BOOK

『スモールトーク』 絲山秋子 / 二玄社

彼女がクルマや男と別れる理由。

「イッツ・オンリー・トーク」に登場するランチア・イプシロンにピンときた「NAVI」の編集部が著者の絲山秋子さんに連絡をとリ、毎回異なるクルマが登場するエンスーな短編小説の連載が始まった。それをまとめたのが本書である。

TVRタスカン、ジャガーXJ8、クライスラー クロスファイア、サーブ9-3カブリオレ、アストンマーチン ヴァンキッシュ、アルファロメオ アルファGTという6台のラインナップに加え、著者がどれほどクルマ好きかが手にとるようにわかる6本のエッセイ(最高!)、そして巻末には徳大寺有恒氏との対談(話がかみあってないよ)も収録されている。

短編といっても、ぜんぶがつながっていて、絵を描いている主人公ゆうこと、学生時代の元カレである音楽プロデューサーの物語だ。「沖で待つ」が「同期入社愛」なら、こちらは「腐れ縁愛」。もうぜんぜん愛なんて逆さに振ってもありえない馴れ合いだけのすさみきった関係にぬくもりや成果を見出すことの馬鹿らしさと笑えるニュアンスを、とてもうまく描いている。

それにしても、この男の魅力のなさはどうよ。魅力的なのは何といってもクルマのほうで、ゆうこはクルマの吸引力によってデートを重ねるのである。といってもミーハーなのではなくスーパーマニアック。真性のクルマ好きであるゆうこは、工業製品であるクルマを、不完全な生き物として欠点も含めて包容する。男との別れよりも、彼女自身が所有するアルファ145との別れのほうが、だんぜん切ない。

ふたりの共通の友人である肇がプリウスを買うエピソードも面白い。肇は、ゆうこにプリウスをけなしてほしくてたまらなくて「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う。

「肇はプリウスを買うことで、禿と偽善と家族サービスと洗車奴隷を一手に引き受けたというわけだ。偉くてありがたくて恐れ入る」

ある種のドイツ車やプリウスや冷蔵庫みたいなクルマがどうしてつまんないかっていうと、ある種のドイツ車みたいな男やプリウスみたいな男や冷蔵庫みたいなクルマみたいな男がつまんないからだ。ということが、この小説からはびしびし伝わってくる。駐車場に入れてスロットからキーを抜くと女の声で「お疲れさまでした」なんて言うプリウスと「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う男とはそっくりなわけだ。

ゴルフクラブが収納できて、家族が収納できて、こわれなくて、安心できて、変な目でみられない身の丈サイズのクルマ。でもちょっとだけ見栄を張れる感じ。そういう妥協的観点から多くのクルマは選ばれており、現代の道路はいつも、あきらめに似た気分で渋滞している。昔の映画の中にしか、洗練はないのだろうか。世の中の進化が、妥協の積み重ねでしかないのだとしたら、コワイ。

「新しい車に次々搭載される機能はこの喪失感に何の救いも与えない。神経を逆なでするようなばかばかしい小細工はこれからも続くだろう」

2006-04-06

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『ないものねだり』 中谷 美紀 / マガジンハウス

期間限定の、ホンキ。

中谷美紀に「シミ、本気で治したい。」と言わせたから、エスエス製薬のハイチオールCはヒット商品になったのだと思う。タレント広告というのは安直なニュアンスが生まれやすく、制作側の立場としては「なるべくやりたくないなあ」というのが本音でもあるけれど、彼女を起用した広告なら、私もぜひやってみたい。本気のコピーが書けそうだから。

「アンアン」の連載をまとめたこの本も、タレント本というカテゴリーを遥かに超え、プロのエッセイ集としての読み応えをそなえたものだった。

彼女は、女優らしく茶道や日本舞踊を習う一方、沖縄やタイやインドを旅し、春にはお弁当をつくって友人たちと花見に興じる。食事を何よりも大切に考え、ロケ弁に一喜一憂し、質の高さで定評のあるマガジンハウスの社員食堂にまで足を運ぶ。
フットワーク軽く、豊かに生活を楽しむ彼女の姿には、凡人のあくせく感がない。世に蔓延している「ステップアップ」の呪縛から解き放たれているのだ。それもそのはず、女優というのは、これ以上ステップアップしようのない雲の上の職業。彼女はその中でも仕事を厳選し、綺麗なイメージを保っている稀有な存在ではないだろうか。

