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『何も変えてはならない』 ペドロ・コスタ(監督) /

ペドロ・コスタ。エグルストン。音の職人。

「途中で眠ってしまうような映画がどうして面白いの?」と私のマッサージを担当してくれる人は不思議そうに言う。そう、私は、眠くなるほど退屈な映画が好き。ううん、正確に言えば、眠くなるほど気持ちいい映画が好きなのだ。それは、あなたにマッサージしてもらう時と同じ。もっと話をしていたいのに、笑っていたいのに、つい眠ってしまう。だけど、何をしてくれていたのかは肌がちゃんと覚えている。

ペドロ・コスタ監督の『何も変えてはならない』を見た。たった10文字なのに眠くなってしまうようなタイトル。音楽ドキュメンタリーだというので私は期待した。
先月、この監督の短編をいくつか見て、音のとらえ方の鮮やかさに驚いたばかりだった。その後、来日中の監督と佐々木敦さんのトークを聞いたのだが、メインは音楽の話。ペドロ・コスタは、BGMとしての音楽なんてほとんど使わないのに、いや、使わないからこそ、音に対してものすごく意識的な人だったのである。

私はこれまで『ヴァンダの部屋』(2000)を見ても、『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)を見ても、『コロッサル・ユース』(2006)を見ても、自分がこの監督のどこに惹かれているのかよくわからなかった。しかし、気付く人は最初から気付いている。「こうき」さんのレビューからの引用。

「その街の一角が取り壊される音だけは、ヴァンダの耳に響いてくる。ヴァンダはその音によってのみ知りたくもない周囲の環境=移民街の変化を知らされることになる。(中略)音楽。その音だけは、移民街にあって唯一の希望のように見える。ヴァンダの部屋に響く音や、時折、街角で聞こえてくるディスコやヒップホップ、そして取り壊し現場の職人が着るボブ・マーリーのジャケット(中略)。ヴァンダでさえもテクノが響く街のクラブの前でたたずむ。その光景は、ヴァンダが唯一見せる実存の瞬間であり、貧困への抵抗のちょっとした現れであるのかもしれない」

『何も変えてはならない』は、歌手としても知られるフランス人女優、ジャンヌ・バリバールのライブリハーサルやレコーディング、コンサート、歌のレッスンなど、音楽の現場に密着した音のロードムービーだ。
ペドロ・コスタが初めて音楽と正面から向き合ったこの映画は、このままずっと聴いていたいと思う心地よさだった。同じフレーズを延々と繰り返すリハーサルシーンなんて退屈ともいえるけれど、歌う女優、音を出すメンバーらは、淡々とした作業をごく普通に楽しんでいることがわかる。好きということは、飽きないということなのだ。私はうっとりと音に浸りながら「ああ私もバンドをやりたい!」と『ソラニン』の種田のような気分にもなったが、どちらかといえば、今すぐ自分の仕事場に戻って、何十時間も心ゆくまで言葉と格闘したいなと現実的なことを思ったのだった。

年配の日本人女性2人がカフェで煙草を吸うシーンがあったが、日本人が見ても「ここはどこ?」と思う不思議なシーン。監督は、この場面の音を作るためだけに2週間を費やし、楽しみながら作ったという。監督もまた、音づくりの作業に没頭していたのである。

この日は、映画の前に、原美術館で開催中の『ウィリアム エグルストン:パリ-京都』を見た。エグルストンがとらえた京都は、やはり「ここはどこ?」がほとんどであった。お茶を撮った1枚には笑った。福寿園でも一保堂でも辻利でもなく、それは伊藤園のペットボトルだったから。エグルストンが故郷メンフィスで撮った唯一の映像作品『ストランデッド・イン・カントン』も、そういえば、音に意識的な映画だった。

2010-08-09

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『ウルトラミラクルラブストーリー』 横浜聡子(監督) /

ラブは、どこに宿るのか?

これはラブストーリーなのか? 
違うかも、とタイトルの文字を見て思う。だって一瞬読めないじゃん、これ。大橋修さんのデザインみたいだけど、監督が発注したのだろうか? センスいいなー。この映画がほのぼの系のラブストーリーじゃないってことがわかるもん。

映画が始まって思う。タイトルが読めないだけじゃなく、セリフも聞き取れないじゃん。野性的な幼稚園児たちが、ばりばりの津軽弁(らしい)をしゃべってる。日本語なのに理解を超えている。方言ってすごい。ワイズマンのドキュメンタリーを見ているみたいで、次第に興奮してくる。

主人公の彼(松山ケンイチ)は、幼稚園児と同じような感じでしゃべり、動く。ちょっと頭がヘン? だけど、その判断もできないし、しなくていいし、しないほうがいいってことがわかる。最初からわかんないという前提で、自由に呼吸しながら見ることのできる映画なのだ。

テーマは脳である。だって<脳のない人>と<脳そのもの>が登場するのだから、シンボリックでわかりやすすぎる。私たちは人の何を愛しているのだろう? <脳のない人>と<脳そのもの>ならどっちがいい? ラブって何? ラブってどこ?

