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『ル・アーヴルの靴みがき』 アキ・カウリスマキ(監督)

笑顔がない町の、幸せとは?

アキ・カウリスマキ監督は、イタリアのジェノヴァからオランダに向かって海岸沿いをドライブしていた時、北フランスの港町ル・アーヴルに出会ったという。カルヴァドスとブルース、ソウル、ロックンロールの町。
フィンランドの監督が撮る初めてのル・アーヴルは、どこでもない町だ。すべてのカットが計算された色と光と象徴的な構図から成り立っており、エドワード・ホッパーの絵のような喪失感、浮遊感に目を見はる。小さな町の日常を撮っているように見えるが、それはむしろ旅行者の視点なのだ。
監督の5年ぶりの新作は、この町から世界につながった。<少年の放浪3部作>とでも呼びたいジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」(1980)ストローブ=ユイレの「アメリカ(階級関係)」(1984)マイケル・ウィンターボトムの「イン・ディス・ワールド」(2002)などに。 

表現をそぎおとすことで、真実が浮かび上がる。ドキュメンタリーとは逆の手法だ。この映画がそぎ落としたものは何かといえば、笑顔、会話、動き。要するに、すべての<過剰な演技>だ。この映画が明るいとするなら、その明るさは本物だ。笑顔を排除して、なお残る明るさとはどういうものか。究極の問いに迫る描写が、胸を打つ。
道徳的な善悪の価値観も、そぎ落とされたもののひとつだろう。いいか悪いかではなく、好きか嫌いか、カッコいいかカッコわるいか、面白いか面白くないかという価値観で成り立っている映画なのだ。その結果として、難民少年はこうだとか、中年女性はそうだとか、靴磨きはああだとか、病院はどうだとか、世間一般に流布しているイメージや映画的な紋切り型から逃れ、リアルな感触を獲得している。
漠然としたほのぼの感とは対局にある、遊び心のエッジが立っている。あらすじを語るのであれば、高齢、貧困、病気などのキーワードが欠かせないかもしれないが、はたしてこの映画には、ほんとうに貧困と病が描かれていたのだろうか? そんなものはどこにも映っていなかったんじゃないだろうか? 

大島依提亜さんという人がデザインしたこの映画のパンフレットは、とてもお洒落な装丁だ。分厚い表紙は難民少年が着ていたセーターの柄だし、扉に使われている紙は主人公の妻のワンピースの柄なのである。これをみて、ああこの映画はファッション映画だ、と思った。酒とたばことロックンロールにまみれたファッション映画。つまりそれは幸せってことだ。
登場人物たちは、酒とたばことロックンロールのはざまで、自分の仕事や人生にとって大切なものを言葉少なに語ったり、語らなかったりする。奇跡とは、日常の小さな信条の積み重ねなのだと確信できる。 

世界につながる、終盤の船のシーン。人は船に乗って、何を見るのだろうか。それは過去なのか未来なのか。その答えが、わずかなカットに凝縮されていて、号泣。

2012-05-09

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『ゴモラ』マッテオ・ガッローネ(監督)

悪い仕事で稼ぐのは、悪いこと?

『ゴモラ』は旧約聖書に登場する町。繁栄を極めたが、道徳的退廃により天に滅ぼされた商業都市だ。2008年、カンヌで審査員特別グランプリを受賞した作品だが、日本での公開はようやく今。かえって、いいタイミングだったかもしれない。今や日本のそこかしこが、この映画と同じ匂いを放ち始めていることに、私たちは気付いてしまったのだから。治安のいい国に住んでいてよかったなんて安心してる場合じゃない。

イタリア4大マフィアのひとつといわれる「カモッラ」についての映画だ。監督は「カモッラのメンバーの日常生活すべてを見せたかった」と言う。そこには批判的な視点やメッセージはない。丁寧な描写と事実に基づいた物語があるだけだ。俳優と素人を混在させ、カモッラに支配された町全体をドキュメンタリーのような手法で撮っているのだから、映画がカモッラ批判であれば、当然、町の協力は得られなかっただろう。

