BOOK

『負け犬の遠吠え』 酒井順子 / 講談社

広告業界版・負け犬の遠吠え

勝ち犬と負け犬は、簡単に2分できない。
本書によると「既婚・子あり」「既婚・子なし」「離婚歴あり」「未婚でモテる」「未婚でモテない」の順に勝っていることになるが、子供を手放した人や未婚の母はどうなのよ?と考え始めると話はややこしい。強引に線引きするなら「子育てという最も価値ある営みをしているか否か」という話になるようだ。なぜなら、ものすごく価値ある仕事をしているように見えるセレブリティーたちも、出産するや否や「どんな仕事よりも素晴らしい体験!」などとコメントし、素晴らしい仕事すらしていない負け犬たちをがっかりさせるのだから。

その点、林真理子という作家は、子供のことを書かないという原則を貫いている。しかも、彼女のポリシーは、負け犬への気遣いというレベルを超えた長期的な戦略。作家としての生涯ビジョンを優先するプロの姿勢に、負け犬は共感をおぼえるのである。

一方、鷺沢萠という作家は、著者の「負け犬物書き仲間」として本書に登場する。私は彼女が亡くなる3日前、JALの機内誌で、遺稿だったかもしれない彼女のエッセイを読んでいた。それは、波照間島のソーキそばについて綴られた生命力あふれる文章で、タイトルは「世界でいちばん美味しいそば」。私は、ポスターの撮影の仕事で、彼女がいつか住みたいと考えていた沖縄へ行くところだった。

私たちのチームは総勢10数人だが、撮影スタッフと制作スタッフの雰囲気が違う。「おしゃれ」という言葉ひとつとっても互いに共有できない決定的なスタイルの差。
ロケの最中、私はある真実に気がついた。撮影スタッフは、男女含め、全員が完全な勝ち犬だったのだ。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、マネジャー、コーディネーター…。
一方、制作スタッフに、勝ち犬は一人もいなかったのである。プロデューサー、クリエイティブディレクター、アートディレクター、デザイナー、コピーライター(私)…。

このチームの場合、制作スタッフのほうが明らかにコンサバだから「勝ち犬は面白いことを避けて生きる保守派である」という本書の定義は当てはまらない。どちらかといえば勝ち犬たちのほうが、無邪気でやんちゃ。めちゃくちゃな酔い方をしたり、異様にノリがよかったりする素直さが特長である。他方、負け犬たちは少々ひねくれた感じで、球を投げると必ず変化球が返ってくる…。

夕食時、撮影スタッフが泡盛、制作スタッフがスペインワインを注文しているのを見て、私はひざを打った。本書の「負け犬は都市文化発展の主なる担い手でもあるのです」という一文を思い出したのだ。
「青森県の漁港でほんの一時期しか水揚げしない珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティーが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしているからなのです」。

思い返せば、東京でも、フレンチレストランでの打ち上げを企画したのは負け犬だった。その後カラオケに行きたがったのは勝ち犬で、負け犬たちの5倍歌った勝ち犬たちはさらにクラブへと元気に繰り出したが、私はといえば、負け犬同士でまったりとカフェでお茶を飲んでいたではないか。

広告業界における負け犬は、都市文化発展の担い手ではあるものの、体力がやや足りないのかもしれません。体力がないから素直になれず、変化球を投げ続けるしかないのです。

フレッシュハーブティーなど深夜に飲みつつ、素直な写真を見ながらひねくれたコピーを考えるのは、世界でいちばん素晴らしい仕事だと私も信じているわけです。が。

2004-04-26

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『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 / 河出書房新社

キハクさという確信犯。

「やきそばパンの逆襲」は、「パン屋再襲撃」(村上春樹/1985)の実践編である。

「パン屋再襲撃」には、こんなアイテムが登場する。缶ビール、フレンチドレッシング、バタークッキー、中古のトヨタ・カローラ、午前2時の東京(代々木、新宿、四谷、赤坂、青山、広尾、六本木、代官山、渋谷)、24時間営業のマクドナルド、30個のビッグマック、ラージカップのコーラ、ソニー・ベーター・ハイファイの巨大な広告塔…。