何かを選ぶことは何かを捨てること。自分が捨ててきたものに思いをはせる時、それは「ないものねだり」になる。地上に根を下ろす人は空を見上げて「ないものねだり」をするが、彼女の場合は逆。「短ければ2週間、長くても3か月ほどで終わってしまう撮影現場を次から次へと渡り歩き、暇を持て余しては旅をする暮らし」を選んだ彼女にとっては、「地に足のついた暮らし」こそが欠けているのである。

彼女が繰り返し本気で書いているのは、「絶えずいろいろな役が自分のなかを通り過ぎては消えていく女優の孤独」について。それは、受身の美学でもある。受身とは消極性ではなく、大きな流れに身をゆだねること。他人の目を信頼し、プロフェッショナルでありながら柔軟であること。与えられた仕事に全力を尽くし、女優の仕事がなくなったらどうしようかと楽しげに思いをはせる彼女は、非常に職人的だ。

「共に過ごした時間の全てを彼への想いで満たし、一瞬たりとも離れたくないとさえ思えた。映画の撮影であることすら忘れかけていた頃に、例に漏れず別れの日はやって来た。いつもと同じように撮影を終え、いつもと同じように散り散りに部屋に戻った後の喪失感は、まるで自分の一部をもぎ取られたかのようだった」

これは「母親になった日々」と題された項の、痛すぎる一節。擬似的な世界に本気で入り込める資質こそが、プロの女優ということなのだろう。しかし、求められているのは「本物っぽいホンキ」であり「本物のホンキ」ではない。そんな微妙な調整、心の中でできるはずがない。スタッフや相手役以上に仕事にのめり込んでしまった時は、どうすればいいんだ?
彼女がやっているように、仕事と仕事の合間には、別の旅に出るしかないだろう。無理にでもそうしなければ、自分の一部をもぎとられた感覚のまま、ベッドにつっぷして動けなくなってしまうにちがいない。

それでも、懲りずにそんな繰り返しをする。
嘘だとわかっていても、終わりの日がわかっていても、本気になる。
仕事でも恋愛でも、本気で集中できる期間限定の日々は、美しい。

2006-03-22

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『LP MAGAZINE numero2/Spring Summer 06』 / LA PERLA

表参道 VS モンテナポレオーネ通り。

取材を兼ねて、秋冬コレクション開催中のミラノへ行った。モデルやファッション関係者も多いビジネスの雰囲気は楽しいが、そのうちふと思う。これじゃあ東京にいるのと大して変わらない?

ブランド店が並ぶモンテナポレオーネ通りを歩いても、なんだか表参道を歩いているみたい。今や有名ブランドの多くが表参道近辺に進出し、店を構えているからだ。だけど、圧倒的に違うのは建物。石造りの古い建物が続くモンテナポレオーネ通りには、それだけでシックな風格が感じられる。

一方、表参道はといえば、統一感のない建物が無秩序に並び、我こそが目立て!という感じ。新しい建物が次々にできるから、目立てる期間は短く、エスキス表参道なんて、まだ4年ちょっとなのに解体してしまった。この中のいくつかのブランドは表参道ヒルズに移ったことになるわけだが、来年は、ここにどんな目新しいビルができるんだろう?

だが、東京とミラノの本質的な違いは建物じゃない。世界一のブランド輸入都市、東京とは異なり、ミラノの店はほとんどが自国ブランドで、レストランもカフェもブティックもイタリアン。自国の文化で埋め尽くされているというわけだ。

中心街に近い、流行りのレストランを予約してみたものの、場所がわからなくなってしまった。仕事帰りっぽいミラネーゼに聞いたら「この店をどうして知ったの!? ここは超おいしいわよ。一緒に来て」と案内してくれた。
最近、表参道近辺にもアジア方面からの旅行者が多く、私もよく店の場所を聞かれる。でも「この店をどうして知ったの!?」と驚いたりはしない。プラダもコルソコモもレクレルールも輸入ブランドであり、アジアからのお客様にとっても私にとっても、それらは同じ「異国文化」なのだ。もしも骨董品屋や蕎麦屋の場所を聞かれたら、私だって「この店をどうして知ったの!?」と思わず聞き返してしまうかも。

「LP MAGAZINE」は、イタリアのランジェリーブランドLA PERLAが発行している伊英 2か国語併記の雑誌だ。最新号は高級感のあるシルバーの装丁。春夏ランジェリーの紹介やショーのバックステージ、自社製品のハンドメイドへのこだわりやインテリアに関する記事なんかもある。

