「ドキュメンタリー映画」の検索結果

『フレデリック・ワイズマン映画祭2004』 アテネ・フランセ文化センター /

美化されないから、美しい。

飲み会で、外資系銀行に勤める女子が言う。「昨夜も飲みすぎて、今日は会社休んじゃったんだけど、ここへ来るまでに何人も会社の人とすれ違って、気まずかったよー」。
保証会社に勤める男子は言う。「実家が新潟の被災地の近くで、会社の人たちから見舞い金をもらっちゃってさ。休みを取ったら、帰るの?大変だねって言われて、イタリアに遊びに行くなんて言えなかったよー」。
実際はナーバスな状況なのだろうが、彼らが楽しそうに話すので、私も笑いながら聞いてしまう。

会社の話が面白いのは、そこが「建て前」で成り立っている場所だからだ。建て前は、時に美しい―。

個人的な演技を撮るには俳優や演出が必要だが、社会的演技(=建て前)はそのまま撮影すればいい。集団の中では、誰もが特定の役割を担っており、演技することが自然だからだ。フレデリック・ワイズマンは、ある集団における人々の描写に徹することで、建て前から真実をあぶりだしてしまう。

ワイズマンのドキュメンタリー映画は、さまざまな場所で撮影される。精神異常犯罪者を矯正するマサチューセッツの刑務所(「チチカット・フォーリーズ」1967)、ハーレムの大病院(「病院」1970)、NATOのヨーロッパ演習エリア(「軍事演習」1979)、ニューヨークのモデル事務所(「モデル」1980)、ダラスの高級百貨店(「ストア」1983)、アラバマの障害者技術訓練校(「適応と仕事」1986)、黒人ばかりが住むシカゴ郊外の公共住宅(「パブリック・ハウジング」1997)、フロリダのDV被害者保護施設(「DV」2001) などだ。

「これは○○な時代を生き抜いた××な男たちの物語である―」といった説明的なナレーションや大袈裟なBGMに慣れてしまうと、世の中は感動的なエピソードだらけのような気がしてくるが、ワイズマンの映画を見ると、そんなものは実はどこにもないことがわかってしまう。つまり、そこに描かれているのは、淡々とした等身大の日常そのもの。一面的な結論を捏造しないことで、多様な現実が見えてくる。

ワイズマンと好対照をなす2人の映画監督が思い浮かぶ。1人は、キッチュな映像とミスマッチなナレーション、ずたずたに切り刻んだ音楽などを組み合わせ、よりわかりやすく人々を啓蒙するジャン=リュック・ゴダール。もう1人は、独善的な視点から世の中の構造を単純化し、ニール・ヤングルイ・アームストロングなどの曲をまぶすことで、よりわかりやすくエンターテインメント化するマイケル・ムーア。2人の監督が自分の存在を前面に押し出すのに対し、ワイズマンは自分の存在を徹底的に消す。観客へのサービス以前に、ひたすら興味の対象を注視することから生まれる純粋な映像は、ドキュメンタリーの原点というべきもので、心洗われる。視聴率の呪縛から逃れられないテレビの人が見れば、命の洗濯になるのではないだろうか。

とりわけ、仕事をテーマにした「モデル」「ストア」「適応と仕事」の3本は美しい。モデル事務所で面接を受けるモデルたちにも、百貨店で働く従業員たちにも、職業訓練をこなす障害者たちにも励まされるし、一人ひとりのモデルに短時間で的確なアドバイスをするモデル事務所のスタッフや、確固たる企業ポリシーを語るニーマン・マーカス百貨店の経営者、一人ひとりの障害者についてじっくり討議する技術訓練校のスタッフなど、組織側の人間の社会的演技(=建て前)にも救われる。

ワイズマンは美しいものばかりを選んで撮っているのだろうか? まさか!
手術、嘔吐、凶悪犯罪…胸が悪くなるような正視に堪えない映像が一方にあるからこそ、この3本の「普通の美しさ」が際立つのだ。

2004-11-29

『ヴァンダの部屋』 ペドロ・コスタ(監督) /

汚い部屋でヘロヘロになる3時間。

ポルトガル・リスボンのスラム街。そこに住む人々の暮らしをそのまま撮ったという感じの映画だ。ヴァンダというヒロインの部屋のシーンがいちばん多いが、最初、私はヴァンダを男だと思った。声もしゃべり方もしぐさも着こなしも、女とは思えなかったのだ。

