「フィクション」の検索結果

『対岸の彼女』 角田光代 / 文藝春秋

女の友情を描いたふりをしたホラーな純文学。

あまりにも冴えない、あまりにもぱっとしない世界。一体、何のためにこういう小説を書くのか? どこからこういうものを構築するのか? こういう小説を読む意味は何なのか?このネガティブさは、読者を危うく共感させてしまうほどだ。そこが角田光代という作家の恐ろしいところ。ネガティブなディティールの凄まじい積み重ねが、エンタテインメントにすら見えてしまう。

自分のコンプレックスを受け継ぐ娘、何で結婚したのかと突っ込みたくなるようなつまらない夫、嫌味なだけの姑、薄っぺらい友情、不器用でだらしない女社長、ジゴロみたいな醜悪な男・・・。読んでいるだけで不信感にまみれ、どっと疲れてしまう。やだなあ、こんな主婦も、こんな女社長も、こんな会社も、ここで働く女も、ジゴロみたいな男も、事業内容も、何もかも。

些細な苛立ちの集積が読者を疲れ果てさせる露悪的なフィクション。醜悪な日常が繰り返され、しかも、それは長いタームで繰り返される。気が晴れるような新しい風景はどこにも見出せず、ただ、掃除し残した場所を掃除し直すための人生。そのための再会。

この小説は一見、子持ちの主婦である小夜子と、独身の起業家である葵の対比を描いたものに見えるが、そうではない。小夜子と葵は、読んでいると混乱してくるくらい、ほとんど同じタイプの人間に見える。細密な描写と検証を重ねるほど似てくるのだ。それでは「対岸の彼女」とは誰か。

唯一、魅力的に描かれている人物に思いを馳せればわかる。ナナコである。高校時代のナナコだけが、あらゆる登場人物と異なる次元のことを言っている。彼女の立ち位置だけに、抜け感がある。謎が残されたままだからだ。

「あたし、大切じゃないものって本当にどうでもいいの。本当に大切なものは一個か二個で、あとはどうでもよくって、こわくもないし、つらくもないの」
ナナコが登場するとき、この小説はホラーになる。ぞっとするような底なしの美しさ。

「ずっと移動してるのに、どこにもいけないような気がするね」
高校時代の葵と家出し、補導される寸前の、ナナコのこのセリフは秀逸だ。どこにも行けないロードムービー。まさに、この小説のことである。ナナコだけが小説全体を俯瞰している。そして、ナナコだけが、どこかへ行ってしまうのだ。

そういう意味では、葵の父親もいい。職業はタクシーの運転手であり、どこにでも移動できる。こんな身軽で都合のいい父親、ちょっといない。そんな彼の計らいで葵とナナコが再会するシーンは、よしもとばなな「ムーンライト・シャドウ」を彷彿とさせる名場面だと思う。

著者のこの不思議なバランス感覚は面白い。リアリティを追求しないもののほうに、よりリアルな魅力があるのだ。小説とは、言葉とは、本来そういうものかもしれない。真実は、小説の中にあるのではなく、別のところに生まれる。小説を読むために小説があるのではなく、現実を生きるために小説はある。本をパタンと閉じて、外へ出るために。

2005-02-21

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『デッドエンドの思い出』 よしもとばなな / 文藝春秋

よしもとばななが愛される5つの理由。

「私はばかみたいで、この小説集に関しては泣かずにゲラを見ることができなかったですが、その涙は心の奥底のつらさをちょっと消してくれた気がします」(「あとがき」より)
泣きながら自分の小説のゲラを見るよしもとばななは、うっとりと鏡の中の自分に見入る松浦亜弥と同じくらい信用できる。本人が没頭できるというのは、何よりの品質保証だ。

「この短編集は私にとって『どうして自分は今、自分のいちばん苦手でつらいことを書いているのだろう?』と思わせられながら書いたものです」(「あとがき」より)
つらいことを美しく書き、苦手な人に美しい理解を示す。それは運命を支配することだ。言い換えれば、他者を勝手に美化するエゴイズム。でも、その作業をていねいにやっていけば傲慢ではなくなるはず。「あったかくなんかない」という小説には、その秘訣が明かされている。