ナポリを拠点とするカモッラは、3日に1人、30年で4000人もの命を奪っている暴力・犯罪組織だ。ドラッグ売買や武器の密輸、産業廃棄物の不法処理(汚染地域では発がん率が20%上昇)、不動産投資(ツインタワー再建にも彼らの資金が流入している)で多額の利益を得ているほか、建設、観光、アパレル、銀行など多くの事業に参入しているという。子供から老人まで、周辺住民はすべてカモッラに関わっており、日常シーンと殺戮シーンが同居している。

5つのエピソードがあるが、どの話もテーマは「仕事」である。悪事に手を染めるきっかけはどこにだってあり、就職はその入り口だ。モラルを破るのは簡単で、この町では、モラルに抵触しないで生きることのほうが難しいだろう。組織を裏切れば、命の保障などないのだから。

13才のお洒落な少年トトは、晴れて組織の一員となるが、対立組織との抗争に利用され、親友を欺かなければならなくなる。

大学を卒業したロベルトは、産業廃棄物の不法処理会社に就職する。高収入で安定した管理業務だが、現場の状況や被災者の姿を目の当たりにし、自分はこの仕事に向いていないと社長に切り出す。

仕立屋のパスクワーレは高級オートクチュールの下請けとして働き、搾取されているが、彼の腕を見込んだ中国人の縫製業者が「工場で技術指導をしてくれ」と近づいてくる。業者を訪ねると手料理で歓待されるが、車での移動時は危険なためトランクに押し込まれる。工場では拍手で迎えられ、堂々と実技を教えるパスクワーレ。妻と赤ん坊の待つ家に帰ると「マエストロと呼ばれたよ。スズキの料理が旨かった」と言い、破格の報酬を妻に渡すのである。

ほかに、組織の帳簿係をつとめる中年男の話と、組織に属さずにやんちゃな行動を繰り返す若者2人組の話が展開されるが、この2つのエピソードの顛末は悲惨である。

最も救いがあるのはパスクワーレの話だろう。最終的に彼は危険な目にあい、下請け会社の社長に命を助けられる。給料を上げるから仕事を続けろと言われるが彼は断る。最後のシーンでパスクワーレはトラック運転手をやっており、休憩時間にTVを見ている。小さな画面に、米国の女優スカーレット・ヨハンソンが彼の仕立てたドレスを着た姿が映し出されるのだ。
そのときの彼の表情が秀逸だ。どんな状況であろうと、ものをつくる行為の周辺には、美しい空気が漂う瞬間があるのだ。手に職があり、技術に誇りをもっていれば、必ずそれを正しくお金に換え、生きていけるはずだと信じたい。パスクワーレはトラックで走り去るが、彼はどこへ行くのだろう。

映像はリアル、音楽はポップ、デザインはソリッド。おぞましい効果音が流れる殺戮現場など、現実にはないということだ。エンディングテーマはマッシヴ・アタック。最前線のクリエーションが融合したこの映画に、希望を感じる。

2011-12-01

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『サウダーヂ』富田克也(監督)

地方都市は、世界の最前線。

日本の地方都市には、まだ撮られていないもの、描かれていないことがいっぱいあるんだなと思った。東京にいると、いろいろあり過ぎて何だかよくわからないカオスだけど、地方都市はシンプルでナイーブな最前線。一人ひとりの行動が目立ち、それはそのまま隠しようのないドラマなのだ。

舞台は、監督の故郷である甲府。仕事がなくなっても「土方でもやればいいや」と思っていたという、その最後の砦としての土木作業の現場が、リーマンショック後の厳しい現状を映し出す。甲府のラッパーは、世の中への不満をそのまま言葉にのせ、過激な思想へ傾倒する。甲府でコミュニティをつくり生活しているタイ人やブラジル人の状況はさらに深刻だ。