中でも興味深いのが、イタリアで暮らすことを選んだ日本人女性アーティストへのインタビュー。イチグチケイコ(漫画家)、スズキミオ(インテリアデザイナー)、スナガワマユミ(シェフ)、オガタルリエ(ソプラノ歌手)の4人に「日本へ持って帰りたいおみやげは何か?」「忘れられない日本の記憶は何か?」などと聞いている。

「日本へ持って帰りたいおみやげ」として彼女たちが挙げたのは、長い休暇、ゆっくり楽しむ食事、安くて美味しい肉や野菜、太陽、活気、温かいイルミネーション、社交場としてのバール、エスプレッソマシーン、生ハム、ワイン、パルミジャーノレジャーノ、など。
一方、「忘れられない日本の記憶」としては、四季、花、温泉、桜、新緑、紅葉、新幹線、効率的なサービス、時間厳守、ストがないこと、など。
イタリアのよさは、ゆとりと活気と食文化。日本のよさは、四季折々の自然の美しさと便利さ。そんなふうにまとめられるだろうか。

イタリア在住35年のソプラノ歌手、オガタルリエさんが「忘れられない日本の記憶」のひとつとして「セミの声」を挙げているのを見て気がついた。
表参道にはけやき並木があり、そのせいで、夏にはセミが鳴く。これらは、石造りの建物が並ぶばかりのモンテナポレオーネ通りには、ないものだ。

表参道ヒルズを低層にし、けやき並木を生かすことを何よりも優先した安藤忠雄は、正しいのだ。

2006-03-10

『東京タワー』 リリー・フランキー / 扶桑社

「オトン」と「ボク」。

パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」が東京に進出した。
この店の主役は、肉や魚じゃない。お菓子のようにちまちましたスパイシーなアミューズ、とろけるような球形のバター、コース料理のように次々と登場するデザートのお皿・・・。
メインディッシュは夜景である。といってもそれは、宝石箱のような窓にトリミングされた、ブローチのような東京タワー。「厨房のピカソ」といわれるフランス人シェフのこだわりなのか、ここまで貴重品のように扱われる東京タワーも珍しい。

リリー・フランキーの小説「東京タワー」は、その窓と同じくらい、私にとってリアリティーのないものだった。

母というのはこうでなくちゃ、女というのはああでなくちゃという女性像を押しつけられる感じが強く、読んでいて苦しい。「ボク」にとっての踏み絵は「オカン」だ。「オカン」と相性がよくなければ「ボク」のテリトリーには入れない。

東京へ出てきた「ボク」が極貧の生活から這い上がり、徐々にまともになっていくのは、「ボク」が呼び寄せた「オカン」が「湯気と明かりのある生活」を実現し「ボクが家に居なくても友達や仕事相手がオカンと夕飯を食べているという状況」が珍しくなくなるほど、オカンのキャラクターが多くの人に愛されたからだ。
どこの誰がきても食事をふるまう「オカン」。こんな母親ってうらやましい。だが、この食事もまた踏み絵なのだ。

「お嬢様大学に通いながらゼミの紹介で出版社のアルバイトをしている女学生」が「ボク」のイラストを受け取りに来るが、「オカン」がすすめるお茶や食事にまるで手をつけない。その態度が遠慮ではなく「奇異であり迷惑」の表明と見極めた「ボク」は激しく憤り、彼女が帰ったあと、それを平らげてくれるアシスタントを呼び「マスコミ志望のヤリマンが残したもんだけど」と言うのであった。

この彼女のほか、「オカン」が亡くなった日に原稿の催促の電話をかけてきた女性編集者、そして「オカン」とうまくいかなかった父方の祖母、さらに「オカン」を幸せにしてやれなかった「オトン」に対しても「ボク」は厳しい。アパート暮らしを始めたころに通っていた別府の定食屋のおばさんがつくる、古い油のにおいがするおかずや具の少ないクリームシチューに対しても…。

この本の厚さは情の厚さであり、普通の男なら、きっと1行も書かずに心にしまっておくような内容だ。表現しない限り、他人に侵される心配もないのだから。だが「ボク」の場合は逆で、他人に侵されないようにするために、渾身の愛を臆面もなく綴った。守りのためのナイーブな攻撃性は、痛々しくもある。

