「ゴダール」の検索結果

『ゴダールのマリア(無修正版)』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

女子高生が処女懐胎したら?

「背中に羽がはえた人」がスクリーンに登場すると、がっかりする。
安易な小道具を使わずに、天使あるいは天使のような人間であることを表現してくれなければ、観客の楽しみはあらかじめ奪われてしまう。「ピアノ・レッスン」「ベルリン・天使の詩」もそうだった。

映画の前半は、ゴダールのパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルの作品「マリアの本」(1984年・28分)。
主役のマリアには羽こそはえていないものの、「鋭い感覚をもつ無垢な少女」であることが過剰に説明される。自由になりたいがために夫との別居を望む妻、父母の不仲の間に立たされる少女というテーマはありきたりだし、妻がマリアを置いて別の男と外出するラストにはリアリティがない。父親を訪ねてマリアが列車で旅するあたりはいい感じだけど、マリアの友達が「うちは別居してなくてよかった」などと類型的なセリフを吐くのだから意気消沈。現実の子供なら、よくも悪くも、もう少し面白いことを言うだろう。

「鋭い感覚をもつ無垢な少女」であるマリアは、朝食のテーブルで林檎をぐちゃぐちゃにしながら唐突に眼球手術の説明を始めたり、ゆで卵の殻を首切りみたいにナイフで切り落としたり、ボードレールの「悪の華」を音読したり、マーラーを聴きながら憑かれたように踊ったりする。マリアのエキセントリックな演技はこの作品の唯一の見どころだが、母親が「何でも遊びにしちゃうのね。変な子」というような陳腐な言い方で説明してしまうため、私たちは「マリアの変さ加減」に身をゆだねることすら叶わない。そうだ、この作品は「母親のつまらなさ加減」をあらわした映画なのだ。母親が、家族のみならず、映画全体を台無しにしてしまうのだから。マリアよ、今すぐ父のもとへ行け!

後半は、ゴダールの作品「こんにちは、マリア」(1984年・80分)。
処女懐胎とキリストの誕生をテーマにした作品だが、姪を連れたガブリエルという男が飛行機でジュネーブへやってきてタクシーを乗っ取り、目的は何かと思えば、マリアに受胎告知をしにいくのである。(鈍感な私は、この男が天使であることに、なかなか気付かなかった。なんといっても羽がはえていないのだから!)。受胎告知されるのは、ガソリンスタンドの娘でバスケをやっている高校生マリア。最終的な受胎確認が産婦人科でおこなわれるというのも、あたりまえのようでいて面白い。普通の女子高生が普通のおじさんに受胎告知されたって、誰も納得できないわけだから。

納得できないのは、ボーイフレンドのヨセフも同じ。マリアにキスもしてもらえない彼は動揺し、「誰と寝たんだ?」なんて詰めよる。ヨセフは当初、ジュリエット・ビノシュ演じるジュリエットから結婚を迫られたときも煮え切らない態度でうじうじしているし、なんだかとても情けなく、リアリティのある男なのだった。

パリでの封切時には、カトリック系団体の大規模な抗議運動が起きたという、いわくつきの映画。もちろん「こんにちは、マリア」に対する抗議である。たとえマリアの下腹部のアップが少なかったとしても、キリスト誕生の瞬間に牛の出産シーンが挿入されなかったとしても、この映画が神への冒涜と受け取られたことに変わりはなかっただろう。権威とリアリティは、いつだって仲が悪いのだ。

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2002-09-15

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『パッション(無修正版)』ジャン=リュック・ゴダール(監督)

2人を同時に好きになったら、真実は別のところにある。

情熱あるいはキリストの受難という意味をもつ「パッション」は、この映画の中で製作されるビデオ映画のタイトルでもある。出資者はイタリア人で、監督はポーランド人。レンブラントの「夜警」ゴヤの「裸のマハ」アングルの「小浴女」などの名画が、凝った衣装とモデルたちの動きによって再現される。だが「本物の光と物語」が見つからないため、撮影は進まない。

監督は、近くの工場でエキストラを探し、工場長の姪を裸にしちゃったり、不倫相手の工場長夫人(ハンナ・シグラ)を主役に抜擢しちゃったり、リストラされた女工(イザベル・ユペール)と二股かけちゃったりする。2人の女を昼と夜にたとえ、その中間に映画の主題を求めようとしたりもする。昼と夜は、経営者と労働者、昼の産業(工場)と夜の産業(映画)などのメタファーでもあるようだが、監督は撮影現場に行かず、女の髪を撫でながら「労働と愛は似ている」などとつぶやくのだから、しょうもないスケベ野郎だ。