あらすじはこんな感じ。学生時代、ぱっとしないパン屋を襲撃したところ、労働の代わりにワーグナーのLPを聴くという条件でパン屋の主人からパンを得てしまった主人公は、結婚して間もなく、原因不明の異常な空腹に襲われ、深夜、妻と一緒に再びパン屋を襲撃する。再襲撃先としてマクドナルドを選んだ理由は、ほかに開いているパン屋がなかったからだが、これは偶然ではなく必然。2人はクルマの中でビッグマックを腹いっぱい食べる…。

一方、「やきそばパンの逆襲」には、こんなくだりがある。
「おまえの親父は、『ハンバーガーみたいなジャンクフードは食べるな』と言うんだよな。でもオレはそうじゃないと思う…オレは時代のど真ん中に食らいついてやると思ってる…戦えよ、アキ、時代と向かい合うことを、サボったりしちゃダメだぞ! 鈍感な奴は、知らないうちに時代に流されてしまうんだからな」

広告代理店を経営する満(48歳)が、部下の明彦(25歳)にハッパをかける場面だ。ハンバーガーを食べることは時代と向き合うこと。つまり本書のメッセージは「マクドナルドを再襲撃せよ」ということなのだ。「パン屋再襲撃」の主人公がマクドナルド襲撃後に見たものは、ソニーの巨大な広告塔で、それが1980年代の真実であった。2004年の本書でははたして何が見えたか…?
やきそばパンである。

やきそばパンは、やきそばでもなくパンでもない。コンビニで両方を買い、ばくぜんと交互に食べているだけでは到達できない新しい概念だ。そんな概念に出会うために、著者はあらゆる既成概念の間を身軽にすり抜ける。本書を貫くトーンは「キハクさ」だが、流されないためのキハクさは確信犯。「この本は中身が薄い」と著者が宣伝していた意味が、読んでみてようやくわかった。それは、本書のもっとも売りの部分だったのだ。

とりわけキハクさが際立つのが男女の描き方で、それらは、村上春樹が描写した暴力的な空腹感やソニーの広告塔と同じくらいリアルに切なく美しく、涙を誘う。

「今は、やりたいことが見えてきたから、男はいらない」「ふーん、男は、やりたいことがない時のもんなのか」
「セックスはお互いを知り合うための有効な手段だとは思うが、お互いが知り合ったあとでは、セックスする意味が半減するような気がした」
「複数の女との共同生活は、ハーレムではないが、新鮮な喜びと充実感があった」
「すぐ隣の部屋にいるのに、メールでの交信は直接会うのとは違う器官でコミュニケーションするような新鮮さがあった。まるでベッドで腕枕をしながら、おしゃべりしているような感覚であった」
「3人の他人が集う食卓は、どこの家庭よりも家庭的であり、幼友だちのような懐かしい信頼感が漂っていた」…

現代の恋愛は、おそらく何かと何かの間をすり抜けているのだと思う。だからきっと、正面から傷つくことも、思い切り笑いとばすこともできないのだ。

2004-04-16

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『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』 多和田葉子 / 岩波書店

2つの唇をもつ女。

ロンドン、ニューヨーク、ミラノ、パリと続いた2004-2005年秋冬コレクションがクライマックスを迎えた。面白そうなショーがたくさんあったけれど、3月3日のコムデギャルソンもそのひとつ。アシンメトリーな服に、唇が2つあるかのように見えるずれたリップメイク。テーマは「魔女の力強さ」だそう。

魔女はあなたでしょう、とデザイナーの川久保玲に突っ込みを入れたくなった。一般に魔女は媚薬や呪術を使うとされるが、本当はたぶん違う。あざとさではなく素直さによって真実を暴き、周囲を翻弄するアーティスト、それが魔女だ。川久保玲がモード界の魔女であるならば、アート界の魔女は草間彌生、ワード界の魔女は多和田葉子だと思う。

本書は、ハンブルグに住み、旅の多い日々を過ごす著者による言葉のロードムービー。私たちは何のために外国語を勉強するのか? 未知の言語はどうして楽しいのか? その答えがぜんぶ書いてある。言葉というものは、それ自体が旅なのだ。

「母語の外に出ることは、異質の音楽に身を任せることかもしれない。エクソフォニーとは、新しいシンフォニーに耳を傾けることだ」

「わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。私はA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない」

「人はコミュニケーションできるようになってしまったら、コミュニケーションばかりしてしまう。それはそれで良いことだが、言語にはもっと不思議な力がある。ひょっとしたら、わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない」

