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『ナラタージュ』行定勲(監督)
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』大根仁(監督)

ふりまわされた恋愛の記憶。

『ナラタージュ』と『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』。
対照的な映画だと思う。

『ナラタージュ』の原作は島本理生の長編小説で、『奥田民生〜』の原作は渋谷直角の長編漫画。前者は過去に置き忘れたものを集めたような物語で、後者は今の気分を凝縮したような物語。前者は笑えないが、後者は笑える。前者は重く、後者は軽い。前者はコミュニケーションに時間がかかりすぎるのが難点で、後者はあまりに簡単に何度もキスしすぎるのが難点だ。

『ナラタージュ』のヒロインを演じたのは有村架純で、『奥田民生〜』のヒロインを演じたのは水原希子。前者は壊れるくらい相手を好きになってしまう垢抜けない真面目ガールで、後者は出会う男をすべて狂わせてしまうコンサバビッチなおしゃれガール。前者は「コワイくらい男にふりまわされる女」で、後者は「コワイくらい男をふりまわす女」だ。

しかし、映画の本当の主人公は、ふりまわされる側である。『ナラタージュ』の主人公は、男(松本潤)にふりまわされる女(有村架純)だが、『奥田民生〜』の主人公は、女(水原希子)にふりまわされる男(妻夫木聡)のほうなのだ。ふりまわす側には、まるで中身がなく、罪の意識も痛みもないようにみえる。

そのことを補うかのように、二つの映画には、主人公を別の意味でふりまわすけれど実体のある「痛い名脇役」が存在する。
有村架純の脇には、坂口健太郎が。
妻夫木聡の脇には、安藤サクラが。
このふたりの意外性に満ちた存在感と熱量が、二つの映画に生命を吹き込んだ。

主人公は、やがて、ふりまわされた過去を懐かしく思い出す。どちらの主人公も、不幸になったりしない。強靱である。仕事の夢だってちゃんと叶っているし。この二つの映画は、恋愛にふりまわされる一時期の苦悩を描いているが、それを傷とはせず、幸せな記憶にするための方法がきっちり描かれていて、とても勉強になるのである。

2017-10-7

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『悪人』 李相日(監督)・吉田修一(原作) /

真実は、からだの中に。

私はこれまで、女友だちを2人振ったことがある。自然消滅は期待できず、はっきりと言葉で伝えるしかなかった。

A子は超がつくほどの遊び人。世界を股にかけるようなダイナミックな遊び方と誘いの頻度についていけなかった。理由ははっきりしていた。一方、B子は私を疲れさせる人だったが、その根拠を明示できないことがさらに私を苛立たせた。慕ってくれる女友だちを拒絶するなんて、まさに私のほうが「悪人」だわと落ち込みもしたが、この映画の原作を読み理由がわかった。B子は「安っぽかった」のである。

映画を見て、さらにこう思った。安っぽさは連鎖する。安っぽい女は、安っぽい世界に引かれ、安っぽい要素が少しでもある人間を簡単に安っぽく塗り替えてしまう。そう、小心者の私は、B子によって自分の中の安っぽさが露呈されるんじゃないかという恐怖を感じたのだと思う。実際、この映画に登場する安っぽい女は、安っぽい要素をもつ男たちから、絶句するほど酷い目にあい殺されるのだ。だが、私は安っぽい女に苛立つ彼らの気持ちには共感できたものの、最大のポイントである「なぜ、その苛立ちが最悪の行動につながったのか?」というリアリティにまでは到達できなかった。

安っぽい女によって「悪人」の部分を引き出されてしまう2人の男を演じたのは、妻夫木聡岡田将生。一度も本気で人を殴ったり殴られたりしたことがないんじゃないかと思わせるような清潔感が際立ってしまう彼らには、たたずまいや肉付きに、バランスの悪さや不可解な凄みのオーラがない。弱さや情けなさを演じることはできても、内に秘めた凶暴さや残酷さの片鱗が身体に刻まれていないのだから残念。これは、演技以前のキャスティングの問題だと思う。ただし、脇を固めたベテラン俳優たちには想像力をかきたてる不穏な存在感が十分にあったし、深津絵里は全身を使った動きと表情で、説明不能な女を演じきっていた。

不可解でいびつな人物造型は、吉田修一の小説の特長だと思うが、原作では、いくつもの視点から、彼らの行動や心理がていねいすぎるほどに説明されている。まるでエンターテインメント小説のように。しかしラストは、その説明に意味があるのかと言いたくなる鮮やかな転調。ある意味、エンターテインメントの全否定である。重要なものは何かということをごくシンプルに際立たせるための。