「ものごとを深いところまで見ようということと、ものごとを自分なりの解釈で見ようとするのは全然違う。自分の解釈とか、嫌悪感とか、感想とか、いろいろなことがどんどんわいてくるけれど、それをなるべくとどめないようにして、どんどん深くに入っていく。そうするといつしか最後の景色にたどりつく。もうどうやっても動かない、そのできごとの最後の景色だ」(「あったかくなんかない」より)

「あったかくなんかない」は、反抗的な小説。
まことくんが抱く「明かりはあったかくない」という考えは、あまのじゃくだけど素直。人生における幸せの時間は、思いがけない瞬間に現れる。頑張って手に入れるものではなく、さりげなく曖昧なものだ。そういう時間がもてれば、家族が多いほうが幸せってこともないし、長生きが幸せってこともないし、孫の顔をみるのが幸せってこともない。決められた概念を手に入れるだけの人生は貧しすぎる。

「幽霊の家」は、保守的な小説。
若さゆえの残酷な別れ、SEXの悲しみと幸せ、タイミングの重要性、親から受け継ぐものの価値、長く続けることの意味。主人公のように本質的な生き方をしていれば、日々のちょっとした傷なんて簡単に癒えてしまいそうだ。唯一無二の運命を描きつつ、選択肢はひとつじゃないという小説。相手は誰だっていいんだといわんばかりに、流れに任せて生きる人が幸せをつかむのだ。この作品自体が「幽霊」のような幻想だと思う。

「おかあさーん!」は、ウソっぽい小説。
私たちは、かつて自分を傷つけた人、自分とうまくいかなかった人のことをどう考え、どう克服していけばいいのか。物理的な解決策ではく、普遍的な希望が提示される。つまりフィクションの効能。汚れた現実世界を救うのは「美しいウソ」なのである。

「ともちゃんの幸せ」は、ふてぶてしい小説。
感じる人は生きづらく、傷つく人は損をする。神様は、弱者に対して何もしてくれやしない。不確かで力をもたない祈りのような小説だが圧倒的。傷ついた心は、他人と共有したり、ぶつけあったりせず、ただひっそりと受け止め、こつこつと貯金すればいいのだ。

「デッドエンドの思い出」は、取り返しのつかない小説。
最後の3行だけで泣ける。泣けば他人にやさしくなれるか?そんなことは断じてない。自分も幸せになろうと思うだけだ。ますますエゴイスティックに。
著者は、この小説が「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです」といい、「これが書けたので、小説家になってよかったと思いました」とまでいう。世に出る前に、少なくとも1人を救った作品。何よりの品質保証だ。

2003-10-14

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『チコ』 フェケテ・イボヤ(監督) /

グローバリズムよりオープンな、ローカリズム。

前作の「カフェ・ブタペスト」(1995)以来、この監督の次の作品を待っていた。こんな映画、見たことがなかったから。そして、監督の顔写真が、あまりにかっこよかったから。

「カフェ・ブタペスト」には、社会主義が崩壊し、熱狂するブタペストとそこを訪れる若者や情報屋やマフィアが描かれていた。民族と言語と情報が交差する中、ソ連を脱出して西へ向かうロシアのミュージシャン2人と、西から刺激を求めてやってきたイギリスとアメリカの女の子2人が、ハンガリー女性が経営する安宿で出会う。通じない言葉のかわりに吹かれるサックス。そして、4人の「旅先の恋」のゆくえ―
ある時代のある地域でのみ獲得できる越境的な視点。それは、いわゆるグローバリズムとは一線を画す「開かれたローカリズム」なのだった。

監督は、フェケテ・イボヤというハンガリーの女性。タバコに火をつけようとしている彼女のポートレートは、まるでエレン・フォン・アンワースが撮ったキャサリン・ハムネットの写真みたいだ。

そして、ようやく「チコ」(2001)がやってきた。今度は、女と恋愛の出番が少ない戦場映画。しかも「この映画はフィクションドキュメンタリーが一緒になったフィクショナルフィルムである」などという人をくったようなクレジットが最初に流れる。

たしかに過去を回想するというフィクションの王道形式なのだが、主役のチコを演じるエドゥアルド・ロージャ・フロレスの生々しい存在感のせいで、彼自身の人生を取材したドキュメンタリー映画としか思えない。それとも、ハンガリーには、こんなすごい俳優がいるのか?