「大きくなってから外国語をやりたくなるのは、赤ん坊の頃の舌や唇の自由自在な動きが懐かしいからなのかもしれない。大人が毎日たくさんしゃべっていても絶対に舌のしない動き、舌の触れない場所などを探しながら、外国語の教科書をたどたどしく声を出して読んでいくのは、舌のダンスアートとして魅力的ではないか」

「なまりをなくすことは語学の目的ではない。むしろ、なまりの大切さを視界から失わないようにすることの方が大切かもしれない」

「好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、『好き嫌いしないで全部食べましょう』をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう」

北ドイツの人は、自分の気持ちを偽ることをひどく嫌う傾向があり、日常生活の中で演技をすることへの反発が強いと著者は言う。店員の愛想が悪いのは、機嫌の悪いときは機嫌の悪そうな顔をしているべきであり、物を買ってくれるからといってニコニコするのは良くないと考えられているからなのだ。

「店員がぶすっとしていると腹が立つ。しかし、そう思って、日本へ行って、エレベーター・ガールなどを見ていると気持ちが悪くなり、ハンブルグに帰りたくなる」

日本は単一言語に近い国だから、2つの言語の狭間を楽しむ代わりに、演技をすることで虚構と現実の狭間を楽しむ習慣があるんじゃないだろうか? 「サイアク!」と思いながら「ステキ!」と微笑む。そのうちに、スゴイとかキテルとかビミョーとかコワカワイイとか、どっちにも解釈できる便利な言葉が見つかったりもする。

ひとつの唇で真実を暴くナイーブな魔女にとっては、2つの唇を使い分ける普通の女こそが魔女に見えるのかもしれない。コムデギャルソンのコワカワイイ魔女メイクを見て、そんなふうに思った。

2004-03-09

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『蹴りたい背中』 綿矢りさ / 河出書房新社

揺さぶりたい首根っこ。

誰かの背中を蹴りたいと思ったことはないが、正面から首根っこを押さえて揺さぶりたいと思うことはしょっちゅうある。もちろん、どうでもいい男に対しては、そんなことは思わない。

どうでもいいヤツはどうでもいいが、どうにかしたいヤツには暴力的になる。ほとんどの女はそうなんじゃないだろうか。要するにそれは愛だ。男は、女から蹴られたり揺さぶられたりしているうちは愛されていると考えていい。「女の子って最初はめちゃめちゃ愛想よくて下手なギャグにもウケてくれるのにだんだん冷たくなるんだよなあ」なんてグチる男がいるが、それは甘すぎる認識。 愛がない時のみ、女は愛想笑いができるのだ。どうでもいい男のことは、深く考えない。

女はいつも、手応えのある男を求めている。蹴り返してくる男、揺さぶり返してくる男、逃げない男、学習能力のある男。この小説の主人公ハツは、とりわけそんな手応えに飢えている。蹴りたい男であるにな川の母親に対してハツは思うのだ。「おばさんの言っていることは正しい。でも叱られ慣れていない私はなかなか素直に反省できない」。そう、ハツには叱ってくれる人がいない。部活の先生は「泣きそうになる」くらい「物分かりいい」し、唯一の女友達である絹代も性格が良すぎてケンカにならない。せいぜいクラスで孤立して、周囲に攻撃的になってみるしかない。そうでもしない限り、愛なんか永遠に手に入らないわけだから。

ハツが初めてのお見舞いと称してにな川に持っていくのは「田舎から送られてきたものでもなく、果物屋でわざわざ買ったものでもない、うちの冷蔵庫から盗んできた桃の二個入りパック」だ。勝手に盗むしかないし、盗んでも親に叱られるわけでもないパックの桃は、コミュニケーションの絶望的な不在の象徴。だが、白い果汁が流れるなまぬるい果肉は、思いがけず、ハツのほのかな野望を暴いてしまうのである。

ハツはなぜ、よりによってアイドルおたくのクラスメイトに目をつけ、蹴ろうとするのか? クライマックスで明らかになるのは、彼女は男を見る際、現時点でのかっこよさではなく、ポテンシャルに着目しているという事実。この場面、にな川にとっては真剣勝負であり、彼がサッカー部のキャプテンであれば青春ドラマになったであろうシーンだ。舞台はスタジアムではなくアイドル待ちの楽屋裏だが、とりあえず何かに本気なヤツは美しい。たとえ間違った方向であろうとも、世間を知らないうちからカッコつけて群れてるような他のクラスメイトよりは明らかにマシなのだ。だからハツは、にな川をとことん見守る。
「にな川の傷ついた顔を見たい。もっとかわいそうになれ」
なんと愛に満ちた教育的な視線だろう。