「パッション」を見て思い出した映画が2つある。

1つめはパゾリーニの「リコッタ」(1963イタリア)。
オーソン・ウェールズ演じる映画監督が、キリストの受難を描いた宗教画を映像化する。キリストと共に十字架に張り付けられるエキストラの男は、昼食を食べ損ね、ようやく手に入れたリコッタ・チーズを食べ過ぎて本当に十字架の上で死んでしまう。つまり宗教画を演じながら、現実的な理由で死んでしまうというパロディで、ほかにも娼婦がマリア役を演じたりしていたことから、パゾリーニはカトリックを侮辱した罪に問われた。

2つめがキェシロフスキ「アマチュア」(1979ポーランド)
工場のドキュメンタリーフィルムを撮り始めた工員は、アマチュア映画祭で入賞するまでになるが、映画のせいで仕事や家庭が破綻していく。彼は、ありのままを撮ることの困難をどう克服するか?共産党政権下、孤高のラストシーンで答えを出したキェシロフスキは、この作品でモスクワ映画祭グランプリを受賞した。

どちらの作品も、映画の原点というべき突き抜けた強さと面白さがあるが、ゴダールの「パッション」はその点、中途半端。工場経営はうまくいかず、ビデオ映画制作もうまくいかず、工場長夫人は恋敵の女工を伴い、監督はさらに別の女を誘い、彼らを乗せた2台の日本車は、別々に戒厳令下のポーランドへ旅立つのだ。なんと無責任で軽薄なエンディング!そんな突き抜けたチープさにも、やっぱり私は痺れてしまう。

「パッション」にはこんな会話が出てくる。

娘「どうして、ものには輪郭があるの?」
父「輪郭なんてないさ」

2人の女、昼と夜、労働と愛、絵画と映画、音楽と映画…異なる概念を自在に取り込み、揺れ動きながら、そのどちらでもない、まったく別の新しい真実を求めればいい。ゴダールがやっているのは、そういうことだ。輪郭を外し、映画らしくない映画を撮ること。映像とセリフは噛みあわず、クラシックの名曲はズタズタにされ、耳ざわりなクラクションやハーモニカが映画の邪魔をする。

歳をとるとは、輪郭を濃くすることかもしれない。生活を固め、社会的地位を固め、他者を威圧し、しかるべきものを残そうとする。ただし、そんな生き方をお手本として押し付けられるのは、ちょっとつらい。
過剰な荷物はいつでも捨てて、何の心の準備もないまま、さっとクルマに乗ってどこかへ行ってしまう。そんな輪郭の不確かな生き方を、忘れたくないと思う。

*1982年スイス=仏映画
*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中

2002-08-19

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『フォーエヴァー・モーツァルト』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

めくってみる。走ってみる。挫折してみる。

ゴダールの映画を見ると、ボルヘスの「伝奇集」プロローグを思い出す。
「長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労多くして功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすこと」

ゴダールは、1つの短編で世界を語りつくしてしまうボルヘスのように、1ショット1ショットに膨大な情報をエネルギッシュに詰め込む。一瞬も見逃すことができないけれど、一瞬だけ見ても満足できる。とっても燃費がいいのだ。

「フォーエヴァー・モーツァルト」には、一応のストーリーがあり、映画の企画から上映までの話になっている。そして、それは、いちいちうまくいかず、雇われ監督はこんなふうにつぶやく。
「映画で途方もなく悲しいのはこういう時だ。無限の可能性がありながら、根本で放棄した痕跡」

だけど、一箇所だけ、うまくいくシーンがある。「ウィ」と女優が言うだけのテイクを600回以上繰り返すシーンだ。やけになった女優は走り出し、一緒にカメラも走り出す。浜辺に倒れ込んだところで、女優は最後の「ウィ」を言うのだが、このとき、雇われ監督は、オリヴェイラの美しい言葉を引用する。
「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる。壮麗な徴たちの飽和」

「勝手にしやがれ」(1959)「ワンプラスワン」(1968)のラストを思わせるみずみずしさだ。大切なのは、とりあえずやってみること。動くこと。前に進むこと。

映画のラストはモーツァルトの演奏会で、最終的に残るのは楽譜をめくる音のみ。ゴダールは、フィルムがカタカタまわる音で「映画史」(1988-98)を表現したが、この映画では、パサッパサッという紙の音で「音楽史」を表現したのだろうか。譜めくりの音はやたらと速く、まるで、この映画自体のテンポの速さと節操のなさを表しているかのよう。モーツァルトの楽譜をめくっても、映画のシナリオをめくっても、ただの白い紙をめくっても、だいたい同じ音がするはずなのだから、やっぱり、大切なのは、めくり続けること。音が出なくても演奏をやめないこと。

