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『一人称単数』村上春樹
『ラーメンカレー』滝口悠生

不自由な村上春樹と、自由な滝口悠生。

村上春樹の6年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』が4月13日に新潮社から発売される。さらに今秋には、直筆サインとシリアルナンバー入り愛蔵版(税・送料別で10万円!)が限定300部で刊行予定だという。

これに先立ち、2月10日、ウォーミングアップにぴったりな最新短編集『一人称単数』(文藝春秋)が文庫化されたのだが、この日は、滝口悠生の最新短編集『ラーメンカレー』(文藝春秋)の発売日でもあった。
2つの連作短編集の初出は、どちらも雑誌「文學界」。村上の短編は2018年7月号〜2020年2月号に掲載され(表題作のみ書き下ろし)、滝口の短編は2018年1月号〜2022年5月号に掲載された。

この2冊の共通点は、読みながらプレイリストをつくりたくなるほど、音楽が重要な役割を果たしていることだ。
『一人称単数』には、ビートルズのアルバムタイトルである『ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles』、シューマンのピアノ曲タイトルである『謝肉祭(Carnaval)』、そして『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という3つの音楽系小説が収録されており、ほかの短編にもたくさんのポップスやクラシック音楽が登場する。
一方、『ラーメンカレー』には、ブルーハーツの人気曲タイトルである『キスしてほしい』、徳永英明のデビュー曲タイトルである『レイニーブルー』という2つの音楽系小説が収録され、ほかにもボブ・ディラン『戦争の親玉』BTSの『Dynamite』などが登場する。

また、『一人称単数』を読んでいるとビールワイン、ウォッカ・ギムレットなどが飲みたくなるのに対し、『ラーメンカレー』はタイトルからして食欲をそそる。きちんと読み込めば、イタリアの本格カルボナーラや黒米を使った料理、さらには何種類ものスリランカ・カレーがつくれるようになるだろう。

ただし、この2冊は全く似ていない。村上春樹というジャンルと滝口悠生というジャンルは、真逆なのだと思う。

『一人称単数』は、まじめに生きているはずなのに、いつのまにか理不尽なものに巻き込まれ、追い詰められていくような、孤独でストレスフルな一人称小説。僕は悪くない、僕の責任じゃないという長い言い訳と、考え抜かれた完成度の高い比喩は、村上春樹の真骨頂だ。
他方、『ラーメンカレー』は、一人称も二人称も三人称もありの自由な小説。著者は、自分よりも他人の声に耳を澄ませており、人称や文体が偶発的に変化する。些細なことを緻密に描写しているだけで世界が無限に広がっていくインプロビゼーション感は、滝口悠生の真骨頂だ。

2023-4-5

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『悪口』上田岳弘 / 『群像』8月号

人類が絶滅するかもしれない濃厚接触。

シアターコクーンで『太陽2068』(前川知大作、蜷川幸雄演出)を観たのは2014 年のことだ。描かれていたのは、バイオテロで拡散されたウイルスにより、人間が「ノクス」と「キュリオ」に二分された世界。ウイルスの抗体で進化し、若い肉体と知性を得た都市型人間が「ノクス(=夜)」で、感染を恐れ、ノクスから距離を置いて生きる旧人類が「キュリオ(=骨董品)」だった。

近未来のSFめいた設定が、わずか6年後の2020年にこれほどリアルに感じられるなんて、そのときは思ってもみなかった。もはや後戻りはできず、withウイルスの作品にしか現実味が感じられなくなっている。コロナ以前の小説も「キュリオ」として愛読していきたいけれど、いま読みたいのは、ウイルスと積極的に絡んでいく最前線の「ノクス小説」だ。

上田岳弘の短編『悪口』の主人公は、フリーのシステム開発者である。緊急事態宣言下の連休中、久しぶりに街に出て、恋人の十花(とうか)と会う。那須への旅行がキャンセルされた代わりに、都内のホテルで1泊することに決めたのだ。新型コロナウイルスが流行っていても人類は順調に増え続けており、六本木の外れのラブホテルは昼間から満室に近い。空いていた部屋は露天風呂付きで、二人はあれこれデリバリーを頼み、湯に浸かりながらスパークリングワインを飲む。