個人的な信頼関係なしに、プライベートな空間をここまで密着撮影することは不可能だろう。自室でのヴァンダは片時も麻薬を手放さず、ヤク中であることは疑う余地がない。妹と一緒にいることも多く、男が訪ねてくることもあるけれど、ほとんど布団から動こうとしないヴァンダは、ライターでアルミホイルを焙る手先だけが妙に注意深く、その行為ばかりが不毛に繰り返される。ちょっとヤバイんじゃないのお?って誰もが思うような変な咳をして、布団の上にゲーって吐いたりするヴァンダを見ていると、お願いだからその布団を今すぐ洗ってくれ!と言いたくなる。

セクシュアリティすら削ぎ落とされたかのように見えるジャンキー女の部屋を、固定カメラで延々と撮る意味があるんだろうか? ヴァンダの部屋を一歩出れば、居間には赤いソファやテレビや野菜があるし、お母さんだっているし、ヴァンダ自身もけっこう普通に生きている。ブルドーザーで破壊されつつある路地の風景や、世間から追いやられているように見える人々の会話が希望に満ちたものとは言い難いけれど、その色や光は美しい。そういうものだけを撮ってくれればよかったのに、と思うのだ。

だけどこのフィルムは、ヴァンダの部屋というホームポジションを撮らなければ、映画にならなかったかもしれない。外へ外へとカメラは出て行き、ここがリスボンのどういうスラム街で、どのような状況にあり、この国の政治経済はどうかということまでを偏った「神の視点」で斬る、凡庸な構造的ドキュメンタリーになってしまったことだろう。監督はその逆をやった。徹底して個人に迫り、個人を描写した。

自分の部屋というのは本来、人に見られたくないことをするための場所でもあるのだから、絵に描いたような幸せを享受している某国の女の部屋だって、案外こんなものかもしれない。親の目が届かない自室で危ないものを吸引したり、危ない男を連れ込んだり、危ないネット取引をしている女も珍しくないだろう。この映画は、見る人を観光客ではなく訪問者の気分にしてくれる。ヴァンダのそばにいることで、うっそーと思いながらも、いつの間にかなじんでいく感じ。どこへも移動しないのに、個人的な体験に根差したロードムービーになっている。

私は終始、ぼーっとしながらこの映画を見ていた。普段ぼーっとしてるのに、映画を見ているときだけ画面に集中しなければいけないのは不自然だ。その点、この映画は半分くらい寝ていたって大丈夫。あんた誰?って思う人も出てくるけど、自分の周囲を見回したって、よくわからない人だらけなのだから、わからない人物が存在することのほうが自然に決まってる。

娯楽映画やテレビやエンターテインメント翻訳は、とてもわかりやすくて面白いけれど、その多くをすぐに忘れてしまうのはサービス精神が過剰だからだと思う。わからないものはそのまま見たいし、翻訳は直訳のほうがいい。翻訳できない部分にこそ面白さはあるのだ。サービス精神に満ちた編集フィルムを集中して見ていても、体は何も感じない。それは受身の風景にすぎないから。

うとうとしながらヴァンダと過ごした3時間と彼女を取り巻く空気を、私は忘れないだろう。

*2000年 ポルトガル=ドイツ=スイス
山形国際ドキュメンタリー映画祭 最優秀賞受賞
*上映中

2004-03-30

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『ブラウン・バニー』 ヴィンセント・ギャロ(監督) /

女性ファンを捨てたギャロ。

「バッファロー’66」のギャロは可愛いけど、「ブラウン・バニー」のギャロは可愛くない。

彼は、もはや自分しか見ていない。プロデュース、監督、脚本、主演、ヘアメイク、衣装、美術、撮影監督、カメラ・オペレーション、編集のすべてをこなし、男のエゴと孤独をナルシスティックに突き詰めることで、中途半端なファンを切り捨てた。「バッファロー’66」は上質なエンタテインメントだが「ブラウン・バニー」はミニマムなロードムービー。彼は、女にもてるだけのかっこよさから、本物のかっこよさへと突き抜けた。

男の旅や仕事の空しさを、ここまで赤裸々に見せた映画があるだろうか。こんなもの、できれば見たくない。が、カメラを手に放浪する男たちのほとんどが、カッコつけすぎていてカッコ悪すぎる、という現実をふまえると、ギャロはよっぽどマシである。男が旅に出るんだったら、このくらいまでやらなくちゃ。あるいはカメラなんて持たずに出かけるか。

ギャロ演じる男は、ニューハンプシャーでのバイクレースを終え、次のレースのため、HONDAを黒いバンに積みカリフォルニアへと向かうのだが、この男がレーサーでよかったなと、つくづく思う。単なる放浪男だったら、許せません。かろうじてOKなのは、レースという男の仕事の途中だから。かつてバイクレーサーだったギャロは、実際にレースに参加して冒頭のシーンを撮影したという。細部の「本気」が、映画を「ギリギリのかっこよさ」へと導いているのだ。

