルの人も大変そうだ。大航海時代の偉業抜きには語れない港町リスボン。歴史を全方位からていねいに浮かびあがらせる真面目さはオリヴェイラならでは。このドキュメンタリーをドラマとして完成させたのが「永遠の語らい」(2003)だと思う。華やかな歴史とは対照的なファドのメロディーがあまりにも哀切。哀切は、眠い。

●「オレンジ」by アモス・ギタイ(イスラエル)1998・58分

イスラエルの経済を支えているのは、そんなポルトガルが中国から持ち込んだオレンジなのだった。アモス・ギタイは、オレンジ産業をベースに、イスラエルとパレスチナの対立構造を、ゴダールのような1+1(古い写真を繰り返し写すパート+ドキュメンタリーパート)の手法であぶりだす。
暗く重いテーマだが、鮮やかなオレンジ(柑橘類)の映像が救いになっている。果物に罪はないし、オレンジだけは豊富にあるという国に、ある種のうらやましさを感じたってバチは当たらないだろう。実際、映画の中では「足りないものを嘆くのではなく、豊かなものに目を向けるべき」というような小説のメッセージが繰り返し引用されるのだ。
イスラエル産の柑橘類にはJAFFA(ヤッファ)のシールが貼ってある。ヤッファとはもともと町の名前だが、いつの間にかオレンジを意味するようになった。

●「I’m so so」by クシシュトフ・ヴィエジュビツキ(ポーランド) 1995・56分

クシシュトフ・キェシロフスキ監督が主演し、彼の助手が監督をつとめる。キェシロフスキ監督は、この映画に収まった数ヶ月後、突然の心臓発作で亡くなるのだが…。
「I’m so so(まあまあ)」というタイトルは、「最近どう?」と訊くと「最高さ!」とハイテンションで答えるような中身のないアメリカ文化は苦手だと監督が語るシーンからきている。気のおけないスタッフとの会話の中に監督の才気が光り、私はもう釘付け。「偶然によって運命は変わるが、たとえ何かを失っても誠実な人は誠実なままだし、そうでない人はそのまま」などと監督はおっしゃる。
「僕は悲観主義で、未来が怖い」ともおっしゃっていたが、あくまでも楽観主義への痛烈な批判なのであリ、監督は意外にウソツキであることが最後にわかるのであった。

2004-06-29

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 青山真治(監督) /

役に立たない音を、出してみたい!

ギターを手にした浅野忠信が、4つの巨大なスピーカーを据えた草原で爆音を轟かせるシーンを見て、ヴィンセント・ギャロが白い砂漠をバイクで疾走する「ブラウン・バニー」の印象的なシーンを思い出した。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由は、似ているのだと思う。

人間を自殺に至らしめる「レミング病」のウィルスが世界中に蔓延しつつある2015年。「浅野忠信と中原昌也のユニットが演奏する音楽に、発病を抑える効果がある」という事実がつきとめられる。

職人的な2人が、海やスタジオで黙々と作業したり、岡田茉莉子のペンションで食事したりする日常の風景は気持ちいい。演奏以前の「音づくりの原点」の描写はそれだけで楽しくて、ちょっとしたセリフすらも邪魔に感じてしまうくらいだ。近未来という設定や富豪一族の盛衰、回想シーンなどの説明的な要素も、うっとうしい。

結局、彼らの音はレミング病にきくのだろうか? 「本気の自殺」と「病気の自殺」はどう違うのか? ・・・んなことも、どーでもいい。理屈っぽいことは抜きに、ただただ開放的なロケーションと音楽を心ゆくまで楽しみたいのですが、ダメですか?

ウィルスに感染しなくたって、先進国では多くの人が自殺する。死を選ばなければならないほど不幸な人が多いともいえるけど、自由に死を選べるほど幸福な人が多いともいえる。誰がいつ病気や事故で死ぬかわからないのと同じくらい、誰がいつ自殺するかはわからないし、その本当の理由や感想なんて想像できない。生きている人を観察したって、その人が今幸せかどうかなんて判別できないわけだし、他人が決めつけるほど失礼なことはないだろう。

誰かが死んだとき、近くにいる人は、必要以上にがっかりしたりせず、自分の仕事をまっとうしろ! そういう職業映画なのだと思う。浅野忠信は、恋人に加え、仕事のパートナーまで自殺で失うが、このことが既に「音楽で人の命なんか救えない」と証明しているようなものだ。

パートナーの遺影は、パソコンのモニターに映し出される動画。浅野忠信は、死後も作業を続ける彼の姿を見て笑う。岡田茉莉子は、何十年もかけてようやく美味しいスープがつくれるようになり、客なんて来なくてもペンションの営業を続けていく。生きている人は、生きている限り、淡々と生き続ける。

誰かを救うために演奏するのではなく、したいからする。音のききめは、天に訊け!
むしろ音楽は、死者のために演奏されるべきで、誰かが死んだら、生きている人が「もっと生きる」しかない。すべての音はレクイエムであり、すべての表現は、先人へのリスペクトからスタートするはずだ。 この映画から思い出されるのは、ギャロの「ブラウン・バニー」だけじゃない。小津「秋日和」ヴィスコンティ「異邦人」アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」ロバート・フランク「キャンディ・マウンテン」ヴェンダース「ことの次第」・・・。

先人や先輩をリスペクトし、影響を受けまくる映画監督、青山真治の真骨頂。
敬愛する人々の声をききつつ、自分の音を奏でるこの映画は、「役に立つこと」や「元をとること」ばかりを目指す商業主義的な表現への、痛烈な皮肉でもあるのだろう。

非常識なくらい大きな音を出すというだけで、価値がある。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由と、映画を撮る理由は、似ているのかもしれない。

2006-02-14

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