えー、何これ、楽しそうじゃん? だけどふいに現れる「悪口のレッスン」という言葉にざわっとする。バツイチの主人公は、やや世の中を舐めた感じの露悪的な男のようだ。自己評価の低い自信なさげな女が、ちょっとずつ自分に慣れていく様がたまらなく好き。彼は十花に「悪口」を言わせるように仕向け、健やかな世界を不快に思う気持ちを共有したいらしい。それは、二人で楽しむ恋愛頭脳プレイの甘やかなスパイスでもある。

悪口とは、口から体内に入りこんで悪さをするウイルスのようなものだろうか。どれだけの影響力や殺傷力をもつのだろうか。彼は、自信過剰なのか不遜で傲慢なのかよくわからない自分自身を、元妻や十花の辛辣なセリフによって知ろうとし、強いんだか弱いんだかよくわからない新型コロナウイルスの本当の力を、遺伝子の塩基配列コードの長さによって把握しようとする。

「僕にだって多くのことに切実さを覚える時期があった」と、彼は自虐的に回想していた。それは、さまざまな経験を重ね、鈍感になりつつある一人の男の、ほのかな焦りのようなものかもしれない。ウイルスによる人類の敗北の可能性を「たかが絶滅だろ?」とうそぶきながら、それでも持てる肉体とテクノロジーを駆使し、リアルな痛みの感覚にアクセスしようとする真摯さに、ロマンチックなオトコギを感じてしまった。

2020-7-26

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『冬時間のパリ』オリヴィエ・アサイヤス(監督)

過渡期の雑談って、こんなにおいしい。

おいしいものを食べて、飲んで、しゃべる。年末の飲食店は、尋常ではない活気にあふれている。ところでみんな、何をしゃべっているのだろう?

パリを舞台にした、食事とワインと恋愛と雑談のマリアージュ映画を見た。はじめのシーンは出版社で、2人の男(老舗出版社の幹部でもある編集者とヴァンサン・マケーニュ演じるアラフォーの小説家)が話をしている。その後、場所を変え、ランチを食べながら会話を続ける2人。

ロケ地はマルグリット・デュラスが通っていたというパリ6区のビストロで、編集者はリブロースとサラダ、小説家はテリーヌとヒラメのアイオリソースを注文する。だが結局のところ、小説家の新作は、編集者の意向でボツになったのだと、あとになってわかる。理由は、古くさくて悪趣味だから(笑)。彼が得意とする私小説は、自身の恋愛をネタにするため、炎上しやすくもある。

もちろん彼の私小説のファンも多いようで、ジュリエット・ヴィノシュ演じる編集者の妻などは、ぐっとくるような文学的理由で擁護する(実はこの2人、秘密の関係を結んでいるのだが…)。また、編集者は編集者で、社内のデジタル担当の若い女性と不倫している。

恋愛映画というよりは、出版界の危機をベースにした「過渡期のお仕事映画」であるところがオリヴィエ・アサイヤスの特筆すべきユニークさといえるだろう。編集者と私小説作家をはじめ、それぞれマンネリな女優だったり問題を起こす政治家の秘書だったりブログが人気の流行作家だったりする彼らは、パートナーや友人や仕事相手や不倫相手と、パリの自宅やカフェ、マヨルカ島の別荘で集う。ワインや食事を楽しみながら、とりとめのない議論を繰り広げるのである。

とりわけ面白いのが、クレバーかつセクシーなデジタル担当者。危機に瀕した出版社を改革すべく引き抜かれた彼女が語るドライなビジョンは、希望に満ちたいかがわしさというべきものか。彼女と編集者は、ベッドを共にしながらも、仕事の話ばかりしている。

反面、私小説作家の日常は、かなりウエットだ。本屋でのトークイベントは、少人数でアットホームな雰囲気なのに、読者からの質問は痛烈。ラジオの生放送に至っては沈黙してしまい「では、(小説の問題の場面で上映されている)ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』のあらすじを紹介してください」なんて言われてしまう。

キーワードは、ヴィスコンティの『山猫』(1963)に登場する「変化しないための変化」というニュアンスの言葉。現状維持を望むなら変化が必要であり、そのまま何もしなければ退化するだけということ。この真理だけは、いつの時代も変わらないのかもしれない。