ネット上で見つけた監督のインタビューで、ある程度のことがわかった。彼が「カフェ・ブタペスト」の出演者の一人(ロシア人闇市場のチェチェン・マフィア)であったこと。アマチュアの俳優である彼のキャラクターに着目した監督が、その人生をフィクション化したのが「チコ」であること―
彼はスパニッシュ・ハンガリアンであり、カソリック教徒のユダヤ人であり、共産主義者になるための教育を受け、クロアチア戦争では武器を手にして戦った。この映画は、そんな彼の混沌としたアイデンティティ・クライシスをテーマにした「イデオロギーのアドベンチャー映画」なのだという。

映画の中の彼は、ボリビア人とユダヤ系ハンガリー人の間に生まれ、ボリビアの政変によりチリに移住し、軍事独裁が始まるとハンガリーに亡命し、ゲバラに憧れて青年共産党に入る。軍人を志望し情報部に配属されるが、権威主義にうんざりしてジャーナリストになり、遂には武器をとる―

切実に何かを探し、移動を続け、サバイバルを繰り返す人間が、最後に守るものは何か?多くのものを溜め込んでしまった人や国には、思い出すこともできない感覚だ。カルロス・ゴーンは「家族がいるところが我が家だ」と書いていたが、チコには子供もない。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるチコの姿に、「風が土をさらうだけ」という切ない歌詞が重なって映画は終わる。風と土。ザッツ・オール。すべてが失われた後の風景には、答えなんてない。

監督は、より本質に肉迫するためにフィクションという手法を選んだのだろう。本質への近道。それは、安易に答えを出したり説明したり誘導したりしないことに尽きると思う。

*2001年 ハンガリー
*4月6日ハンガリー映画祭にて上映

2003-04-14

『アマデウス ディレクターズ・カット』 ミロシュ・フォアマン(監督) /

男の嫉妬はアンビバレント。

嫉妬には2種類ある。広辞苑にはこう書かれている。
1.自分よりすぐれた者をねたみそねむこと。
2.自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。

「キミよりもAのほうが優れた人間だから」という理由で最愛のBに見捨てられてしまった場合、Aに対する嫉妬が1、Bに対する嫉妬が2ということになる。Bの愛情を取り戻すためには、Aに勝たなくてはならない。つまり1の嫉妬は「相手の才能を排除」することへ、2の嫉妬は「相手の愛情を独占」することへと向かう。シンプルだ。

だが、1と2の嫉妬が入り混じったアンビバレントなケースもある。たとえば「キミよりもAのほうが優れた人間だから」という理由で多くの人々に見捨てられたのにも関わらず、自分もAの才能を愛してしまった場合。Aをねたみつつも、その才能を排除することはできないだろう。代わりにほかの誰よりもAを理解しようとするのではないだろうか。つまり「相手の才能を独占」し、奪い取ることで、多くの人々の関心を自分のもとへ呼び戻そうとする。

相手の才能を独占し、奪い取る? そんなことができるのだろうか?
「アマデウス」は、このような凄まじい嫉妬の顛末を描いた作品だ。

禁欲的に生きる凡庸な宮廷音楽家サリエリは、天才モーツァルトの品のないキャラクターに驚きつつ、それを利用する。「才能はあるが危ない男」と周囲に吹聴しながら、自分だけが彼に近づくのだ。憧れの女を汚されるなど悔しい思いをしているのにもかかわらず「こいつの音楽を本当に理解できるのは自分だけ」というような屈折した自負心を隠し持つサリエリ。神を呪い、復讐の野望を抱く一方で、モーツァルトの才能に打ちのめされ翻弄されてゆく。

若い神父の前で、こうした感情のすべてを吐露する年老いたサリエリの演技は、何度見てもすばらしい。とりわけモーツァルトの才能と音楽を語る彼の恍惚の表情が、すべての暗い感情を一掃するとき、この映画を見てよかったなと思う。どんな嫉妬をもあっさり乗り超えてしまう才能が、あらゆる苦悩をちゃらにしてしまう音楽が、世の中には確かに存在するのだ。映画自体の設定はばりばりのフィクションでありながら、そこに流れるモーツァルトの旋律は、まぎれもないリアルとして観客の魂を揺さぶる。