「彼」は悪人だったのか? 大雑把で記号的なくくりの言葉が空しくひびく。つまり、悪人という言葉そのものが安っぽいのである。小説の言葉さえ、ていねいな描写さえ、安っぽく嘘っぽくみせてしまう真実が、最後に浮き上がる。言葉という安っぽい記号から、真実をつむいでしまうなんて、まさに真の作家の仕事ではないだろうか。

真実は、自分の中だけにあるのだ。周囲がどう言おうと関係ないし、目の前の相手の言葉だって、嘘かもしれない。あらゆる間接的な情報は記号にすぎないのだ。自分の身体がどう感じ、どう行動するか。それがすべてなんじゃないか? いろんな解釈はできるし、あとから理屈はつけられる。でもそれは美しい? 単なる説明でしょう? むしろ真実から遠くなるだけじゃない?

真実に近いのは、説明ではなくその場で起きたこと。偶然でも何でもいいから、とにかく、そこで何が起きたかってこと。そこを徹底的に見つめたい。
別のキャスティング、たとえば市原準人が主役を演じるようなバージョンも、見てみたいと思った。

2010-09-21

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『春の雪』 行定勲(監督)/三島由紀夫(原作)/

三島由紀夫(80)の魂はどこに?

三島由紀夫の遺作「豊饒の海」。その第1巻である「春の雪」を読み直しながら、これはレオパルディだ、と思った。たまたまイタリア的悲観主義に関する本を読んだばかりだったので、三島由紀夫とレオパルディが結びついたのだ。

「彼(レオパルディ)の思想を簡単にまとめると、自然を超越するもの(神など)は存在しない。したがって、人間が置かれた状況(身体的、物質的な制限/制約も含め)から逃げられることはあり得ない。そして、人間の状況/環境である自然は、善良で優しいものではなく、邪悪な性質を持つか、それとも、少なくともニュートラルなもので、人間の苦に対しては冷淡で無関心である」 -「イタリア的『南』の魅力」ファビオ・ランベッリ(講談社選書メチエ)より

だけどまさか「春の雪」の終盤に、レオパルディの名がダイレクトに登場するなんて気づかなかった。学習院の校庭外れの草地で「美しい侯爵の息子」である主人公の清顕(きよあき)が、お化けと呼ばれる「醜い侯爵の息子」に初めて話しかける場面。

「いつも何を読んでるの」
と美しい侯爵の息子がたずねた。
「いや……」
と醜い侯爵の息子は本を引いて背後に隠したが、清顕はレオパルジという名の背文字を目に留めた。素早く隠すときに、表紙の金の箔捺(はくお)しは、一瞬、枯草のあいだに弱い金の反映を縫った。

「豊穣の海」全4巻の伏線ともいえる唐突なこの場面は、映画「春の雪」には出てこない。映画を見るだけでは、三島由紀夫のため息が出るような美文とその恐るべき読みやすさに度肝を抜かれることもないし、清顕の豊かすぎる想像力がもたらす屈折したお坊ちゃまぶり-喪失を恐れるがゆえの傲慢さや天真爛漫な残酷さといったきらめくような魅力-も圧倒的にたりない。

だけど、映画「69 sixty nine」における妻夫木くんに清顕との共通点を見出し、今回抜擢したのであろう(あくまで想像ですが)行定監督のセンスはさすがだと思う。個人的には、窪塚くんが演じる清顕も、ぜひ見てみたいところだけど。

映画「春の雪」は後半、禁じられた恋という制約の中、ようやく王道を駆け上がり、転げ落ちる段階になって、主演の2人(妻夫木聡&竹内結子)の魅力が増した。地位や伝統や着物は、乱れてこそ美しいのである。

清顕の周囲は、それぞれの政治力で動く鈍感な大人ばかりだが、中でも「咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ」と原作で表現される蓼科のユニークな人物造型を、大楠道代がうまく表現していたのが面白かった。

特筆すべきは、月修寺門跡を演じた若尾文子で、もうすぐ72歳の誕生日を迎えるというのはうそでしょう?の美しさである。三島由紀夫と若尾文子は、かつて「からっ風野郎」(1960)という増村保造監督のヤクザ映画で共演したというのも驚きだが、三島由紀夫がいま生きていれば80歳。この映画にだって、きっと出演していたに違いない。

いい作品は、作者の死後も、あらゆる世代によって真剣に受け継がれるのだなと思う。
若尾文子の高貴な京都弁、そして、ラストに流れる宇多田ヒカルの「BE MY LAST」が、この作品に魂を吹き込んだ。

2005-11-07

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