男は旅の間、ずっとメソメソしている。「バッファロー’66」では、女にクルマのフロントガラスを拭かせる神経質っぽいシーンがあったけど、この映画のフロントガラスは、ずっと汚れたまま。拭いてくれる女は、いないのだ。

リリー、ローズ、ヴァイオレット・・・花の名前をもつ通りすがりの女たちを、男は、雑草を摘むようにナンパする。だが、彼には本命のデイジー(クロエ・セヴィニー)という花がいて、彼女のことしか頭にない。好きな女も支配できず、雑草も道連れにできない彼は、永遠に成熟できない「茶色いうさぎ」。根っこのある花たちに、走り続ける小動物の気持ちがわかるはずもなく、男はほんの少し蜜を吸い、自己嫌悪に陥るだけだ。

彼の屈折した感情は、デイジーとの再会シーンですべて説明されるのだが、私には、ギャロという監督が、クロエ・セヴィニーという女優に向かって「どうしてお前はハーモニー・コリンの映画に出たんだよ?オレの映画だけに出ろ!」と詰め寄っているようにしか見えなかった。

ギャロは、ハーモニー・コリンの「ガンモ」(1997)を本気で嫌っているらしいけれど、ハーモニー・コリン脚本、ラリー・クラーク監督の「KIDS」(1995)「KEN PARK」(2002)は嫌いではないはず。だが、若者を偏愛し、彼らと楽しく映画を撮っているように見えるラリー・クラークやパゾリーニとは違い、ギャロは何者も愛せない。これはもう、ロバート・クレーマーに共通する個人的なドキュメンタリー映画といっていいんじゃないだろうか。ギャロは、彼の映画「Doc’s Kingdom」(1987)に出演しているらしいし…すべては、つながっているのだ。

渋谷シネマライズでは「年忘れハード・コアNIGHT」と称して「ブラウン・バニー」「ラストタンゴ・イン・パリ無修正完全版」「愛のコリーダ2000」をオールナイト上映していたけど、そうじゃなくて!
お願いだから、イエジー・スコリモフスキ「出発」(1967)モンテ・ヘルマン「断絶」(1971)とロバート・クレイマーの「ルート1」(1989)と一緒に上映して!

*2003年アメリカ
*上映中

2003-12-31

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『10話』 アッバス・キアロスタミ(監督) /

これは、ドキュメンタリーじゃない。

女がテヘランの街を車で走り、固定されたデジタル・ビデオが車内を撮影する。監督やスタッフは同乗していない。嘘みたいにシンプルな手法の「隠し撮り風映画」だ。

彼女の息子、姉、老女、娼婦らが助手席に乗り込み、会話を交わす。「10話」から始まるからラストが「1話」。カウントダウンによって期待が高まり、オチもあるから、ちっともドキュメンタリーらしくはない。手法に関しては究極のミニマリズムなのに、監督の意図がムンムンだ。

息子を除き、助手席に座るのはすべて女。しかもほとんどが「うまくいっていない女」。彼女自身は、アートなお仕事をするバツイチの自立した美人である。

これがイランの現実?そうなのかもしれない。だけど、もっと何かあるはずでしょう、日本の女が驚くようなきらめく細部が。この映画に登場するのは、オーソドックスな話ばかりなのだ。女は失恋するとなかなか立ち直れなかったり、髪を剃っちゃったり、娼婦になっちゃったり・・・驚きがないのがこの映画の驚きで、上から見下したようなおやじっぽい視線を、主役の彼女に代弁させている感じが不快。ゴダールみたいに監督自身がぐちぐち説教する映画のほうがタチがいい。

救いは、彼女の息子が10話中4話に登場すること。彼の元気な表情が映ると、それだけでほっとする。母との会話にうんざりして外に飛び出しちゃったりする彼だが、実のところ、この映画の説教くささに耐えられないのだと思う。それを素直に暴いてしまう唯一の存在。結果的にこの映画は、子供の使い方が圧倒的にうまいキアロスタミらしい作品になっているし、やたらと作り込みの目立つイラン映画らしい作品でもある。

さて、私はその後、ドキュメンタリーのお手本のような映画を見てしまった。フレデリック・ワイズマン「DV―ドメスティック・バイオレンス」である。夫の暴力に耐えかねた女が駆け込むDV保護施設を中心にカメラが回され、演出も脚本もナレーションもない。必要な情報はすべて自然な形で語られる。職員も被害者も真剣だ。被害者の女たちが、カメラを気にせずに語るなんてありえないだろうと普通は思うし、撮影許可が下りないだろうとも想像する。でも、できるのだ。