今回加わった20分間の映像で印象的なのは、モーツァルトを異なるアプローチで愛する2人「モーツァルトの妻 VS サリエリ」の対決シーンだ。サリエリの前で大胆に服を脱ぎ、あとで大泣きするというシンプルな妻の行動が、サリエリの苦悩の複雑さを際立たせる。男たるサリエリは、脱ぐことも泣くこともできないのだから。まったく、男ってやつは大変だなと思うけれど、それでも私は、サリエリがモーツァルトの音楽に打ちのめされたように、男が男に抱く嫉妬のどうしようもなさと美しさに迫ったこの映画に打ちのめされてしまう。

*2002年アメリカ映画(オリジナル版:1984年 アカデミー賞8部門等受賞)
*新宿・テアトルタイムズスクエア(~11/15)、テアトル梅田(~11/8)で上映中

2002-11-08

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『JLG/自画像』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

規格外の孤独をもとめて。

「JLG/自画像」(1994)の前に、12分の短編「フレディ・ビュアシュヘの手紙」(1981)が上映された。
この短編のみずみずしい余韻に浸ってしまい「JLG/自画像」はどうでもよくなってしまった。ゴダールの映画は短いほどいい、と思う。

スイスのローザンヌ市500年を記念して、市の発注でつくられた短編だそう。映画づくりに関するメタ映画であり、ローザンヌという街のスケッチであり、この街をよく知るゴダールの心象風景でもある。ゴダールの原点はドキュメンタリーなのだ、と確信した。

道路での撮影を警察にとがめられ「緊急事態なんだ」と強行しようとするシーンがある。「この光は2度とないんだから」というわけだ。確かに映画監督にとって、光との出会い以上の「緊急事態」はないかもしれず、私も自分の中で、そんな「緊急事態」を設定しておきたいなと改めて思った。最優先事項と言い替えてももいい。世の中は、緊急でないことに急ぎすぎているのではないだろうか。

「水はロマンだが、街はフィクションだ」という言葉が出てくる。つまり、自然は曲線でできているのに、街は直線でできているという意味。「青と緑を取り違えてもいい」というような誰かの言葉も引用されるが、本当にそう!自然の色は、ディックの色チップでは指定できない。スクリーンに映し出される水面は、生きているかのようだ。

直線が優先される世の中を思う。ロマンよりフィクションが優先される本末転倒な社会。つくられたもの、不自然なもの、がちがちの規格。私たちは、そんな街に抱かれて生きていかなければいけない。自分の今立っている地点から、すべては始まるのだというこの短編のメッセージはとても本質的で、励まされた。

「JLG/自画像」は、本人が登場するせいか、メッセージが直接的で愚痴っぽい。だけど、風景や室内の撮り方は洗練されている。セリフに関しては「おやじ」だが、風景に関しては「おじさま」なのだ。

途中、大きな影がスクリーンの中央に現れた。上映前に「傷などは作品にもともと収録されているものなのでご了承ください」というアナウンスがあったのだが、日本語の字幕がほとんど消えてしまうこの影は、明らかに事後トラブルである。誰かが文句を言いに行き、映画は中断。途中から再上映された。もしも影が小さくて字幕に影響しない程度であれば、私は「別にいいや」と思っただろう。でも、シネマコンプレックスで上映されるハリウッド映画だったら、我慢できなかったはず。

映画の形式をこわし、わがままにつくられた作品が何らかのアクシデントでこわされた場合、「本人がこわしたか、後でこわされたか」の判断は難しい。規格外の作品は、自由であるがゆえに議論されにくいのだ。エンタテインメント作品が「ひどいSFXだ」とか「犯人がわかっちゃうからつまらない」などと具体的に厳しく攻撃されがちなのに対し、規格外の作品は、つまらなくても「嫌い」「見苦しい」「勝手にやれば」などとしか言われようがない。

「誰もが規則を語る。タバコ、コンピュータ、Tシャツ、TV、観光、戦争を語る。(中略)みな規則を語り、例外を語らない」
(「JLG/自画像」より)

自分が生きているうちに、自分の作品についてもっと多くの人に語ってほしいというのが、ゴダールの最大の希望なのではないかと思う。

*渋谷・ユーロスペース、大阪・扇町ミュージアムスクエアで上映中。

2002-09-18

amazon(JLG/自画像) amazon(フレディ・ビュアシュへの手紙を含む)