農薬をあびて「進化」しようとする彼(松山ケンイチ)は、まじで恋する男の子だ。こんなに鬱陶しい感じで愛されたら、普通はどうなる? 逃げるでしょう? だから、東京から深い理由があって青森へやってきたエキセントリックな彼女(麻生久美子)の態度には、見習うべきものがある。

<嘘つきでよくわからない男>が<脳のない男>として描かれるのが面白い。つまり、この映画における脳とは、表層的な頭のよさではなく、気持ちの誠実さのシンボルなのである。だけど、脳は永遠じゃない。この映画に出てくる<あっけない死>はすごくいいなと思う。自分が死んだあとも、自分を覚えてくれてる人がいれば…なんてぐじぐじ思うのって、なんだか貧しいから。

これは、脳ブームへの挑戦状だ。
中村一義のエンディングテーマも、タイトルデザインと合っていて最高!

2009-07-17

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『ジダン-神が愛した男』 ダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノ(監督) /

サッカー × アート = 見たことのない肖像。

2005年4月23日のレアル・マドリード対ビジャレアル戦。
ヨーロッパで初めて使用される高解像度カメラを含む17台のカメラがジダンを追った。
監督は、現代美術の分野で活躍する2人の映像アーティスト。この映画をジャンル分けするなら、商業映画でもなく、スポーツドキュメンタリーでもなく、ファンのための映画でもない。まだ誰もやったことのないことに挑戦した実験映画だ。

準備に1年、製作に1年を費やし、カンヌ国際映画祭に出品。日本では話題になりそうもなかったのに、W杯決勝の「頭突き事件」がタイムリーなプロモーションとなった。この映画(試合)の結末も、たまたま「ジダンのレッドカード退場」だったのだから。

上映時間が95分で、終盤に退場ときいて、試合の流れをリアルタイムで撮ったドキュメンタリーを想像した。ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズのライブを撮ったパゾリーニの言葉をヒントにしたという。17人のカメラマンが、ひとりのプレーヤーを主観的に追うことで「サッカー生活」の実像に近づいた。

主観的な視点を増やすことは、ドキュメンタリーから遠ざかることを意味するんじゃないだろうか? とても広告的な実験だと思う。編集にかけた時間と作り込みの凄さは、半端じゃないはず。ジダンの息遣いまで聞こえるような臨場感ある音づくりやナレーションもそうだし、ハーフタイムには、その日に起きた世界情勢の映像が流れる。音楽は、今年のフジロックにも出演するイギリスのロックバンド、モグワイの書き下ろしだ。

*2006年フランス=アイスランド
*シネカノン有楽町で上映中

2006-07-18

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『MOOG(モーグ)』 ハンス・フェルスタッド(監督) /

ピュアな冒険家 ― モーグ博士とフラハティと中村史郎。

電子楽器の神様、ロバート・モーグ博士は、物理学と電子工学が専門。
1964年に初のシンセサイザー「モーグ」を世に送り出した人だ。

モーグを愛するミュージシャンへのインタビューやライブが楽しめる映画。ビースティ・ボーイズの1月来日公演にも同行したマニー・マーク、ラウンジ系モンドミュージックをファッションにしたステレオ・ラブ、プログレで名高い元イエスのリック・ウェイクマン、ファンクな下ネタ連発のバニー・ウォレルなど、モーグをマジで叩きまくるパワフルな旧世代から、ゆるゆるのレトロ感覚で取り込む最近の世代までバラエティに富んでいる。

モーグの魅力を100%引き出すことに成功しているのが、エド・ケイルホフというシンセプレイヤーによるシェイファービールのCF。1969年ごろNYで撮影されたらしいが、「男は黙ってシェイファービール」というコピーに驚いた。このコピーはサッポロビールのオリジナルかと…。

シンセサイザーの電子音というのは、もはや癒し系の音なのだと気付く。そう、初期のシンセは、コンピュータを使わないアナログな機械。「素晴らしい楽器をありがとう」とモーグをリスペクトする人たちが博士と会話する様子はハッピーそのものだ。

サビついたトヨタ・ターセルに乗るモーグ博士は、シンセの電子回路を「感じる」ことができる。新しいアイディアも、自分のものではなく、どこからかやってくるのだという。博士はそれを感じとり、次のプロセスにつなげるだけなのだ。

「ある映画作家の旅-ロバート・フラハティ物語」(みすず書房)の中の「先入観なしに」という言葉を思い出した。ドキュメンタリーの父、ロバート・フラハティがエスキモーの生活に密着した代表作「極北のナヌーク」(1922)を見て衝撃を受けた私だが、このひとことで映画の謎がすべて解明されたような気がしたのだった。モーグ博士の生き方も、まさにこれだと思う。何かを見つけるために勇んで冒険するのではなく、自然に外へ出て自然に帰ってくるような趣味的な冒険家。