「私は普通の体験をドキュメントすることに興味がある。家庭内暴力がありふれた人間の行動である以上、映画の題材にふさわしいと思った」とワイズマンは言う。そこには感動も共感も押し付けがましさもなく、自分の存在を消すことのセンスが際立つ。重要なのは、監督が現場から消えることではなく、いながらにして存在感を消すこと…。

ワイズマンは、山形ドキュメンタリー映画祭の機関誌「documentary box」で、アメリカの国道1号線をひたすら南下する至高のドキュメンタリーロードムービー「ルート1」を撮った故ロバート・クレーマーと対談している。「我々は見えない存在になりたいんだ」とクレーマーが言い、ワイズマンが「その通りだ」と頷く。

そしてこうも言う。「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」

●「10話」(アッバス・キアロスタミ)
2002年/フランス・イラン/94分/ユーロスペースで上映中
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」(フレデリック・ワイズマン)
2001年/アメリカ/195分/アテネフランセで上映中
●「ルート1」(ロバート・クレーマー)
1989年/USAフランス/255分/アテネフランセで上映中

2003-09-09

amazon 10話 (パンフレット) amazon ルート1

『チコ』 フェケテ・イボヤ(監督) /

グローバリズムよりオープンな、ローカリズム。

前作の「カフェ・ブタペスト」(1995)以来、この監督の次の作品を待っていた。こんな映画、見たことがなかったから。そして、監督の顔写真が、あまりにかっこよかったから。

「カフェ・ブタペスト」には、社会主義が崩壊し、熱狂するブタペストとそこを訪れる若者や情報屋やマフィアが描かれていた。民族と言語と情報が交差する中、ソ連を脱出して西へ向かうロシアのミュージシャン2人と、西から刺激を求めてやってきたイギリスとアメリカの女の子2人が、ハンガリー女性が経営する安宿で出会う。通じない言葉のかわりに吹かれるサックス。そして、4人の「旅先の恋」のゆくえ―
ある時代のある地域でのみ獲得できる越境的な視点。それは、いわゆるグローバリズムとは一線を画す「開かれたローカリズム」なのだった。

監督は、フェケテ・イボヤというハンガリーの女性。タバコに火をつけようとしている彼女のポートレートは、まるでエレン・フォン・アンワースが撮ったキャサリン・ハムネットの写真みたいだ。

そして、ようやく「チコ」(2001)がやってきた。今度は、女と恋愛の出番が少ない戦場映画。しかも「この映画はフィクションドキュメンタリーが一緒になったフィクショナルフィルムである」などという人をくったようなクレジットが最初に流れる。

たしかに過去を回想するというフィクションの王道形式なのだが、主役のチコを演じるエドゥアルド・ロージャ・フロレスの生々しい存在感のせいで、彼自身の人生を取材したドキュメンタリー映画としか思えない。それとも、ハンガリーには、こんなすごい俳優がいるのか?

ネット上で見つけた監督のインタビューで、ある程度のことがわかった。彼が「カフェ・ブタペスト」の出演者の一人(ロシア人闇市場のチェチェン・マフィア)であったこと。アマチュアの俳優である彼のキャラクターに着目した監督が、その人生をフィクション化したのが「チコ」であること―
彼はスパニッシュ・ハンガリアンであり、カソリック教徒のユダヤ人であり、共産主義者になるための教育を受け、クロアチア戦争では武器を手にして戦った。この映画は、そんな彼の混沌としたアイデンティティ・クライシスをテーマにした「イデオロギーのアドベンチャー映画」なのだという。

映画の中の彼は、ボリビア人とユダヤ系ハンガリー人の間に生まれ、ボリビアの政変によりチリに移住し、軍事独裁が始まるとハンガリーに亡命し、ゲバラに憧れて青年共産党に入る。軍人を志望し情報部に配属されるが、権威主義にうんざりしてジャーナリストになり、遂には武器をとる―

切実に何かを探し、移動を続け、サバイバルを繰り返す人間が、最後に守るものは何か?多くのものを溜め込んでしまった人や国には、思い出すこともできない感覚だ。カルロス・ゴーンは「家族がいるところが我が家だ」と書いていたが、チコには子供もない。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるチコの姿に、「風が土をさらうだけ」という切ない歌詞が重なって映画は終わる。風と土。ザッツ・オール。すべてが失われた後の風景には、答えなんてない。

監督は、より本質に肉迫するためにフィクションという手法を選んだのだろう。本質への近道。それは、安易に答えを出したり説明したり誘導したりしないことに尽きると思う。

*2001年 ハンガリー
*4月6日ハンガリー映画祭にて上映

2003-04-14