39歳の監督は、映画専業ではなく、トラック運転手をやりながらこの作品を撮ったという。土方を演じたのは、監督の中学時代からの同級生。本物の土方(超かっこいい!)である彼は当初、監督にこう言った。「自分もふくめた現実の状況が余りにもキツすぎて、映画にするのはツライよ」。しかしその後、監督が現場に入り込み、改めて話し合った結果「やっぱりこれは撮らなきゃダメだろう」と口を開いたのも彼だった。監督は、仕事帰りの早朝の高速道路で、現場出勤前の彼と、携帯電話で熱い議論を交わしたそうだ。

ほかにも演技の素人を多数起用。つまりこの映画には、たくさんの本物が登場する。1年のリサーチ期間を経て(この間に撮影された映像は編集されドキュメンタリー映画になっている)寄付金を集め、週末しか時間がとれないため、撮影には2年かかった。かつての賑やかな商店街を再現したシーンは、現実のさびれた商店街で撮影されたが、かつての活気が戻ってきたと感激する人もいたらしい。いいシーンは本当にたくさんあるが、このシーンを見るだけでも価値がある。

お金がないとか、時間がないとか、無名の人しか使えないとか、そういう言い訳は、もう通用しない。やりたいことを、楽しみながらやり切ってしまったように見えるこの映画は、インディペンデントであることを、すべてアドバンテージに変換することに成功したのである。

2時間47分、スクリーンに釘付けにさせ、しかも笑いが尽きない。時間をかけた撮影から生まれたリアルが、リッチに注ぎ込まれているからだ。インディペンデントとは思えない波及の仕方で海外の映画祭にも招待され、共感を呼んでいる。ハンディは長所、ピンチはチャンス、アンチテーゼは自由への扉なのだと思う。

2011-11-02

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 』バンクシー(監督)

限りなくイタズラに近い映画。 

美術館へ行くと、ミュージアムショップの広さと充実ぶりに驚くことがある。 

「EXIT THROUGH THE GIFT SHOP(ギフトショップを通り抜けて出口へ)」というこの映画のタイトルは、商業的な美術マーケットを皮肉っているのだろう。ストリート・アートに関するドキュメンタリーだが、映画自体がストリート・アートのようでもあり痛快だ。

古着屋を営むティエリーは、趣味のビデオカメラでストリート・アーティストを追いかけ、撮影している。ストリート・アートは非合法の落書きのようなものだから警戒するアーティストも多いが、ティエリーは彼らと一緒に危険な場所にのぼってアシスタントをつとめたり、警察に捕まらないよう見張りまでするから、彼らも受け入れてしまうのだ。

覆面アーティストのバンクシーにもようやく会え、条件付きで撮影を許可される。バンクシーは、公衆電話を壊したり、イスラエルとパレスチナを隔てる壁に穴の絵を描いたり、美術館に自分の作品を勝手に展示したり(大英博物館はその後、彼の作品をコレクションに追加した)というゲリラ的なパフォーマンスで知られる人。映画では、2006年、ディズニーランドのビッグ・サンダー・マウンテンのコース脇に、キューバのグアンタナモ収容所の囚人を模した人形を置いた際の、取り調べの顛末が明らかにされている。グアンタナモ収容所は、テロとの戦いの象徴として拷問などが問題視された場所だ。

ティエリーは膨大な記録ビデオを編集するが、それを見たバンクシーは、彼には映画監督の才能はないと判断し、ストリート・アーティストになるようアドバイス。立場は逆転し、バンクシーがティエリーを撮り始めるのである。この映画は、絵も描けない素人が一日で有名になりデビューするにはどうしたらいいかという無謀なプロジェクトの記録だ。さすがバンクシー、ただものじゃない。壮大ないたずらをアート界に仕掛けたのである。自分に近づいてきたマニアからカメラをとりあげ、「お前のほうが俺より面白い」と自分は覆面のまま、身軽な映画に仕立ててしまった。実際、ティエリーはその気になり、かなり無茶をする。

ストリート・アーティストの反骨精神を骨抜きにするのは、取り締まりではなく、作品を絶賛し、高く買い上げることかもしれない。作品として扱われ、高い値段がつけられ、美術館に飾られたストリート・アートって一体何なの?と思う。落書き禁止の場所が増えた代わりに、指定の場所にどうぞ描いてくださいなんて言われたら、一体どうすれば?

