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『ブラウン・バニー』 ヴィンセント・ギャロ(監督) /

女性ファンを捨てたギャロ。

「バッファロー’66」のギャロは可愛いけど、「ブラウン・バニー」のギャロは可愛くない。

彼は、もはや自分しか見ていない。プロデュース、監督、脚本、主演、ヘアメイク、衣装、美術、撮影監督、カメラ・オペレーション、編集のすべてをこなし、男のエゴと孤独をナルシスティックに突き詰めることで、中途半端なファンを切り捨てた。「バッファロー’66」は上質なエンタテインメントだが「ブラウン・バニー」はミニマムなロードムービー。彼は、女にもてるだけのかっこよさから、本物のかっこよさへと突き抜けた。

男の旅や仕事の空しさを、ここまで赤裸々に見せた映画があるだろうか。こんなもの、できれば見たくない。が、カメラを手に放浪する男たちのほとんどが、カッコつけすぎていてカッコ悪すぎる、という現実をふまえると、ギャロはよっぽどマシである。男が旅に出るんだったら、このくらいまでやらなくちゃ。あるいはカメラなんて持たずに出かけるか。

ギャロ演じる男は、ニューハンプシャーでのバイクレースを終え、次のレースのため、HONDAを黒いバンに積みカリフォルニアへと向かうのだが、この男がレーサーでよかったなと、つくづく思う。単なる放浪男だったら、許せません。かろうじてOKなのは、レースという男の仕事の途中だから。かつてバイクレーサーだったギャロは、実際にレースに参加して冒頭のシーンを撮影したという。細部の「本気」が、映画を「ギリギリのかっこよさ」へと導いているのだ。

男は旅の間、ずっとメソメソしている。「バッファロー’66」では、女にクルマのフロントガラスを拭かせる神経質っぽいシーンがあったけど、この映画のフロントガラスは、ずっと汚れたまま。拭いてくれる女は、いないのだ。

リリー、ローズ、ヴァイオレット・・・花の名前をもつ通りすがりの女たちを、男は、雑草を摘むようにナンパする。だが、彼には本命のデイジー(クロエ・セヴィニー)という花がいて、彼女のことしか頭にない。好きな女も支配できず、雑草も道連れにできない彼は、永遠に成熟できない「茶色いうさぎ」。根っこのある花たちに、走り続ける小動物の気持ちがわかるはずもなく、男はほんの少し蜜を吸い、自己嫌悪に陥るだけだ。

彼の屈折した感情は、デイジーとの再会シーンですべて説明されるのだが、私には、ギャロという監督が、クロエ・セヴィニーという女優に向かって「どうしてお前はハーモニー・コリンの映画に出たんだよ?オレの映画だけに出ろ!」と詰め寄っているようにしか見えなかった。

ギャロは、ハーモニー・コリンの「ガンモ」(1997)を本気で嫌っているらしいけれど、ハーモニー・コリン脚本、ラリー・クラーク監督の「KIDS」(1995)「KEN PARK」(2002)は嫌いではないはず。だが、若者を偏愛し、彼らと楽しく映画を撮っているように見えるラリー・クラークやパゾリーニとは違い、ギャロは何者も愛せない。これはもう、ロバート・クレーマーに共通する個人的なドキュメンタリー映画といっていいんじゃないだろうか。ギャロは、彼の映画「Doc’s Kingdom」(1987)に出演しているらしいし…すべては、つながっているのだ。

渋谷シネマライズでは「年忘れハード・コアNIGHT」と称して「ブラウン・バニー」「ラストタンゴ・イン・パリ無修正完全版」「愛のコリーダ2000」をオールナイト上映していたけど、そうじゃなくて!
お願いだから、イエジー・スコリモフスキ「出発」(1967)モンテ・ヘルマン「断絶」(1971)とロバート・クレイマーの「ルート1」(1989)と一緒に上映して!

*2003年アメリカ
*上映中

2003-12-31

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『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 青山真治(監督) /

役に立たない音を、出してみたい!

ギターを手にした浅野忠信が、4つの巨大なスピーカーを据えた草原で爆音を轟かせるシーンを見て、ヴィンセント・ギャロが白い砂漠をバイクで疾走する「ブラウン・バニー」の印象的なシーンを思い出した。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由は、似ているのだと思う。

人間を自殺に至らしめる「レミング病」のウィルスが世界中に蔓延しつつある2015年。「浅野忠信と中原昌也のユニットが演奏する音楽に、発病を抑える効果がある」という事実がつきとめられる。

職人的な2人が、海やスタジオで黙々と作業したり、岡田茉莉子のペンションで食事したりする日常の風景は気持ちいい。演奏以前の「音づくりの原点」の描写はそれだけで楽しくて、ちょっとしたセリフすらも邪魔に感じてしまうくらいだ。近未来という設定や富豪一族の盛衰、回想シーンなどの説明的な要素も、うっとうしい。

結局、彼らの音はレミング病にきくのだろうか? 「本気の自殺」と「病気の自殺」はどう違うのか? ・・・んなことも、どーでもいい。理屈っぽいことは抜きに、ただただ開放的なロケーションと音楽を心ゆくまで楽しみたいのですが、ダメですか?