ただし、いくら背中から蹴ったって、鈍感な男は、愛の存在になんて気付かない。やっぱり面と向かって首根っこを押さえなきゃダメだと思う。
「ハツ、にな川を前から蹴れ!」
私はそう言って、彼女を揺さぶりたくなってしまうのだった。

2004-02-25

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『蛇にピアス』 金原ひとみ / 集英社

門限のないお嬢さま。

金原ひとみの顔やスタイルは、ヨーコちゃんにそっくりだ。ヨーコちゃんは、以前一緒に遊んでいた年下の女友達で、しょっちゅう高級エステに行き、透き通るような肌と声をしていた。彼女から電話があると私は嬉しくて、誘われるままにお目当てのDJがいるクラブにつきあった。一緒に飲んでいると、夜はすぐ明けてしまう。ラリったような酔い方をするヨーコちゃんは、時々事故に遭った。事故というのは彼女の言葉で、要は「気付いたらこんな男のところに!」というようなことだ。同居しているヨーコちゃんの両親は「好きな仕事を見つけなさい」と言う以外は彼女に干渉しなかったらしい。そのうちヨーコちゃんはパリに行ってしまった。

以来、ヨーコちゃんのような子を、たくさん見かけるようになった。門限もなく定職もないお嬢さま。手のひらの上の自由。このキツさは、計り知れない。

金原ひとみは、父親のもとで小説修行し、親が困るくらい恥ずかしいことをもっと書け、などと言われてきたそうだ。放任主義という名のスーパー過保護! 私なら逃げ出す。彼女は逃げ出そうと思わなかったのだろうか。女である限り、結局はどこにも逃げられないことを、彼女は本能的にわかっているのだろうか。

「蛇にピアス」のテーマは、まさにそこだ。身体改造しても、激ヤセしても、危険な場所に行っても、女は自由になれない。どこにだって、守ろうとしたりお持ち帰りしようとしたり結婚しようとしたり死ぬときは俺に殺させてくれなんていう男がいるからだ。その有難さと鬱陶しさ。門限がなくたって、勝手に死ぬことすら許されない。

主人公のルイは、ギャルだ。本人がいくら否定しようが、パンクからもギャングからもギャル友達からもギャルと言われてしまえば、それはもう社会的にルイがギャルだということで、とりあえず今はギャルとして生きるしかない。しかもルイは、コンパニオンができるギャル。マネジャーに気に入られ、着物とウィッグをつけ、ピアスを外し「エリートさん」からいっぱい名刺をもらうのだ。ルイ自身も「ウケのいい顔に生まれて、良かった」と前向きに考える。自分は何者だと主張できないうちは、そうやって迎合していくしかないわけだが、ウケの良さを壊してみたくなるのも当然。身体改造は手っ取り早い方法だ。

この小説の美点は、テーマが文体とリンクしていること。彼女の文章は、余計な部分を削除しすぎたんじゃないかと思えるくらいに洗練された強さをもっている。客観的な批判を恐れたり、自分の文を切り刻まれる痛みをナルシスティックに感じているうちは達成できない強度だ。小説を完成させることは、身体改造に似ているのかもしれない。日々向上しないと気がすまない女は、身体改造に向いていると思う。進歩していたい。変化していたい。細胞分裂していたい・・・でもルイは、アマという男と暮らすことで壁にぶちあたってしまう。

「まあとにかく光がないって事。私の頭ん中も生活も未来も真っ暗って事。そんな事とっくに分かってたけど。今はよりクリアーに自分がのたれ死ぬところを想像出来るって事。問題はそれを笑い飛ばす力が今の私にはないって事」

ルイの危機感は切実だ。危機感は社会性への第一歩。誰かを大切に思ったとき初めて不安が生まれ、誰かと一緒にいることで、人は初めて孤独を知る。好きなように生きているだけじゃ他人を守れない。相手の本名や家族構成を知らないようなつきあいでは、いなくなったとき、捜索願いも出せないってことなのだ。そうやって社会に取り込まれてゆく絶望は、どこにでも言い寄ってくる男がいるのだという鬱陶しさよりも、いっそう切ない。

2004-02-02

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