人は、「自分がやらないこと」に関しては、口だけで大きなことを言うことができる。映画を撮らない限りは映画を罵倒することができるし、俳優にならない限りは彼らを揶揄することができる。会社経営をしない限りは経営者を大声で批判できる。それは「やらないでいることの強み」だ。

子供が堂々と正論を言えるのは、まだ何もやったことがないからだが、大人になっても何もやらないでいれば、いつまでも「自分ならうまくできる」という幻想を抱くことができる。やらないでいる限り、子供のころからの夢はこわれない。夢をこわしたくないから、自分の能力がないことがわかってしまうのがこわいから、いつまでもやらないでいる。

いったん楽譜をめくり始めれば、夢は消えるだろう。うまくいかないことばかりのはずだ。
恐ろしいが、幸せなことだと思う。
「やらないでいることの強み」という幻想を捨てること。それが自由への第一歩なのだとゴダールは教えてくれる。

*1996年 仏・スイス・独合作
*渋谷ユーロスペースで上映中

2002-07-27

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『愛の世紀』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

好きだから、挑発する。

ゴダールが40代の時に撮った映画「ウイークエンド」には、こんなやりとりがある。
「オレの日本車(ホンダS800)にさわるな」
「ギア・ボックスはポルシェだろ?」
この突っ込みには、ほとんど意味がない。

一方、70代で撮られた「愛の世紀」には、こんなやりとりがある。
「ロータスだね。父がチャップマンと知り合いだった。このクルマを発明した人」
「あら、そう?」
「歴史は嫌いかい?」
この突っ込みには、ものすごく意味がある。ロータスエリーゼに乗っているのが米国の黒人女性だからだ。他のシーンでも「ハリウッドには物語も歴史もない」「アメリカ人に過去はない」「記憶がないから他人のを買う」というような辛辣な言葉がくりかえされる。

ゴダールの小舅化(!)はかくも著しく、「愛の世紀」では、映画への愛としかいいようのない皮肉やうっぷんを具体的なストーリーにのせている。ただし、作品の完成度が高いわけではなく、何かがわかりやすく結晶しているわけでもない。相変わらず破壊的で挑発的な映画だ。たとえば喋っている人間が画面に映らなかったりするから、その場に誰と誰がいるのか全然わからないし、モノクロの「現在」に対し、鮮やかなデジタルカラーで「過去」が表現されるというあまのじゃくぶり。主役の女性はいつのまにか死んでおり、船、ヘリコプター、列車などの移動アイテムが時間的、物理的な距離を物語る。

インタビューの中でゴダールは言っている。
「私は原則的にいつも他の人たちがしていないことを選んでやっている」
「議論がしたい。哲学的な意味で。しかし、もう誰もそんなことはしたがらない。(中略)彼らはこう言うだけなのだ、『見事です、感動しました、何も言うことができないなんて、ひどいですよね?』と」
「昔は仲間も多かったし、完璧な信頼関係があった。今では映画作家たちの関係は崩れつつある。だが、まだ絶望することはない。(中略)技術は自分のものであり、特権だ」

ゴダールと同世代の、青山の鮨屋の店主は言う。「銀座にも青山にも仲間がいなくなってしまった。今や築地にも軽口たたき合える相手はいない」と。齢をとるとは、気心の知れた人間が周囲にいなくなるということなんだなと私は理解した。生涯現役を貫く職人は、若い世代から距離を置かれ、こんな無謀な映画を撮っても「巨匠」とあがめられてしまうのである。
最近、鮨屋の目の前に、流行りの巨大なスシバーができた。なるべくなら、私は鮨屋に行きたいと思う。説教されちゃうけど、美味しいんだもん。技術を純粋に楽しむのだ。

70代のゴダールにとって重要なのは歴史だ。モノクロで描写されるパリの街は、ゴダールの原点であるドキュメンタリーになっているし、セーヌ河の小島に立つルノーの廃工場を長回しで撮ったシーンも忘れ難い。この工場が安藤忠雄の手で美術館に生まれ変わるというのも楽しみだが、歴史をフィルムに残そうという思いも美しい。愛ってこういうことなのだ。風景こそが映画であり、登場人物は何を語ったっていい。

女「(彼と)別れてからいろいろ考えだしたら、物事が意味を持ち始めた」
男「おもしろい言い方だ。あることが終わり、あることが始まる。君のでも僕のでもない物語。僕らの物語が始まる。親しくはなくとも。物語=歴史」

この映画、愛し合う2人が登場するわけでもないのに、愛にあふれている。他人の愛に絶望することはあっても、世界に対する愛が自分の中にあれば、それが失われることは決してないのだ。

*2001年フランス=スイス映画
*日比谷シャンテシネで上映中

2002-05-08

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『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!

新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中

2002-05-03

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