ウィルスに感染しなくたって、先進国では多くの人が自殺する。死を選ばなければならないほど不幸な人が多いともいえるけど、自由に死を選べるほど幸福な人が多いともいえる。誰がいつ病気や事故で死ぬかわからないのと同じくらい、誰がいつ自殺するかはわからないし、その本当の理由や感想なんて想像できない。生きている人を観察したって、その人が今幸せかどうかなんて判別できないわけだし、他人が決めつけるほど失礼なことはないだろう。

誰かが死んだとき、近くにいる人は、必要以上にがっかりしたりせず、自分の仕事をまっとうしろ! そういう職業映画なのだと思う。浅野忠信は、恋人に加え、仕事のパートナーまで自殺で失うが、このことが既に「音楽で人の命なんか救えない」と証明しているようなものだ。

パートナーの遺影は、パソコンのモニターに映し出される動画。浅野忠信は、死後も作業を続ける彼の姿を見て笑う。岡田茉莉子は、何十年もかけてようやく美味しいスープがつくれるようになり、客なんて来なくてもペンションの営業を続けていく。生きている人は、生きている限り、淡々と生き続ける。

誰かを救うために演奏するのではなく、したいからする。音のききめは、天に訊け!
むしろ音楽は、死者のために演奏されるべきで、誰かが死んだら、生きている人が「もっと生きる」しかない。すべての音はレクイエムであり、すべての表現は、先人へのリスペクトからスタートするはずだ。 この映画から思い出されるのは、ギャロの「ブラウン・バニー」だけじゃない。小津「秋日和」ヴィスコンティ「異邦人」アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」ロバート・フランク「キャンディ・マウンテン」ヴェンダース「ことの次第」・・・。

先人や先輩をリスペクトし、影響を受けまくる映画監督、青山真治の真骨頂。
敬愛する人々の声をききつつ、自分の音を奏でるこの映画は、「役に立つこと」や「元をとること」ばかりを目指す商業主義的な表現への、痛烈な皮肉でもあるのだろう。

非常識なくらい大きな音を出すというだけで、価値がある。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由と、映画を撮る理由は、似ているのかもしれない。

2006-02-14

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『10ミニッツ・オールダー』 コンピレーションフィルム /

10分×15本。玉石混合。

「イデアの森(チェロ編)」の8本を日比谷で見て、「人生のメビウス(トランペット編)」の7本を恵比寿で見た。「世界の巨匠監督15人による究極のコンピレーションフィルム」という触れ込みなのに、どうして同じ映画館で上映しないんだろう。チェロ編を先に見た人は、あまりのつまらなさに、恵比寿までわざわざ足を運ぶ意欲を失ってしまうのでは?というのは余計な心配ですが。

チェロ編はがっかりするような作品が多く、ならば自分で撮るぜ!と思う人が増えるかもしれない。ゴダールの「時間の闇の中で」は、たった10分の中にパゾリーニの最高傑作「奇跡の丘」やゴダールの最高傑作「小さな兵隊」「女と男のいる舗道」カール・ドライヤーの映画を見ながら大粒の涙を流すアンナ・カリーナのアップなどが引用され、編集センスの光る大満足な1本だけど、巨匠が左手でつくってる感じ。ズルイ。(選外)

トランペット編の7本は粒ぞろいだ。中でもトレーラーハウスでの10分間を描写したジム・ジャームッシュ「女優のブレイクタイム」のキャスティングはすばらしすぎ。クロエ・セヴィニーがこんなにいい女優とは。「ブラウン・バニー」で彼女をあんなふうに使ったギャロに比べ、こんなふうに使ったジャームッシュはモテモテのはず。女優という仕事、女という性のやるせなさを、彼は完璧に理解しているのだと思う。食事にタバコをさすシーンは歴史に残る心理描写。私もやってみよう。女優として。(1位)

ヴィム・ヴェンダースの「トローナからの12マイル」は笑えた。設定の不自然さや過剰な説明や陳腐な幻覚描写といったぎりぎりのダサさをポップな疾走感でさらりとクリア。幻覚のあとのナチュラルな日常に泣ける。女の子、最高。やっぱり映画はキャスティングなのだ。この女の子は男を救う役柄だが、実は映画全体を救っているのだった。(2位)

ヴェルナー・ヘルツォークの「失われた1万年」は、アマゾンの奥地の少数民族を撮った異色のドキュメンタリー。文明との接触による彼らの短期間の変化や白人女性とのセックス体験はショッキングだが、あざといシーンをあざとく撮ってもあざとさを感じさせない理由は、切実なシンパシーがあるからだと思う。撮影対象の異色さはこの映画の本質ではなく、重要なのは監督の視点の異色さだ。(3位)

ビクトル・エリセの「ライフライン」は長熟型の1本。このみずみずしさと緻密さは何?ゼロからオリジナルを生み出しているとしか思えないまっさらな描写。まっさらすぎて平和を描いたのか恐怖を描いたのかもわからない衝撃。ステレオタイプな決め付けとは無縁の絵づくりには心洗われる。「世界の最後の10分」を撮ったゴダールとは対照的に「監督自身の最初の10分」を映画にしているのだが、気が付けば、赤ん坊を眺めているはずの私たちが赤ん坊になっている。生まれて初めて感じた空気は、たぶんこんな感じだったろう。言葉以前の人間や歴史の手ざわり。どうして忘れていたんだろう?私たちは赤ん坊のように言葉を失う。光がしみこみ、リズムが体に刻みこまれる。あとは体内で言葉が解凍していくのを待つだけだ。

多作が求められがちな世の中で、寡作な人っていいなあと思える幸せ。あとで思い返すと、自分の体験のように思える幸せ。それがビクトル・エリセの映画の楽しみだ。注ぎ込む思い入れの強さ。たった1つの描写の強さ。何年もかけて味わいたいスペインワイン。(保留)

*2002年 ドイツ・イギリス
*上映中

2004-01-14

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