最終的に暴かれるのは美術マーケットの滑稽さか、それともストリート・アートの暗澹たる未来か。

映画が終わってロビーに出ると、関連商品やグッズに人が群がっていたけれど、私は売店を通り抜けて、身軽に渋谷の街へ繰り出すことにした。

2011-07-26

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『あしたのジョー』 曽利文彦(監督)

身体改造の可能性。

男はどうすればかっこよくなれるのだろう。親に可愛がられるか、虐待されるか。矢吹丈の場合は捨てられた。「俺を捨てた親が悪い、社会が悪いってひねくれてた。力石と会ってボクシングをやる前はな。おっちゃん、ありがとな」

矢吹丈を演じた山下智久はどっちなのか?満足に食べられない中、毎日厳しいトレーニングを続けた彼は言う。「普段ほとんど怒ったりしないんですけど、あの頃は気性が荒くなっていていろんなことが抑えられなかった。喧嘩っぱやくなるというか、何にでも突っかかっていっちゃうんです。人間、追い込まれると隠れた闘争本能が出てくるのかな」

そして、力石徹を演じた伊勢谷友介の計量シーンの凄まじさ。「乳製品、炭水化物、揚げ物、甘いもの…一切食べませんでした。(中略)これと同じことをやれば日本国中が、すごいスタイルになると思う。ただ“食えない”“飲めない”ってことは、想像以上にしんどかった。生活を維持するためにまず必要なのが、エネルギーじゃないですか。これがなくなると人間ってこんなに殺伐として、攻撃的になるんだってことを知りましたね。(中略)人としゃべりたくなくなるし、黒~い負のオーラを出してしまう」
身体を変えることで目覚める野性。そのドキュメンタリーとして、この映画はおもしろい。出発点には、原作を損ねないようにという強い動機がある。『あしたのジョー』という作品は、それほどまでに男たちが表現し、近づきたい畏怖の世界なのだろう。

人間は、本を読んでも変わらない。自分に都合のいいものを読み、都合のいい部分に感激するだけだ。ある意味、身体をなぐられなければ人間は変わらない。身体を変え、感じることには限りない可能性があると思う。だけど、男の身体改造は暴走する。力石徹の計量シーンも「誰もあそこまでやれとは言わなかったし、実際撮影の当日、彼の体を見て“誰がここまでやらせたんですか!?”と監督に詰め寄るスタッフもいたほど」とボクシング&アクション指導をおこなった梅津正彦は言う。伊勢谷ファンの女子は悲鳴をあげた。えぐれたお腹を、かっこいい、美しい、と感動する人も。伊勢谷自身は「自分が演じたあの人は、映画の中にしかいないから。あの中にいる人はボクとは違う人だから」というようなことをインタビュー番組でクールに言っていた。俳優には女の感覚がわかっているかもしれない。些細な変身を日々強要されたり、自ら楽しんだりしている女の感覚が。

映画のあとで食事に行った店のシェフは、ボクサーのような人だった。ソリッドな空間で、異次元の料理を出す人。誰もやらないこと、どんなカテゴリーにも属さないことを、徹底的にそぎ落とすことで実現しようとしている人。有名になっても、ちやほやされてもハングリーな人。一度完成させたものを壊し、環境を変え、やるべきことや才能をしぼりこんでゆく人。彼はレストラン界の『あしたのジョー』なのか? 俳優じゃないから、戻って来れないくらい徹底的に突き進んでしまうのかもしれない。

私は、ジョーのハンチングとコートをまねし、ハングリーな人のつくった料理を食べる。ボクサーでも料理人でも俳優でも男でもないので、そのくらいのことしかできない。でも、それだけでソリッドな気分にはなれる。自分が命をかけてやるべきことを、やらなくては。身体が変わるくらいに、やってもいいんじゃないか。ダイエットとか、オシャレとか、レンアイとか、そういう他力本願で甘い香りのする言葉は使わずに、女も、本質的な変わり方をするべきなんじゃないか。そんなことを思ったりする。

2011-02-19

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