「ボク」がそっくりなのは、「オカン」ではなく、実は「オトン」である。父親から受け継いだ恐るべきDNAを自覚し始めるとき、「ボク」の攻撃性は和らぐのかもしれない。「オトン」は、自分の母親と相性の悪かった「オカン」をテリトリー外に追いやった人。その不器用でカタクナな愛は、「ボク」が守り抜く「オカン」への愛と相似形を描く。

東京の人々に愛され、華やかな葬式に加えB倍ポスターまでつくってもらった「オカン」の魅力ってマジですごいなと思うけど、私は、あまり人には好かれそうもない「オトンの母親」のほうにリアリティーを感じる。老人介護施設にいる彼女を「オトン」と「ボク」が揃って見舞う風景は美しい。映画なら、いちばん残るシーンはここ。
父探しの物語は、まだ始まったばかりだ。

2006-01-16

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『野ブタ。をプロデュース』 白岩玄 / 河出書房新社

内面のない男の子。

ドラマ「野ブタ。をプロデュース」が終わった。
まわりには「ドラマなんて見てない」「そのタイトルはどーかと思う」「KAT-TUNって何?」な人が多く、そのたびに私は「ドラマの中で『修二と彰』を演じたKAT-TUNの亀梨和也クンとNEWSの山下智久クンが歌うレトロな主題歌『青春アミーゴ』は今年初のミリオンセラーであり10代から40代まで幅広く売れている」とか「原作は文藝賞を受賞し芥川賞の候補にもなったステキな小説である」とか「1983年生まれの著者は『修二と彰』を足して2で割ったように見えなくもないジャニーズ系の男である」とか、たいして意味のないフォローをしたものだった。

私が本当に言いたかったのは、修二のキャラクターがいかに面白かったかってこと。自分の気持ちで動かない主人公、修二。要するに彼には「強い思い」がないのだ。現実へのイラだちや飢餓感とは無縁で、ちっともひねくれていない男。もしかしたら、原作を書いた著者にも「強い思い」なんてないんじゃないだろうか? と思ってしまうほど、それはリアルだ。

「変わりない生活はだらだらと続いていく。俺たちのだらだらぶりは多少時代のせいもあるはずだ。若者はいつだってその時代を如実に映している」

ただし必要以上に近づいてきて、内面に入ってこようとする奴に対してはビビりまくる修二。自分が実は冷たい人間なんじゃないかってことがバレちゃうからだ。ほとんどこの1点のみに怯えながら、人気者としての自分をプロデュースし、完璧に取り繕ってゆく修二。外見も育ちも要領も完璧に生まれついた男の子の、これは新しい悩みの物語なのか? コンプレックスがないことのコンプレックス。内面がないことの恐怖。だから今日も、修二は外側を着ぐるみで固めて学校へ行く。誰も入ってこれないように。

中身がないのに外見や口先がそれっぽくて、頭もよくて、根拠のない自信に満ちているって、どんな気分? 自分がプロデュースしたかっこいい自分。嘘でぬり固めた日常。だが、この小説には、そのことの底知れぬ空しさが描かれているわけではない。

「近過ぎたら熱いし、離れすぎたら寒い。丁度良いぬくいところ。そこにいたいと思うのはそんなに悪いことか?」

修二は、ださださの転校生をプロデュースし、人気者に仕立てる。プロデューサーってのは、客観的に人を見て、遠隔操作していくことだから、これは修二の得意技。だけど、相手は彼に感謝し、踏み込んでくる。そう、修二が苦手なのは、他人の心なのだ。その重さ。その深さ。そのまじめさ。そのうざったさ。やがて修二の冷たさは、思いがけないところで露呈してしまう。いったん着ぐるみがはがれると、何もかもうまくいかない。

「本当は、誰かが俺のことを見ていてくれないと、不安で死んでしまいそうだったんだ」

流暢な会話ができなくなり、しどろもどろになる修二はいとしい。丁度良い距離というのが、実はそれほど簡単には手に入らない、特権的なものだったことを彼は知る。

でも、そんな修二に対して、私は思う。
いつまでも冷たい、他人の気持ちなんてわからない修二でいてほしい。
弱みなんて見せない、表面的にかっこいい修二でいてほしい。
― この小説は、そんな思いにちゃんとこたえてくれる。

とりあえずラーメン食う。とりあえずマンガ読む。とりあえずテレビつける。悩みなんてなーんもないようにみえる。それが、男の子のあるべき姿なのだ。

2005-12-22

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