何をやめ、何を始め、何を再接続するか。それはもはや戦略などではなく、生きる喜びそのものだと思う。

2019-12-31

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ごあいさつ

言葉は、みずみずしい。

広告は、やわらかい。

本は、おいしい。

ワインは、いろっぽい。

イタリアは、ちょうしがいい。

ランジェリーは、こうばしい。

映画館は、あたたかい。

好きは、くるしい。

『アンジェリカの微笑み』マノエル・ド・オリヴェイラ(監督)

愛が恋に変わるとき。

今年惜しくも106歳で亡くなったオリヴェイラ監督が、2010年、101歳のときにカンヌ国際映画祭<ある視点>部門のオープニングを飾った『アンジェリカの微笑み(The Strange Case of Angelica)』が、ようやく日本で公開された。監督は1952年、この脚本の第一稿を書いたという。どんな時代に見ても変わらないであろうシンプルな強度をもった作品で、世界はいつだって、まっさらな気持ちで撮り直すことができるのだと思った。舞台は、世界遺産に登録されている歴史あるポートワインの産地だ。 

死を扱いながら、これほど嬉しくて楽しくて美しい映画があるだろうか。繋がりたくないものとばかり繋がってしまいがちな現代において、どこにも繋がらずに繋がりたいものと繋がれるこの映画はユートピア。死んでいるはずのアンジェリカの表情は笑っちゃうほど魅力的だし、死者を死者らしくない真逆のベクトルで描いてしまうオリヴェイラは、やっぱり天才。

アンジェリカは、結婚したばかりで亡くなった名家の娘。彼女の母は、娘の最後の姿を写真に残したいと望む。撮影依頼のため、執事が夜遅く写真店に行くが、店主はポルトへ出かけて留守だった。最近この町にやって来た写真好きな青年がいるよという通りすがりの男の一言で、イザクの下宿のドアがノックされることになる。

時代設定は現代だが、電話もスマホもデジカメも使わない。イザクは双眼鏡で外を眺め、鍬でぶどう畑を耕す農夫を見つけると、朝食も食べずに写真を撮りに行くような男だ。撮影に使うのはもちろんフィルム。下宿の女主人は、謎めいたイザクを気にかけているが、トラクターの時代に鍬の作業を撮るなんてと、半ば呆れている。

アンジェリカと対峙したイザクは、時代遅れの農夫たちにカメラを向けるのと同じ気持ちで、彼女を撮ったのだろうか。彼が撮影すると、アンジェリカは目を開けて微笑む。彼の「愛」は通じたということだ。だが、死者に微笑まれるという究極の不意討ちをくらった彼は混乱し、結果的に、本気で「恋」に落ちてしまうのだ。

撮影の前、カトリックの修道女であるアンジェリカの妹が、明らかにユダヤ人の名前とわかるイザクに不安を抱くシーンが心に残る。イザクは、信仰の違いなど気にしないと言い、妹を安心させるのだ。アンジェリカの写真は、親族とのそんなささやかな交流の末に撮られたものであり、このとき既に、イザクはアンジェリカを微笑ませていたのかもしれない。

愛しい娘を失った母は彼女の写真を求め、憔悴した夫は彼女の墓を離れない。故人の何に執着するかは人それぞれだ。写真を撮ったイザクは、やがて彼女の生身を求め始める。イザクとアンジェリカは、シャガールの「街の上で」という絵みたいに、夢の中で抱き合って浮遊する。

物語の鍵となる小鳥の死をきっかけに、イザクが走り出すシーンは斬新だ。地上に目的などないはずだから、彼は目的なく走っている。おかしくなっちゃったのね、と言われながら美しいレグアの町を一途に走る滑稽さが、胸を突く。

「アンジェーリカー!」(ジェにアクセント)と叫ぶイザクの声が耳から離れない。愛しい人の名を呼ぶのはコミュニケーションの基本だから、彼はおかしくなったわけじゃないし、願いはちゃんと叶う。私たちは過去や死者、既に終わってしまったように見える考えにとりつかれ、夢中になることもできるのだ。なんて美しいんだろう。そして、何もこわいものはない。

2015-12-12

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