エスキモーの子供が、複雑なシャッター機構をもつカメラを、その目的も知らないまま監督に代わって組み立ててくれたというエピソードも印象的だ。「極北のナヌーク」の上映会では全員がスクリーンに突進したというほどイノセントなエスキモーの人々が、カメラという機械に対する天性のセンスを持ち合わせているというのだから目からウロコ。エスキモー語には、「作る」「創造する」という言葉がないというが、ロバート・フラハティも、そんな彼らを映画として撮る前に、先入観や目的なしに「感じた」のだと思う。

先日、日常のものをプロがデザインしなおすというコンセプトの番組「ニューデザインパラダイス」の総集編を見た。面白いものがないなと感じる中、ひとつだけすごいものがあった。日産のデザイン本部長、中村史郎がつくったクリスマスケーキである。クリスマスに家路へ向かう雪道を表現したという高さのある白いケーキ。これには驚いた。だって、ケーキである前に、道なんだもん。クルマや道路のことばかり考えている異分野の人だからこそ、子供みたいな感覚で、どこにもないものがつくれるのだろう。

チョコレートについての雑誌のインタビューでも、結局は日産のマーチにショコラというボディカラーがあるという話になり「あのクルマはトリュフに似てませんか?」なんて言っていた中村史郎さんは、ロバート・フラハティやモーグ博士と、どこか似ている。

*2004年アメリカ映画
*シブヤ・シネマ・ソサエティでレイトショー上映中

2005-04-07

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『カルヴィーノの文学講義/新たな千年紀のための六つのメモ』 イタロ・カルヴィーノ / 朝日新聞社

名前と涙―イタリア文学とストローブ=ユイレ

文学の価値を決める要素とは何か?
文体、構成、人物造詣、リアリティ、そしてユーモアである。
…などという凡庸なことをカルヴィーノは言わない。

現代イタリア文学の鬼才が出した答えは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」。
こんな章立てを眺めているだけでうっとりしてしまう本だけど、カルヴィーノは1984年、ハーヴァード大学で実際に6回の講義をおこなった。(6回目のテーマ「一貫性」のメモはない)

文学を語りながらイメージについて語るカルヴィーノ。文学の魅力は映画の魅力と同じじゃん!と私は思い、5つの要素にストローブ=ユイレがつながった。フランス出身だが、原作に合わせてドイツ語映画やイタリア語映画も撮っている監督夫妻だ。

彼らの映画の第一の魅力は「軽さ」だと思う。わずか18分の軽妙な処女作「マホルカ=ムフ」(1962)、あるいは、もっとも一般受けしたという「アメリカ(階級関係)」(1983-84)を見ればわかる。後者はカフカの未完の長編小説の映画化だが、船、エレベーター、バルコニー、列車へと移動する主人公の軽やかさは、何度見ても釘付け。カルヴィーノの「軽さ」についての講義も、まさにカフカの短編小説「バケツの騎士」の話でしめくくられているのだった。

「早すぎる、遅すぎる」(1980-81)という2部構成のカッコイイ映画の魅力は「速さ」。ロータリーをぐるぐる回るクルマの車窓風景から始まり、農村や工場を延々と映したり、田舎道を延々と走ったりしながら政治や歴史を語る風景ロードドキュメンタリーだ。

「視覚性」を追求した映画は「セザンヌ」(1989)。セザンヌの絵やゆかりの風景を、評伝の朗読とともに凝視することで、地層の奥や歴史までもが見えてくる。

「正確さ」なら、レナート・ベルタのカメラが冴える2本「フォルティーニ/シナイの犬たち」(1976)と「労働者たち、農民たち」(2000)だ。前者は人がしゃべり終わって沈黙した後もずーっとカメラを回し続け、ゴダールよりも徹底している。演技やそれっぽさを排除することで、引用の意味が際立つ。映画化とは、原作を正確に伝えるための方法を選ぶことなのだ。

神話、家族、故郷、対話といった「多様性」の魅力は、同じくヴィットリーニを映画化した「シチリア!」(1998)とパヴェーゼの映画化である「雲から抵抗へ」(1978)で味わえる。棒読みの演技、寓話的な物語、そしてストレートな対話の魅力は、ロッセリーニとゴダールとパゾリーニワイズマンを足したような面白さ。

原作と風景と人間へのリスペクト。そこには必然性と自由がある。「シチリア!」という映画であれば、シチリア出身者をシチリアで撮ることに最大の意味がある。料理と同じで、テクニックやレシピよりも、大切なのは素材なのだ。

ヴィットリーニといえば「名前と涙」という掌編(新読書社「青の男たち-20世紀イタリア短篇選集」に収録)が印象に残っている。よく見るために目をつぶり、そのものを描かないことで浮かび上がらせるような作品だ。ある名前を地面の奥深くに書き付ける主人公の姿を思うと、それは映画の一場面になる。その名の人物は姿を現さず、涙をふいたハンカチだけがあとに残る、失われつつある記憶についての物語。

言葉を追っているのに、いつのまにか言葉が消えてしまうような…そんな映画がいいなと思う。

2005-01-27

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